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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
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ケジメ


 ゆったりと校庭を撫でるヤナギの青葉とは対照的に、うら若い女の黒髪は突風に煽られているかの如く振り乱れていた。

「新平さん! 新平さん!」と中間ツグミは先ほどから半狂乱で、ただ、旧校舎裏のシダレヤナギの前に集まったメンバーたちは彼女の様子など気にも留めていない。スマホに耳を傾けた八田英一の表情は深刻そうで、デジタルカメラを両手で握り締めた水口誠也は、地面に落とした暗い影をふるふると小刻みに震わせている。

「どうして……どうしてだよ……! どうして写真が一枚も残っていないんだあああ……!」

 水口誠也の絶叫が曇り空を突き抜ける。彼はまた、長年──彼の感覚で四十八年──愛用してきたリコーダーを失った悲しみに、胸を抉られるような痛みを覚えていた。

「うう……どうして……。玲華ちゃん、君は今いずこに……」

 水口誠也の慟哭にも反応を示す者はない。心霊学会の幹部である大久保莉音、橋下里香は先ほどからぼーっと暗い雲を見上げるばかりで、両手を胸の前に合わせた大野木詩織は「祓え給え──祓え給え──」と永遠の祈りをヤナギの大樹に捧げている。一見まともだった田中太郎もまた長い枝を手にした途端、勇者の付き人である歴戦の傭兵へと様変わりしてしまい、無言でシダレタナギを見上げ続ける田川明彦は何やら年輪を数えるのに忙しいとのこと。

 パナマハットを被った戸田和夫と白い着物を着た姫宮詩乃はまるで長年連れ添ってきた老夫婦のように互いに一歩も引かぬ体で言い争いを続けており、一年生の小田信長はただ一人、この異様な集団の中で小さな肩を震わせていた。

「あ、あの、田中先輩……? そろそろ姫宮さんを探しに行きませんか……?」

「おお信長くん、そうだったな。早くしねぇとまた部長にどやされちまうぜ」

「で、では……!」

「だが“魔王”はどうする?」

「え、魔王……?」

「“五人の怨霊”だって封印されたわけじゃねぇぞ。アイツらは虎視眈々と世界征服を目論んでやがるんだ!」

「あ、うぅ……」

 信長の足が後ろに下がる。言い知れぬ恐怖に彼は小柄な体を震わせるばかりである。だが、尊敬する先輩である睦月花子と鴨川新九郎に後を任され、そして何より、憧れの姫宮玲華がピンチ──花子の話によると──であるこの状況において、今まさに自分が奮い立たねばならぬと、信長はピンと背筋を真上に伸ばしてみせた。

「まったく話にならん」

「それはこちらのセリフじゃ!」

 そんな信長の決意を呑み込むかの如く、姫宮詩乃と戸田和夫の視線が彼の頭上を交差する。

「もうよいわ。おい、お主らもシャキッとせんか! このままでは全員精神病院送りじゃぞ!」

「ま、待ってください、戸田さん……。それだけは勘弁してくれませんか……?」

「我がどうこうという事態ではなかろうて。一月近く行方不明となっておったお主らが、夜の校舎という異空間を数年から数十年彷徨っておりましたなどと話せば、先ず真っ先に病院に連れて行かれるわい。せめてそのボケッとしたりフラフラと動いたりワーワーと騒いだりするのはやめにせんか」

「そ、そんなこと言われましても、もはや我々の手には……」

 八田英一はスマホを下ろすと、ひどく困り果てた様子で旧校舎裏を見渡した。まだ警察には報告しておらず、世界史の福山茂男のはからいでこの場所には訪れられたものの、早期に決断を下さねばならない状態にあった。ただ、戸田和夫の言う通り、このままでは世間の晒し者となるばかりでなく、病院に強制入院させられるのが落ちだろう。頼みの綱だった心霊学会も何やら大変な事態にあるようで、いったいどうすればいいのかと、八田英一はあらためて自分の無力さに苦悩する思いだった。

「してイングリッシュボーイよ、お主も数十年近く夜の校舎を彷徨っておったのだろう。そのわりには随分とまともではないか」

「いえ、僕もまともではなかったかと……。ただ、身体の傷と共に頭の方もスッキリと治ってしまったようで、どうにもあの夜の校舎での出来事が遠い過去の記憶のように定かではなく……」

「おいそこの背の高い坊主、確か田中太郎くんじゃったか、お主はどうなんじゃ?」

「へ……? あ、ああ、あの師範、俺の本名は李憂炎です……!」

「ふむ。ではファイヤーボーイよ、お主は随分とまともではないようだが、夜の校舎での出来事は覚えておるのか」

「いや、俺も夜の校舎のことはあんまり覚えてなくって……。なんか中世的な世界で仲間たちと冒険に明け暮れてたことは覚えてるんすけど……!」

 田中太郎の右手の木剣がぶおん、ぶおんと曇り空を切り裂いていく。戸田和夫はパナマハットのフロントに手を置くと、軽く息を吐いた。

「お主の力でなんとかならんか?」

「ならん。精神治療などもはや巫女の領分ではない」

 姫宮詩乃の瞳が閉じられる。何やら疲れ切った表情で、戸田和夫は腕を組むと肩を落とした。

「取り敢えず、お主らの現状への対処方は思い浮かばん。して、こちらの問題を先になんとか出来んかの」

 シダレヤナギの青葉が夏の風に揺れる。老齢の巨木を見上げた戸田和夫は、そのまま旧校舎全体を見渡し、そうしてまた夜の校舎を彷徨ってきた者たちの顔を一人一人眺めていった。

