理科室の誓い
朝日の当たらない超自然現象研究部の部室は一階の端にある。
夏になれば窓の外に見える小さな池の汚泥から湿気が浮かび上がり、理科室と呼ばれる事もあるその場所にはいつも何処か陰鬱な雰囲気が漂っていた。その為か、授業以外で生徒たちが理科室を訪れる事が少なく、超研部員たちは誰に邪魔される事なく心霊研究に精を出せていたのだ。
そんな理科室という名の部室は現在、重苦しい沈黙と緊張に包まれていた。
超研部長の睦月花子と生徒会書記の徳山吾郎が黒い実験台を挟んで対峙している。そんな二人の存在に新入部員の小田信長は緊張で体を強張らせた。花子と吾郎を見つめる鴨川新九郎の不安げな瞳。演劇部女子部長の三原麗奈が退屈そうに欠伸をすると、その音に驚いた新九郎と信長の体が宙に飛び上がった。
「ちょっとぉ、せっかく大事な朝練を中止にして来てあげたんだから、早く話を進めなさいよ」
「モブ女は黙ってなさい! つーか、別にアンタなんか呼んでないっつの!」
「えー、部長さん、こわーい。新九郎クン助けて」
背の高い新九郎の背中に黄色い声を上げた麗奈が胸を押し当てる。うわっと声を上げた新九郎は甘い匂いを全身から発する彼女から慌てて距離をとった。
「うふふ、新九郎クンってウブねー。てかさ、そんなことより田中クンはまだ来ないの?」
「あの馬鹿が来るわけないでしょ」
「なんで? 田中クンも超なんちゃらの部員でしょ?」
「いちいちうるさいってのよ、モブ女! あの馬鹿は来ない、以上!」
「うわぁ、私だったら勝手に部活休むとか許さないんだけど。部長さんって人望ないんだね」
ダンッと花子が床を踏みしめる。校舎全体に振動が伝わると、その唐紅に染まった花子の顔に浮かぶ三白眼の瞳に慌てた新九郎と信長が二人の間に入った。
「む、睦月くん、取り敢えず話を進めないか?」
黒いメガネの縁を中指の腹で押し上げた吾郎は花子の腕に浮かぶ血管を恐々と見下ろした。腕を組んだ花子はチッと舌打ちをする。
「そうね、こんな馬鹿モブ女はムシよムシ。アンタもとっとと別れた方がいいわよ」
「べ、別に付き合ってなんかないよ!」
「えー、ゴロちゃん、ひどい、遊びだったの?」
「ち、違っ、違うんだ! これには色々と複雑怪奇な……」
「んな話どうだっていいのよ! 徳山吾郎、生徒会長への説得は上手くいったんでしょうね?」
腕を組んだまま花子は吾郎の眼鏡を睨み上げる。そんな花子の視線から逃げるように吾郎は視線を宙に泳がせていった。
「せ、説得はしてみたんだが、上手くいっているとは言えないな」
「上手くいかせるのがアンタの仕事でしょーが! いい、徳山吾郎? アンタは今ね、人食いザメの彷徨く海辺の前に立っているの」
「うっ」
「死にたくなければ、私の言う通りに進みなさい。その為に、生徒会長を上手く丸め込むのよ」
「わ、分かっているさ。だがね、僕は元々、超研を潰さないように説得していた側の人間なんだよ。そのせいか、僕の言葉はどうにも味が薄いんだ」
「くっ」
花子の唸り声。新九郎と信長は不安そうに顔を見合わせた。
木曜日の夜に許可無く旧校舎に忍び込んだ罰で、超自然現象研究部は現在、人食いザメの彷徨く海を泳いでいる状態にあったのだ。いつ食べられてもおかしくない恐怖と死がすぐ側に迫っている緊張の中で超研たちの体は震えが止まらなかった。
だが、望みはある。
花子の握る長い手綱の先。海辺に立つ生徒会書記の徳山吾郎の青白い顔に花子は希望を託していた。
「副会長はどうなのよ? 先ずは馬を射なさい」
「宮田さんは、ある意味で会長よりも堅物だからね……。僕は完全に敵視されていて、話し合いにすらならないんだ」
「役に立たないわね、アンタ!」
