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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
144/254

知らない


 よく舗装された溝川で跳ねる水のように、鉛色の空から押し寄せる海の波は白々と濁っていた。潮風はぬるい。国道は声に寂しく、ただ岩に立ち上がる波の音と風を切るバイクの音が、代わり映えのない景色に時の流れを添えた。

 くの字に伸びる海沿いの道を二台のバイクが走り抜ける。先頭を走る自動二輪はどんよりと暗い海に赤い影を落とし、黒い影がそのあとを塗りつぶしていく。曇り空に轟く二つの排気音。時折、黒い影が前に出た。だが、そのつど赤い影は速度を上げ、親指を下げ、潮風を正面から切り裂いた。

 Y町はちょうど秋の茄子のようにたわわと横に長い形をしていた。人口は少なく、海沿いにチラホラと見える町の景色は閑散としている。長谷部幸平から連絡を受けて、Y町の外れまでバイクを走らせていた清水狂介は、右手に見える海ではなく、左手に見える山に目を細めていた。田舎には不釣り合いな八階建ての白いビルこそが学会へと続く山道の目印なのだそうだ。漁村は無数に存在し、どこもかしこも海風に廃れてしまっており、いったいY町の外れまで後どのくらいなのか見当もつかない。だが、風を切りながらスマホを開く行為は少々億劫であり、決戦の場であった河川敷からずっと真後ろをついて離れない元“紋天”の早瀬竜司にでも頼もうかと、狂介はバイクの速度を僅かに落とした。

「ああ?」

 早瀬竜司の眉間に赤い筋が浮かび上がる。ヘルメットを被っていないために彼の長い髪は雷雲を駆ける龍の如く暴れ回っていた。

「Y町の外れまで後どのくらいか知りたい」

「ああんッ?」

「スマホで現在地を確認しろと言ってるんだ」

「いや、ぶっ殺すぞ?」

 言うが否や、早瀬竜司の拳が空を切り裂いた。軽くハンドルを横に切った狂介はやれやれといった態度で肩をすくめる。そうしてまた左に目を細めた彼はバイクの速度が上げた。

「待てやコラッ!」

 早瀬竜司もまた風を切る速度を上げる。ただ、赤い影を追う怒鳴り声はすぐに生ぬるい潮風に飛ばされてしまった──。



 ゆらりゆらりと薄い影が土間に落ちる。

 玄関の扉が開けられると、一雫の墨を水に溶かしたような白い日に、痩せた女の影が後ろに広がった。

 視線を落とした女は細り乾いた手を撫で合わせた。寒い、と。雨模様の夏風はどんよりと水気が多く、それが女の肌には冷たかった。乾いた手を擦り、握り、そして頬に当てた女は視線を上げる。歩道から誰かがこちらを見つめていたのだ。それは長い黒髪が美しい少女の瞳だった。

「王子のお母さんだよね」

「あらあら、どなたかしら?」

 表情が和らぐ。陽気で、お茶目で、魅力的な女の笑みが口元に浮かび上がる。

「千代子ちゃんだよね」

「……は?」

 表情が強張る。陰気で、腹黒く、醜悪な女の様相が口元に浮かび上がる。

「千代子ちゃんなんだよね?」

「……貴方は確か」

「千代子ちゃん!」

 姫宮玲華の瞳から涙が溢れ出した。ほっそりとした少女の腕が広げられる。わあっと口を開けた玲華が勢いよく倒れ込んでくると、吉田真智子は表情を固めたまま、慌てたように彼女の身体を受け止めた。

「ちょ、ちょっと貴方、玲華ちゃんでしょ? 急になんなの?」

「千代子ちゃん千代子ちゃん! ごめんねごめんね!」

「何、何よ、何なのよ貴方」

「ごめんね! 本当にごめんね!」

 玲華の涙は止まらない。痩せた女の背中に腕を回し、わんわんと、少女の嗚咽が曇り空に飛び上がっていく。

 吉田真智子は震えた。その擦れた心で、遠い空の彼方から世界を見下ろしていた吉田真智子は、目の前の少女の長く艶やかな髪に戦慄してしまう。得体が知れなかった。姫宮玲華という存在が吉田真智子にとっては怪異だった。

「貴方、貴方は誰。誰なの」

「ごめんね……。千代子ちゃん、ごめんね……」

「誰よ。貴方はいったい誰なのよ」

「あだっ、あだじ、あだじは魔女……! あ、あの時の、占い師の、魔女……!」

「魔女──」

「あ、あだじは、千代子ちゃんのおどもだぢ……! た、高峰茉莉なの……! 千代子ちゃんと、じょう子ちゃんと、夏子ちゃんの、お、おどもだぢの、高峰茉莉なの……!」

 玲華の頬が涙と鼻水に白く煌めく。吉田真智子は視線のみを斜め上に向けると、ひどく退屈そうな表情で、玲華の身体を引き剥がした。何も怪異などではなかったのだ。所詮は退屈な日常の延長線上の出来事だった。