「先立って巫女である詩乃姫が“人”だと言ったこの校舎、昔から異様だ異質だとその大いなる謎に心を躍らせてはきたが、そろそろ決別せねばならぬ時が来たようじゃ」

「決別とは、もしやこの校舎を取り壊すといった意味でしょうか……?」

 八田英一は旧校舎を見上げ、口に手を当てた。

「いや、元凶はこのヤナギの木であろう。引き抜くなり燃やすなりで、いわゆる人の精神を持つらしいこの器を壊してしまえ。そうすればもう夜の校舎とも……」

「待て」

 姫宮詩乃の鷹の視線が戸田和夫の瞳を射抜く。はたと言葉を止めた和夫は帽子の影で目を細めると、首を傾げた。

「なんじゃ?」

「まだ待て。分からんことが多過ぎる」

「この校舎は人なんじゃろ。器を壊してしまえばその巨大な精神とやらも消滅させることが出来るのではあるまいか」

「あくまでも人と表現したまでじゃ。このシダレヤナギの精神は人のそれとは全く異なったもの。本来であれば器の中に収まっておるはずの精神が学校全体を覆うようにして外に漏れ出しておる。であるからして我々巫女の精霊移しとは似て非なる魂の転移が、いとも容易く行われてしまっておるんじゃ。この巨大過ぎる上に性質の定かではない精神を解き放ってしまうのはいささか危険であろう。じゃから暫し待て」

「ふーむ。かと言ってこのまま放置し続けるわけにもいくまいて……。巫女の力で中に入ることは出来んのか?」

「否、人のそれとは異なったこの精神への移り方はよう分からん。何らかの条件、或いは魂の転移を裏で手引きをしとる者がおるんじゃろうが」

「ほぉ、いわゆるヤナギの霊か」

「ヤナギの霊などと、そんな怪談話の類ではなく、おそらくはこの校舎と精神が繋がってしまっておる者がおるんじゃ。じゃがそういった生徒は今のところ見受けられん。そもそも、意図せずとはいえ、この状況を作り出したのは我が孫娘である玲華じゃろうて。もしかすれば魔女であるあの子が、何かを知っておるのやもしれん」

「村娘のぉ……。それでその村娘はいったい何処をほっつき歩いておるのだ。おいイングリッシュボーイ、姫宮玲華は何処じゃ?」

 戸田和夫はひどく気の乗らない表情で腕を組んだ。ヤナギの木を見上げたまま一向に動こうとしない田川明彦の様子を心配していた英一は、その老人の声に振り返ると、困惑したように肩を落としてしまう。

「それが、僕が目を覚ました時にはもう彼女の姿はなく……。なんでも王子のお母さんと、それとしょう子という人に会わねばと、焦っていたようで……」

「しょう子じゃて? それはもしや田村しょう子のことではあるまいな?」

「ああ、はい。おそらくは……」

「そうか、そうじゃよ、ヤナギの霊はしょう子さんが死んだものと勘違いしておるらしいんじゃった……。なるほど、あの村娘が目を覚まして真っ先にしょう子さんに会いに行ったという話は頷ける。それで王子のお母さんとはいったいなんじゃ?」

「ええっと……」

「たぶんそれ、吉田障子のお母さんのことっすよ」

 ふわりと木の葉が落ちていくように、田川明彦の瞳が下がっていく。長い枝を覆うヤナギの青葉から視線を逸らした明彦は、パナマハットを被った老紳士を振り返った。

「因みに田村しょう子は俺の婆ちゃんっす」

「吉田障子のお母さんじゃと……? いや待て、そうか、坊主はしょう子さんのお孫さんか。いやはや、そうかそうか、坊主の名は田川明彦じゃったか、そう言えばしょう子さんの娘さんの姓が田川じゃったわい」

「姫宮さん、俺のばあちゃんが死んでるって言って聞かなくて、ほんと大変だったんすよ。まぁ自分がヤナギの霊とやらじゃないって分かったあたりで誤解は解けたらしいんですけど」

