あたしは
「あたしは千代子じゃない。あたしは吉田真智子。あたしは──」
硝煙と砂塵に澱んだ街に女の声が沈んでいく。逆巻く炎が大地を黒く焦がし、天を赤く染める。死臭を運ぶ風。死体を埋める火。
「や、やめて……千代子ちゃん……」
姫宮玲華は呼吸を浅くした。地を這いずる羽虫のように、細かい火の粉が白い肌を伝い、鋭い痛みが皮膚を痙攣させる。つい先程までの曇り空に涼しい街は熱帯夜に霧散した夢のようで、黒煙と絶叫を押し潰す戦闘機の重低音が街に業火を撒き散らす光景はまさに地獄そのものだった。その色も音も痛みも幻とは思えない。玲華はただ怯え、惑い、悲しんだ。目の前の痩せた女の声が怖かった。得体の知れない彼女の声に戸惑った。自分を必死に肯定しようとする吉田真智子の声を哀れに思った。
「ち、千代子ちゃん……」
「あたしは千代子じゃない。千代子じゃないの。あたしは、あたしは、あたしは吉田真智子だから。あたしは千代子じゃない」
その答えを玲華は知らなかった。吉田真智子は確かに山本千代子の生まれ変わりで、戦中に死んだ山本千代子の魂が吉田真智子の器に入っているのだと、玲華は信じて疑わなかった。彼女は魔女だった。魔女である玲華は、人であろうとする彼女の問いに対する答えを持っていなかった。
「あたしは──」
突風が黒い煙を吹き飛ばす。
薄いタイヤでアスファルトを削るような車の摩擦音が街を覆う業火を掻き消していく。
玲華の長い黒髪がさらりと流れると、ゆっくりと顔を上げた吉田真智子は愕然とした表情で目を見開いた。
大炎が涼やかな風に溶けて落ちる。黒煙が曇り空に薄れて晴れる。湿った土の匂いが玲華の頬を掠めると、細い髪を押さえた玲華は後ろを振り返り、そうして車体の錆びた白い軽自動車に瞳を細めた。
「大宮さん……」
荻野新平の低い声に最後に残った炎が白い煙をあげた。玲華が細い首を傾げると、吉田真智子は痩せた首を微かに動かし、一歩、ふらりと足を後ろに下げた。
「大宮さん……いや、今は吉田さんか……。久しぶり……と、そう言えばもう俺たち、学校で会ってるよな……」
荻野新平はそう言って、少し照れくさそうに無精髭を撫でた。
「俺だよ、新平だ。荻野新平だ」
「新平さん……」
「色々と変わっちまったな。ほんと、色々と……。世界も、この街も、君も、俺自身も変わっちまって……。でも俺は、君を……それでも、それでも俺たちは……」
「ごめんなさい……!」
吉田真智子は髪を振り撒いて頭を下げると、急ぎ足で開け放たれた玄関を振り返った。そうして彼女の痩せた足が踏み出される瞬間、影も落とさぬ速度で玲華の横をすり抜けた新平の手が、吉田真智子の腕を掴んだ。
「待ってくれ!」
「いや……!」
「お……ま、真智子さん! 頼むから俺の目を見てくれ!」
再び大炎が街を襲う。黒煙が巨龍の如く街を呑み込む。大地を抉るような爆撃音と共に、赤い炎を帯びた熱風が吹き荒れるも、それでも新平は決して彼女の腕を離さなかった。
「頼むから……!」
「し、新平さん……!」
「真智子さん、俺の話を……!」
「離してっ……!」
その言葉に新平は彼女の腕を離した。痩せた頬を涙で濡らした吉田真智子の表情は怒っているようで、悲しんでいるようで、自分の罪に怯えているようだった。暗がりに細く昇る線香の煙のように、吉田真智子の影が玄関の中へと消えていく。その扉が閉じられる刹那、新平は半歩で扉のふちを掴むと「待ってくれ……!」とまた声を上げた。
だが、吉田真智子の影はすでに消えた後だった。
薄墨色の空と重なる白い巨塔が、山麓から、寂れた漁村を見下ろしている。国道沿いの空き地は広く、数台の車とバイクが潮風に煽られている。白波が堤防に打ち上がると、低い排気音を轟かせる六つの影が、うっそうと青葉の生い茂る静かな山道に向かって喧騒を伸ばしていった。
「こ、ここだ……!」