「な、なんだと? いいかい、一つ言わせて貰うけど、廃部に追い込まれそうなのは、君たちの怠惰にも原因があるんだよ?」
「怠惰ですって? 超研がどれだけの努力と研鑽を積み上げてきたと思ってるのよ!」
「努力研鑽? はん……ならば何故、幽霊の証拠一つ持って来れない?」
「ちょ、調査中だからよ! つーかね、アンタらの妨害さえなければ、旧校舎の怨霊の一匹や二匹捕まえて写真に封印してたわよ!」
「それが怠惰だって言うんだ。いいかい、睦月くん、この際、幽霊がいるいないなんて関係ないぞ。ただ、いるという証拠のような物さえ見せつけられれば、いい話なんだ」
吾郎の黒縁メガネにキラリと光が走った。新九郎と信長は息を呑む。ラインで友達と談笑する麗奈の声が理科室を木霊した。
花子は怒気を抑えると指を顎の前に組んだ。吾郎の視線と重なる花子の細い目。
「嘘を、つけと……?」
「君は幽霊がいると、本気で信じているんだろ?」
「ええ、もちろんよ」
「いないと本気で信じるもの達に、その誠実さや熱情を見せつけてやる意味があると思うかい?」
「そ、それは……」
「それにね、完璧な証拠を写真に捉えたところで、生徒会長は即刻破り捨てるよ」
「何ですって?」
「そういうお人なんだ。あの人は自身で体験した事以外は信じない」
「……なるほどね」
「そう、もしも君が本気で超研を存続させたいのであれば……」
「やるしかないって事ね」
「そういうことだ」
クイッと吾郎は黒縁メガネを押し上げた。肩の力を抜いた花子は組んでいた指を外す。そうして実験台を挟んでいた二人が力強く手を握り合った。花子の握力に仰け反った吾郎の鋭い悲鳴が祝砲のように理科室の天井に向かって撃ち上がる。
超書秘密条約の締結である。生徒会書記徳山吾郎と超自然現象研究部部長睦月花子による「理科室の誓い」と呼ばれる密約。後に、伝統ある富士峰高校生徒会メンバーは、この密約によって恐怖のどん底に落とされる事になるのだった。
「やっと終わったのぉ? なら早く、田中クンのライン教えてよ」
握り拳を麗奈に向けた花子は中指を立てた。右手の苦痛に吾郎は呻き続けている。
「じゃあ、作戦会議は今日の放課後でいいわね?」
「え? あ、ああ、その前に僕は病院に行かないと……」
立ち上がった花子に何処か怪訝そうな表情をした信長が駆け寄ってくる。そんな後輩の表情に花子は眉を顰めた。
「何よ、なんか文句ありそうな顔ね?」
「い、いえ、その、放課後って、吉田くんと姫宮さんを呼び出してませんでしたか?」
「ん? ああ、そういやそうだったわね。まぁ、別にいいじゃないの、重なっても。あのアホ共も、タダじゃおかないわよ」
「ぼ、暴力はダメですよ、絶対!」
指を鳴らした花子に信長は不安げな表情をみせる。そんな二人の背後で超研の幽霊部員である田中太郎のラインをせがみ続ける麗奈に新九郎は辟易させられていた。
「ねぇ、田中クンに用事があるのよぉ、お願いだから教えてよぉ」
「だ、だめだよ、勝手には教えられないよ。後で田中くんにちゃんと聞いておくから」
「もう、いけずぅ」
その時、突然彼の携帯から軽快な着信音が鳴り響いた。驚いた新九郎は慌ててポケットからアイフォンを取り出した。
「あれ、田中くんからだ」
「ほんとっ!? グッとタイミング! 変わって変わって!」
「ちょっと待ってね」
体を擦り寄せてくる麗奈の手の届かない位置に新九郎はアイフォンを掲げた。そんな彼の表情は久しぶりに聞く親友の声に何処か和やかである。
「やぁ田中くん、久しぶり! 急にどうしたの?」
「なぁ新九郎、放課後会えるか?」
「え? どうして?」
「話があるんだ」
「いいけど、話って?」
「また電話する」
一方的に電話を切られた新九郎はやれやれと頭を掻くと、ぶつぶつと文句を言い始めた麗奈に頭を下げた。




