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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章

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安直なストーリー


 心臓の鼓動が鳴り止まない。笑みが引き攣り乱れる。

 あとほんの数センチ、ほんの刹那の時間差で、彼女と彼女の小さな世界が袂を分つ結果となっていた。或いは自分もあの女と同じ存在となっていたかも知れない。肉体を失ってもなお彷徨い続ける亡霊と堕ちていたかもしれない。

 吉田障子は、その最悪を常に頭の片隅に置いていたにも関わらず、実際に小森仁の振るった金属バットが三原麗奈の体を壊す寸前になって初めてゾッと魂を震わせた。覚悟の有無などではない。小森仁が平静でなければ全てが終わっていた。己の間抜けさと情けなさに感情の乱れが抑えられなかった。

 安直なストーリーだったと、吉田障子は苦り切った笑みを自身に向け、そうして出し抜けに赤い炎から焼けた鉄を抜き取ると、それを三原麗奈の顔に向けた。

「おいッ!」

 それは悲鳴ではなかった。あらぬ方向から聞こえてきた男の怒声に、吉田障子は不快げな表情をする。先程の喧騒は煙のようで、もはや形はない。パチ、パチ、と火の音に静かな廃工場の壁際では、両腕を後ろに縛られた二人の男が力無く項垂れている。

 黒い布を被せられた三人はコンクリートの床に膝を付かされたままだった。手のひらが黒く焦げた橋田徹よりも、その左右で体を震わせる老人と女の限界が近かったようで、下着姿の大場亜香里の体がふらりと前に崩れると、つい今しがた怒声を上げた体格の良い男が彼女の側に駆け寄った。元“正獰会”のメンバーの一人で、大場亜香里の体を片腕で支えた鈴原新太は、彼女の顔から黒い布を剥ぎ取ると安否を確かめるように額に手を当てた。

「何してんの?」

 吉田障子は首を傾げる。鈴原新太は精悍そうな眉を顰めると、吉田障子とその背後のキザキに聞こえるように声を低くした。

「もう止めろよ」

「はあ?」

「三人を病院に連れていく」

 ブリキ缶から火の粉が上がる。さらに二人の男が鈴原新太と大場亜香里の側に駆け寄ると、吉田障子が声を上げるよりも先に、宗教二世の小森仁が金属バットを床に叩き下ろした。

「一人だ。女はどうでもいい。だけど男は駄目だ」

 鈴原新太は僅かに表情を変えた。元“正獰会”の仲間である小森仁の家庭事情は十分過ぎるほどに聞き知っていた。鈴原新太の視線がブリキ缶の火に落ちると、左の頬にそっと手を当てた吉田障子はまた焼けた鉄の棒を手に取った。

「女も駄目に決まってんだろ。そいつは後の心霊学会の幹部だから、今のうちにたっぷりと男の恐怖を刻み込んでおいてやらねぇと──」

 吉田障子はそう言って、あらぬ方向に視線を送った。ゆっくりと広げられた唇が中途半端な位置で動きを止める。心ここに在らずといった表情。鼻歌が壊れたオルゴールのようにぎこちない。それはややもすると恐怖に頬を引き攣らせているかのようで、吉田障子は左の頬に置いた右手を下ろそうとしなかった。

 鉄の棒がやけに重い。いやに静かで、火の爆ぜる音ばかりが気になる。視界が赤い光に覆われ、皆の表情が赤い炎に翳って見える。

 吉田障子は極度の緊張状態にあった。先ほどまでの興奮状態ならまだしも、平静でそれを行う緊張は想像を絶した。自らの行動に恐怖心が抑えられない。それをすればもう取り返しがつかなくなるから。

 だが、止められない。怒りが、憎しみが、哀しみが、彼女の感情が、彼の行動を止めてはくれない。

 やれ──。

 おもむろに吉田障子の左手が持ち上げられる。焼けた鉄の先が空気を沸騰させる。赤々と重い光がアッシュブラウンの髪を揺らすと、透き通るような少女の絶叫が、廃工場に響き渡った。