長谷部幸平の声が背後の喧騒に呑まれてしまう。野洲孝之助と睦月花子の怒鳴り合いは風が止んでもなお衰えることなく、バイクから飛び降りた睦月花子の腕が野洲孝之助の胸ぐらを掴み上げようとも、喧騒が果てることはなかった。
「このクソアマあああ! 乗せてやった恩を仇で返すつもりかあああ!」
「はあああん! さっきからだーれがクソアマよオラあああッ! その恩ならいつかその顔面に返してやるから、覚悟してなさいよ、こんのクソドアホがッ!」
「誰がクソドアホだ、このクソアマがあああ! この俺が女に対価を求めるような小男に見えるかあああ!」
「おーい、ここはもう敵地だよ……」
「ちょっ、うるせぇぞ二人とも! 幸平の話が聞こえねぇだろうが!」
鴨川新九郎の広い肩が聳えるように盛り上がる。花子のデコピンで新九郎の身体が吹っ飛ぶと、そんな彼を尻目にやっとバイクから降りることに成功した徳山吾郎は、自身と、自身の耳に掛かった黒縁メガネの生還に安堵の息を吐いた。
「おい花子くん……! それと貴方は……」
「“苦獰天”総長の野洲孝之助だ」
「ええっと、く……、あ、あの野洲さん、それに花子くんも、もうあまり騒がないでくれたまえよ。なるべく三原さんには気付かれたくないんだ」
「気付かせてやりゃあいいのよ。モブウサギだか吉田何某だか知んないけど、この私をあの夜の校舎に閉じ込めたこと、たーっぷりと後悔させてやるわ」
花子の両手の指がゴキゴキとした音を立てる。空き地を転がった新九郎が砂を払いつつ、ふらふらと戻ってくると、野洲孝之助は感心したように腰に手を当てた。
「この女の打撃を受けて平然としているとは、相変わらず丈夫な奴だな。それでこそ俺のライバルに相応しい」
「平然とはしてねぇけど……。つーか野洲くんって部長を知ってたのか?」
「前に一度、この女と正面から殴り合ったことがある。お前たちのライブを襲撃しようとした際だ。確かギリギリの戦いだったが、どうやら紙一重の差で負けてしまったらしい」
野洲孝之助はその時の死闘を振り返ろうと曇り空を見上げた。だが、花子に一発殴られた後の記憶が焼け焦げたフィルムのように真っ黒で、思い出すことが出来ない。久々の強敵を相手に無我夢中だったのだろうと、そう頷いた孝之助は山裾に聳える白い建物を見上げ、キリリと眉を引き締めた。
「てか新九郎のライバルって何よ。アンタ、いかにも暴走族ですって格好してるけど、まさか新九郎の友達なの?」
「このゴリラと俺が友達なわけなかろう、このクソアマがッ!」
ふわりと孝之助の体が宙を舞う。握り拳を下ろした花子は腕を組むと、新九郎を横目に睨み付けた。
「新九郎、友達は選びなさいよ」
「いや部長、野洲くんは友達じゃなくって……。なんつーか、敵対チームのリーダー同士っつうか」
「ああ、クドウテンの総長だとか何とかこのクソドアホほざいてたわね。なんで敵対チームのリーダーとアンタが一緒にいんのよ?」
「まぁ色々あって、実はついさっきまでは俺たち“火龍炎”と野洲くんたちの“苦獰天”で大激戦を繰り広げてたんすよ。でもそれが中々上手くいかなくって……」
「暴走族同士の激戦なんて単なる殴り合いでしょーに、何をどうしたら上手くいかなくなるってのよ。まさかルールでも付けてたの?」
「違うっすよ、俺たちにルールなんかねぇ!」
「じゃあ何だっつーのよ」
「なんかポリ公のクソ野郎どもが、これからって時に毎度うーうーと集まってきやがるんすよ。まともな殴り合いまで持っていけなくて、工場地帯から、河原、採石場跡ってどんどん決戦の地を変えてったんすけど、とうとうポリ公どもに囲まれちまって、だから俺たち慌ててバラバラに逃げ出したんです。で、ちょうどそん時田中くんから連絡があって、部長が見つかったから来てくれって、だから俺、慌てて学校に向かったんすけど、もう大将同士の一騎打ちしかないって野洲くんの奴がしつこく付いてきちゃったってわけっす」
「ふーん。そういやあのクソドアホ、なんか逃げるなあああとか何とか叫んでたわね。つーか、なら今すぐここで決着を付けなさいよ」