「そう、そういうこと。高峰茉莉。魔女。ああ、そういうこと。玲華ちゃんに生まれ変わったってわけ。そういうこと」

「千代子ちゃん……?」

「ああ、そう。ああ高峰さん、いえ玲華ちゃん、あたし今から用事があるの。うふふ、また今度ゆっくりとお話ししましょう」

 無邪気で陽気な笑みが吉田真智子の頬を柔らかくする。玲華は困惑したようにしゃっくりすると、細い首を横に倒した。

「用事なら手伝うよ? あたし、千代子ちゃんとまたいっぱいお話しがしたいの。いっぱい謝りたいの」

「うふふ、ごめんね玲華ちゃん、お話しはまた今度よ。本当に大切な用事だから、もう行くわね」

 真智子は和やかに微笑み、玲華の頭をそっと撫でた。そこに千代子の面影などはない。玲華は様々な感情に揺れる胸を抑えると、また真智子の痩せた腕をぎゅっと抱きしめた。

「ちょっと、玲華ちゃん」

「王子……」

「はい?」

「王子にも色々と迷惑かけちゃって……。千代子ちゃんの大切な大切な子供なのに、あたし、昔からいっつも肝心なところでヘマしちゃうんだよね……」

 玲華はそう言って、くすんと喉を鳴らした。

 真智子の表情が変わる。忘れ去ろうとしても消し去ろうとしても蠢き続ける影に辟易したのだ。影は影のまま夜の校舎に消えてしまえと、真智子は醜悪な表情で、それでも陽気に微笑んで見せようと必死になった。

「あのね、玲華ちゃん。お母さんね、ほんとにほんとにほんとーに忙しいの。今から大切な用事があるから、だから腕を離して、ね?」

「そうだよね。えへへ、千代子ちゃんはお母さんになったんだもんね。あたし、すっごくすっごく嬉しいよ」

「そう、なら」

「千代子ちゃんがお母さんになったこと、しょう子ちゃんは知ってるの? しょう子ちゃんとはもう会ってるんだよね?」

 女の表情がぐにゃりと歪む。乾き細った手が唇を覆い隠す。だが、感情は隠せない。真智子は呼吸を荒くすると、玲華のほっそりとした腕を振り払った。

「忙しい。そう言ってるの」

「ど、どうしたの? もしかしてしょう子ちゃんと喧嘩してるの?」

「してない。もう行く」

 ゆらりと女の影が動く。玲華は慌ててその後を追い掛けた。

「待ってよ千代子ちゃん! ごめんねごめんねごめんね! でも、喧嘩はダメだよ! 一緒にしょう子ちゃんに謝りに行こうよ!」

「うるさい。そもそもしょう子って誰。知らない人の話はやめて」

「え……? しょう子ちゃんだよ……? 戦前の王子の、ううん、千代子ちゃんと夏子ちゃんのお友達の、田村しょう子ちゃんの話だよ……?」

「知らない。あたしは真智子よ。吉田真智子。千代子とか夏子とかしょう子とか、いったい誰よ」

「え、え……? ど、どうして……? 君が千代子ちゃんでしょ……? 君が四人目のヤナギの霊なんでしょ……?」

 ぐにゃりと視界が歪む。いや、空が歪んでいく。薄墨色の雲がぱっくりと口を開けると、赤い火の粉と共に、黒い雨が世界に影を落とした。

 玲華は息を呑んだ。魔女としての本能が様々に混ざり合った感情を青く澄み渡らせる。そうして澄んだ瞳で世界を見渡した玲華は再び息を呑んだ。それは魔女の知る世界ではなかった。確かにあった夏の曇天は赤い火に呑まれ、黒い煙が街を覆い尽くしている。目の前の女は変わらず痩せたままで、ただその瞳にゆらゆらと浮かんだ炎は、怒りとも憎しみとも悲しみとも絶望とも違う、魔女の知らない色に揺らめいていた。

「なに、これ……」

「千代子ちゃんって誰。ヤナギの霊って何」

「き、君は……」

「あたしは吉田真智子。吉田真智子。吉田真智子よ。他の誰でもない。吉田真智子。あたしは貴方を知らないし、千代子も夏子もしょう子も知らない。あたしは吉田真智子」

 炎が周囲を埋め尽くしていく。熱い。苦しい。

 魔女は言葉を失った。それが現実の光景だとは思えなかった。だが、確かに熱く、息苦しい。降り頻る黒い雨は本物で、身を焦がす赤い炎も本物で、痩せた女の白い肌は確かに本物だった。