「ああああああああああっ──」

 肉の音、匂い、悲鳴。

 短い髪を振り乱した三原麗奈の背中が跳ね上がる。そうして、頬を押さえた彼女の体が床に崩れ落ちる。

 やってやった──。

 吉田障子は危うく意識を飛ばしかけた。足が、腰が、胸が、歓喜に打ち震える。表情が恍惚に溶けて落ちていく。

 やっと壊せた──。

 吉田障子は興奮のあまり叫びそうになった。

 手首に浮かんだ血など比ではない。その美しい外面に醜い焼け跡がついたのだ。永遠に消えぬ呪いが刻まれたのだ。やっと一つになれた。醜い心と体が一つになった。やっと解放されたのだ。これでやっと叶わぬ夢に終わりを告げられる。

 だが、まだ緩い。吉田障子は左の頬に爪を立てた。

 まだ全身が泥に塗れていない。もっともっともっと、醜く、汚く、愚かしく──。

「止めろおおおっ!」

 背後からの怒声だった。よく肥えた頬を上下に揺らしたようなその声は何処か間が抜けており、凄惨な廃工場の光景とは合わない。その歪さが吉田障子の意識を呼び戻すきっかけとなった。頬の筋肉がピクリ、ピクリと引き攣る。危うく舞台から滑り落ちるところだったと、吉田障子はゾッと息を呑んだ。

 赤い光を宙に揺らめかせたまま、吉田障子は素早くテーブルを振り返った。まだその時ではないと。だが、飛び掛かってくる素振りはおろか、倉山仁はナイフすらも構えていない。恐怖を与えすぎたか、或いは元々不可能な話だったか。吉田障子は肩をすくめる動作を見せると、いつまでもテーブルから動こうとしないキザキに向かって目を細めた。

「何だよ豚くん、うるせぇぞ」

「やめ、やめ、止めろっ、おっ、お前っ!」

「いやだね。コイツは俺の……」

 顔に衝撃が走る。気が付けば拳を握りしめた鈴原新太が目の前に立っていた。勢いよく殴り倒された吉田障子は鉄の棒を落とすと、頬を押さえて呻いた。

 廃工場がまた騒然とする。集まった“苦獰天”のメンバーたち、元“火龍炎”のメンバーたちが不安げに顔を見合わせる。壁際からは“インフェルノ”の清水狂介の鋭い視線が、テーブルに座ったキザキは何時迄も無言で、ただ決して陰惨な喧騒から目を逸らさない。赤い炎の前に座らされていた橋田徹は今がチャンスとばかりに、手に走る激痛など気にせず、黒い布袋の下から必死の声を上げた。だが、彼の声は誰にも届かない。それほどの喧騒が廃工場を覆い尽くそうとしていた。

 吉田障子はゆっくりと立ち上がった。夏場にも関わらず長袖を着た彼の体躯はどうにも細身とは言い難い。やっとテーブルから動いた倉山仁が警戒したように喉を鳴らすと、鈴原新太もまた立ち上がり、頬を焼かれた三原麗奈を守るように拳を固めた。

「おいっ……」

「お前ら! キザキさんの前で情けねぇ姿晒してんじゃねーぞ!」

 鈴原新太の声を蹴り飛ばすように、吉田障子の声が廃工場を走る。途端に喧騒は静まっていく。よく通る少年の声に耳を弾かれた“苦獰天”のメンバーたちは恐る恐る視線をテーブルに移した。キザキは無言で、退屈そうで、ただジッと陰気な瞳を前に据えるばかりだ。その姿が荒くれ者たちの目には凶悪な魔王のように見えた。

「鈴原くん、お前さ、何勝手なことしてくれてんの?」

 冷徹で残忍で幼い少年の声だ。暴走族とは毛色の違う少年の瞳がとにかく恐ろしい。鈴原新太は怯むも、それでも拳は固めたまま、吉田障子の顔を正面から睨み下ろした。

 吉田障子は肩をすくめた。ああ、面倒臭い、と。言い負かすこと、言いくるめることはそれほど難しくない。三原麗奈自身に大丈夫だと言わせれば、それで済む話かもしれない。ただ、面倒臭い。吉田障子は目を細めると、ふぅと息を吐き出し、そうして鈴原新太の瞳の奥を覗き込んだ。薄曇りの空に水色の光が現れる。鈴原新太の体が崩れ落ちると、倉山仁は呆然と丸い体を縮こめてしまった。