「え、今っすか?」
「だって面倒くさいじゃない」
「俺は一向に構わんぞおおお!」
白い特攻服を砂だらけにした野洲孝之助が満身創痍といった体でふらふらと足を引き摺ってくる。新九郎と花子が肩を落とすと、二人の間に徳山吾郎が割って入った。
「今はそんなことしている場合ではないだろう! 早く三原さんを止めねば!」
「んなモブウサギ相手に焦んなくたって大丈夫だっつの」
「何を悠長なことを! 君も彼女の恐ろしさを体感したばかりだろうに!」
「てか、結局モブウサギの目的って何だったの? 聞けば大事みたいに騒ぐけど、肝心の目的が曖昧じゃないのよ」
「そ、それは……、おそらくは心霊学会を潰すことで……」
「心霊学会ってそんな悪い組織なのかしら? なーんか今にしてみると普通の奴らにしか見えないんだけど」
花子は首を傾げると、山裾に聳える白い巨塔を見上げた。それはまさに権力と財力を振りかざす悪の象徴のようで、ただ、寂れ廃れるばかりの暗い漁村に活気を与える燈のように見えなくもない。三原麗奈の目的が未だによく分かっていなかった徳山吾郎もまた黙り込んでしまい、訪れた奇妙な静寂が押し寄せる波に攫われていった。
「まぁいいわ」
花子は親指を山道に向けた。ゴキリと首の骨が鳴らされる。
「何にせよ、ね。モブウサギの奴はいっぺん懲らしめてやらないと。だからほら、とっとと行くわよ」
「おいクソアマ、いったい何処に行くつもりだ?」
「山に決まってんでしょーが、このクソドアホ!」
「キザキ率いる“苦獰天”のメンバーの一部がクーデターを起こしたという話だろう。この漁村には小森仁という俺の仲間のかつての実家がある。おそらく奴らの根城はその木工所跡だ」
そう言った野洲孝之助の特攻服は今や純白とは言い難い。砂埃をある程度払った彼はそれでも潮風に特攻服をはためかせると、花子たちを待つことなく、颯爽とバイクに飛び乗った。
重い排気音が薄暗い木々の間を抜けて廃工場のトタン壁を震わせる。それは天空に両翼をのたうたせる竜を思わせ、大地に鱗を這いずらせる蛇を想像させた。ひしゃげたブリキ缶の中で黒炭が身を深紅に弾かせると、吉田障子はその瞳を夜闇の冬空に翳らせながら、曇天に白い外に向かって浅く息を吐いた。
雑木を薙ぎ倒す竜巻のような六つの声が廃工場の出入り口を塞ぐ。騒めきが水面に広がる波のように湿った木屑を振動させる。漆黒の瞳が微かな青みを帯びると、激しい苦悩に、吉田障子の頬がぐにゃりと歪んでいった。あの女は来ない、と──。
「クソ野郎がッ……」
その怒りの矛が向かう先は筋骨隆々な右端の大男ではない。白い特攻服をはためかせる左端の男でもなく、黒縁メガネを掛けた小心そうな男でもない。六人の正面に立つ小柄な少女に対して吉田障子は鼓動を速めていた。それは青黒い血管を細腕に浮かばせた彼女の存在が恐ろしかったからではない。睦月花子の存在が荻野新平の生存を確信させたのだ。あの女はもうここには来ない──。吉田障子は激しい屈辱感から身体の震えが抑えられなくなった。
「おい」
ほんの僅かな時である。キザキの抑揚のない声が吉田障子の右手を動かす。左の頬に薬指を当てた吉田障子は深く深く息を吐くと、やっと普段通りの不敵な笑みを口元に浮かべ、六つの影を正面から睨み下ろした。
「なぁ、おい野洲くん。お前さ、こんなとこで何してんの?」
「き、貴様ッ……」
ブリキ缶で爆ぜる炎。焦げた肉の臭い。悲惨で残忍な拷問の現場は未だにその陰鬱な影を炎光に揺らめかせている。野洲孝之助がわなわな唇を震わせると、彼に変わって、睦月花子が低い吐息を漏らした。
「アンタ……。アンタって男になると、そんなになっちゃうの……?」
「何言ってんだ。つーか誰、お前」
「もういいわ。アンタには呆れ果てた」
花子の額に青黒い血管が浮かび上がる。
吉田障子は目を細めると、漆黒から空色へと、瞳の色を薄めていった。