「あの村娘、やっと自分がヤナギの霊ではないことを認めおったか」

「なんか戦中は高峰茉莉っつう占い師だったらしくって、長い年月の果てに自我を失いかけて、自分が山本千代子の生まれ変わりだって思い込んじゃったとか」

「長い年月というのはつまり、ヤナギの木に取り憑いておったという半世紀のことじゃろうの。してライトボーイよ、お主、随分とまぁ夜の校舎での記憶が鮮明ではあるまいか」

「ああ俺、情報屋で小遣い稼ぎしてまして、日頃から見たもの聞いたものはしっかりと覚えておくようにしてるんです」

「ほぉ、それは良い心がけじゃ。それで村娘は他に何か言っておらなんだか?」

「あの、村娘って姫宮さんのことっすよね……?」

「ふん、我をホームレス呼ばわりした仕返しじゃわい!」

 戸田和夫はそう言って胸を張ると、パナマハットのフロントに手を置いた。

「ええっと、それで……」

 田川明彦はまた風に靡くシダレヤナギの青葉を見上げた。夜の校舎での記憶は鮮明で、一年、一年と刻まれていった記憶が写真のフィルムのように頭の中を流れていく。

「なんでも姫宮さん、王子とやらを探してやっとこの極東に辿り着いたらしくって──いや、意味はよく分かんないんですけど……。そんで戦中に、田村しょう子、山本千代子、鈴木夏子という三人の夢見がちな少女に出会ったとか。姫宮さん、焼夷弾か何かで焼け死んだって話してたんですけど、そん時、誰かと一緒だったらしいっす。いやまぁ途切れ途切れで、姫宮さんの様子もおかしかったし、要領を得ない話ばかりだったんすけどね」

 田川明彦は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。そんな彼の荒唐無稽な話に、戸田和夫は痩せた頬を引き締める。

「田村しょう子、山本千代子、そして、鈴木夏子か……。ふむ、村娘は戦前、高峰茉莉という名の占い師だったと……。ヤナギの木に取り憑いておったという魔女が学校で命を落としたであろうことは想定しておったが、そうか、そう言えば二人という話じゃったの。当然しょう子さんではあるまいし、未だここを彷徨っておる山本千代子でもなかろう。ということは鈴木夏子という少女こそが、ヤナギの木に取り憑いておった二人目の魂じゃったというわけか……。それでライトボーイよ、吉田障子の母君については何か言っておらなんだか?」

「言ってましたね。吉田のお母さんの旧姓が大宮らしくて、大宮真智子って名前に荻野っていう用務員のおじさんが驚いてました。それで確か吉田のお母さんが四人目のヤナギの霊とやらで、あの、俺のばあちゃんって昔は語り部だったんすけど、この学校にもよく戦争の話をしに来てたらしくって、姫宮さん、吉田のお母さんがもうすでに俺のばあちゃんと出会ってるって知ってめっちゃ驚いて……」

「なんじゃと」

 戸田和夫は愕然と目を見開いた。そうして白い無精髭を撫でた彼は、チラリと白髪の巫女を振り返ると、またヤナギの青葉を見上げた。

「四人目のヤナギの霊がまだ生きておったと……? それが吉田障子の母君とは……。いや待て、吉田障子の年の頃が十六とすれば、四人目のヤナギの霊は……」

「もしかすれば、玲華の同級生の中におるのではないかと思うておった」

 姫宮詩乃はそう言って、戸田和夫と同じように、曇り空と重なるシダレヤナギの蒼い茂りに息を吐いた。肩の力を抜いた老女は幾分か老け込んだように見え、その瞳に鷹の鋭さはない。

「そうか、そうじゃったか……。玲華と寄り添うておった娘の名は鈴木夏子じゃったか。あの体育館で苦悩に咽んでおった哀れな娘が大宮真智子と。そして、その子である吉田障子という少年こそが鈴木夏子の器となったあの赤子だったというわけか。そうか……」

「まだ決まったわけではないぞ」

「いいや、決まっておろう……」

 戸田和夫は無精髭に手を当てたまま、努めて平静な声を出した。

「気を落とすでない。単に偶然と偶然が重なったというだけの話ではないか。別に悲劇でも何でもない」

「気など落としておらん。ワシは自分の行いに後悔などしておらんて。ただな、この因果は悲劇じゃよ、それだけは否定出来ん」

 巫女の瞳の色が薄くなっていく。乾いた手のひらを湿った風が撫でると、姫宮詩乃は曇り空の下に悠然と聳える木造の校舎を振り返った。

「ワシは己の手で禊ぎを払わねばならん」

「ふむ、そうか……。いいや、ケジメを付けねばならんのはお主だけではあるまいぞ。八田先輩の件がある。小野寺の小僧を放っておいたのもワシの責任じゃ。ワシもそろそろ腹を括らねばなるまいな」

「なんじゃ、お主の方が重罪ではないか」

「ぬかせ。たわけめ」

 戸田和夫はパナマハットを被り直すと、ヤナギの青葉を横目に睨んだ。

「とにかくじゃ、先ずはその吉田真智子というヤナギの霊と会ってみねばなるまい。それに、しょう子さんにも会いに行かねばの。お主の孫娘、戦中は高峰茉莉という占い師だったという、しょう子さんであればお主の孫娘のことを覚えておるやもしれん。鈴木夏子という娘のこともじゃよ」

「ああ、そうじゃな。先ずは会うてみよう」

 ゆらりと白い影が靡く。

 もう一度、シダレヤナギの青葉を見上げた姫宮詩乃は、ただ風に流されるままのその長い枝にジッと目を細めた。


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