「わ、我々を解放しなさい……! このままでは、君たちは、大変なことに……!」

 やっと橋田徹の声が廃工場の木屑に跳ねて返った。ただ“苦獰天”のメンバーたちはもはや彼の姿など眼中になく、代わりに、と吉田障子が彼の手に赤い鉄の先を当ててやった。

「あぐっうぅ……!」

「うるせぇって」

「こ、このままでは、大変なことに、なってしまいますよ……!」

「もうなってるって。お前さ、まさか無事におうちに帰れるとか思っちゃってない?」

「はぁ、はぁ……。わ、我々を……いえ、あなた方の、も、目的は何なんですか……?」

「金だよ」

「金ならばいくらでも用意致しましょう……。ですから、先ずは我々を解放してください……。尊師はご老体なのです……。取り返しが付かなくなる前に、早く我々を病院へ……」

「馬鹿か。金が先に決まってんだろ」

「金の用意はすぐには出来ません……。一度本殿に戻り、私と尊師を含めた幹部の皆、そして信者の方々と話し合わねばなりません……。そうだ、どうでしょう、あなた方の中から数名、我々と共に本殿に出向かれてみてわ……。そこで皆に金の交渉を……」

「山麓に隠してあんだろ」

 橋田徹は思わず息を止めた。もしや聞き間違いかと、布袋の下で瞳のみを斜め上に動かしてみる。

「何も隠してはいませんよ……?」

「山麓だよ、山麓。お前ら山麓に向かう途中だったんだろ。なら今から山麓に連絡して、完全な人払いをしろ。そんで、山麓に隠してある金を全て俺たちに寄越せ」

 橋田徹は激しい動揺に瞳を上下させた。その事実を知るものが外部にいるはずないと。それもただの若者たちである。もしや幹部の中に裏切り者がいて、その誰かが暴力団と結託して彼らを動かし、そしてこの凶行に至ったのではないかと、橋田徹はあらぬ想像に背筋を凍らせた。

「さ、山麓とは……?」

「船だよ」

 吉田障子の口元に冷たい笑みが浮かび上がる。その瞳の影は冬の夜闇のよりも暗く深い。

「お前らの客船だろ。売春船、いや、現代版の舟饅頭か。はは、バレそうになったら沈めちまえばいいんだ、証拠隠滅が楽で便利だよな」

 橋田徹は完全に言葉を失ってしまった。心霊学会の秘密が知られていたのだ。それも大勢の、頭の足らない若者たちに。そしてその背後にいるであろう誰かに。もはや拉致監禁暴行などよりも悲惨な学会の運命そのものに、橋田徹は心臓の血管を収縮させた。

「ああ、あとお前ならとっくに気付いてると思うけどよ」

「な、なん……」

「生かして返すつもりなんてねーから」

 声色は変わらない。もはやそれが脅しの類とは思えない。

「お前らは死ぬんだよ、この薄暗ぇ汚ねぇ廃工場で、木屑に塗れてな」

 吉田障子の吐息が黒い布を震わせる。ゾッとするほどに冷たい声だった。橋田徹は様々に揺れ動く心に、肩の震えが止まらなくなった。

「そ、そ、そんなことをすれば、本当に、後戻り出来なくなるぞ……?」

「もう出来ねぇって」

「こ、ここで我々を殺せば、お前たちは金を手に出来なくなる……」

「出来るさ、山麓の場所はもう分かってんだ」

「な、ならば何故……?」

「なぜ拉致ったかって? そりゃあお前、その方が楽しいからさ。たっぷりと嫌がらせした後に、苦しめて苦しめて殺すんだよ。最高だろ?」

「そ、そんな……。それは、それは絶対におかしいだろ……。お前は、お前たちは、破滅するつもりなのか……? 自分自身の人生すらも終わらせるつもりなのか……? お前たちだけじゃない、親兄弟、親戚、恋人、友達……。陰惨な殺人事件を起こしたお前たちとお前たちに関わる全ての者たちが不幸になる……! まさか、そんな事も分からないのかっ……!」