 これは何だ。魔女は問う。

 それを知らない。魔女は呻く。

 痩せた女の声も表情も瞳も、魔女には覚えのないもので、だが、その力は確かにこの世にあって、この世にあってはならないものだった。

「貴方が誰かは知らないけれど、お願いだから、これ以上あたしの人生に関わらないで。忙しいの。用事があるの。大切な人がいるの。知らない人の話はやめて。分からないことは話さないで。これ以上あたしを壊さないで。あたしは吉田真智子。吉田真智子なの」

「き、君は吉田真智子だよ……。他の誰でもない、吉田真智子だよ……。でも、でもね、だからといって記憶を否定するような真似はしないで……。君は山本千代子だったし、田村しょう子と鈴木夏子は君の大切な友達だから……。私のことは否定してもいい、でも、自分と、思い出と、友達は絶対に否定しないで……」

 ゆらりと女の影が揺れる。その瞳の炎を魔女は知らない。

「否定しないで否定しないで否定しないで。何の話。否定しないで。あたしは吉田真智子。はい。あたしは山本千代子。いいえ。田村しょう子と鈴木夏子は大切な友達。いいえ。貴方のことは否定してもいい。はあ。自分と思い出と友達は否定しないで。はあ。何の話。わからないことは否定しようがないじゃない。あたしは吉田真智子で、あたしは山本千代子じゃない。ただ、それだけの話じゃない」

「い、意味が……。君は、山本千代子の生まれ変わりでしょ……?」

「生まれ変わりって何。山本千代子が死んで山本千代子が生まれてくるの。ならその生まれ変わった山本千代子は何処にいるの」

「その生まれ変わった山本千代子が君なんだよ……。山本千代子、鈴木英子、村田みどり、吉田真智子……。君は生まれ変わってきたんでしょ……? 覚えてるよね……?」

「山本千代子は夢見がちな乙女。鈴木英子は嫉妬深い女。村田みどりは知恵遅れ少女。それぞれがそれぞれの王子をそれぞれの想いで愛しました。めでたしめでたし。だから何。覚えてるから何。生まれ変わるって何。ねぇ魔女さん、人ってどうしたら生まれ変われるの」

 火が身体を這い上ってくる。熱い。だが、火はまるで水を走る油のようで、皮膚に染み込むことはなかった。

 玲華は体を震わせた。恐怖から。

 知らないということが何よりも恐ろしい。この女はもしかすると本当に山本千代子ではないのかもしれない。だが、もしそうだとすれば、この状況を説明できない。山本千代子が死に、鈴木英子が生まれ、鈴木英子が死に、村田みどりが生まれた。そうして村田みどりが死んで、今目の前にいる吉田真智子がこの世に生を受けた。記憶が受け継がれ、感情が受け継がれ、愛が受け継がれた。ただ魂が器を変えるという単純明快な真理のもとに、王子と共に生き続けるという山本千代子の願いが受け継がれていった──。

「き、君は、千代子ちゃんは、生まれ変わったの……。魂が新たな器を、生まれたばかりの赤子の体を見つけたの……。でも、でも、それは悪いことじゃなくって……。魂こそが人で、生まれたばかりの赤子はまだ単なる器だから……。だから、千代子ちゃんは何も悪くないの……」

「悪い。はあ。悪くない。はあ。そんな話をあたしはしていない。どうやったら生まれ変われるのか。あたしが聞きたいのはただそれだけ」

「死んで、魂が肉体を離れる……。肉体の外は何処までも広く青い海で、普通の人ならすぐに溺れてしまう……。でも君は私と同じように泳ぎ方を知ってるから……。泳いで泳いで、頑張って頑張って、そうして次の陸地を見つけたの……。そうして君は生まれ変わったの……」

「泳いでない」

「え……?」

「青い海なんて知らない。泳ぎ方なんて知らない。溺れた記憶なんてない」

 吉田真智子の顔に影が広がっていく。それは焼け焦げた跡のようで、また、深い穴のようでもあった。ただただ夜の底よりも暗い影が、女の顔を塗りつぶしていった。

「ならあたしはどうやって生まれ変わったの。ならどうしてあたしの中に知らない記憶があるの。この感情は、思考は、心は、いったい誰のものなの」

 赤い炎が世界を焼き尽くしていく。黒い影が世界を覆っていく。

 魔女は震えた。目の前の女が恐ろしかったから。

 魔女は震えた。目の前の女が可哀想だったから。

「あたしは吉田真智子。吉田真智子なの。あたしは──」

「き、君は……」

「ねぇ、あたしはいったい誰」

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