 くぐもった声が大きくなっていく。騒めきが廃工場に広がっていく。

 吉田障子は平然と口笛を吹いた。そうして厭らしく口を横に広げると、橋田徹の黒い布袋に薄い唇を近づけた。

「なぁ、なんでお前にこの話をしたと思う」

「なに……?」

「なんで山麓の話をしたと思うかって聞いてんだよ」

「それは……、そこに隠してあると予想した金の行方を、我々から聞き出すために……」

「それはとっくに知ってるっつってんだろ。俺はさ、ただお前に、その事実を確認して貰いたかっただけなんだ」

「ど、どういう意味だ……?」

「最近いやに騒がしかったよな。ほら、お前らの周りの話さ」

「だから、どういう意味だと聞いてるんだ……!」

「マスコミに法華経に平和党に、あとアレ。ああなんだっけ、えっとほらアレだよ、金にうるせぇ奴ら」

 吉田障子の声がねっとりと橋田徹の耳を舐める。橋田徹はただ乾いていくばかりの唇に鈍い痛みを覚えた。

「ああ、国税局だ」

「こ……」

「売春船のことはもう既にリークしてあるから、お前らはどのみち終わってんだよ」

 ガンッ、と頭を殴られたような衝撃に橋田徹は上下の感覚を失った。だが、実際には殴られておらず、体も倒れていない。ただ重力の喪失に手と膝の痛みが彼方へと消え去り、唇の痛みばかりがズキズキと暗い空を彷徨い続けた。

「くっくっく、あー、なんだっけ、俺らが破滅する? くっはっは、しねぇんだよなぁ、それが。だってお前らは自らの意志で行方をくらませるんだもん。世間はそれを逃亡と考える。警察もまた逃亡、もしくは暴力団の影を疑い、信者たちは尊師の神隠しに涙を流す。あっはっは、売春船は責任持って沈めておくからさ、そこは安心してくれよ」

 吉田障子の勝ち誇ったような笑みが赤い炎に揺れる。騒めきが静まっていくと、永遠とも思えるような静寂と共に凍えるような青い冷気が、薄いトタン壁の向こうの真夏の大気を忘れさせた。

 橋田徹は深い絶望に呼吸を浅くした。やはりこの最悪の絵図は、誰かの手によって予め描かれていたものだったのか、と。

 ただ、一つの疑問が浮かび上がってくる。最も重要な色がその絵図から抜け落ちていたのだ。もしやあの人自身が描いた絵図ではあるまいか。確かにあの人ならばそれもあり得るだろう。片手間に楽々と最悪のストーリーを構成してしまう筈だ。

 だが、それをやる意味が彼には分からなかった。理由が、彼には思い浮かばなかった。いったいどういう事だと、橋田徹は唇の痛みに辟易しながら、黒い布袋の下で視線を落とした。

「キザキ様のご指示なのでしょうか……」

 ぽつりと、言葉が落ちる。

 吉田障子は口を横に広げたまま首を傾げた。

「なんか言ったか?」

「キザキ様のご計画だったのでしょうか……」

「はあ……?」

 視線がテーブルに移る。陰気な男の腫れぼったい瞼は変わらない。キザキは相変わらず退屈そうに目を開けているのみだった。

「キザキ様……? キザキ様って何だよ……? おい、どういうことだ」

「キザキ様です……。小野寺文久様……。あの人がいる限り、学会が終わることはあり得ませんので……」

「小野寺文久……?」

 パチ、パチ、と赤い火が爆ぜる。ゆらゆらと赤い影が揺れる。

 鼓動が胸の内を撫でると、吉田障子は右手を口元に、左の頬に薬指を当てた。

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