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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章

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老齢の巨木


 シダレヤナギの青葉が校庭を撫でる。凸凹と曲がった巨木は動かない。ただ長い枝のみがさらりさらりと土の匂いに巻かれていく。それは下から見れば仄暗い夏空を泳ぐ女の髪のようで、生徒会書記の徳山吾郎は遠巻きに、ヤナギの木を見下ろす旧校舎全体を見上げていた。

 パナマハットを被った足の長い老人が吾郎の隣で腕を組んでいる。暴走族でバンドメンバーでもある二人の不良少年はすでに学校を去っており、一年生の小田信長は先ほどから旧校舎の中を行ったり来たりと忙しい。ヤナギの前では白い和服姿の老女が鷹のような目を細めており、彼らは巫女である姫宮詩乃の見聞を待っている状態にあった。

 ざっざ、と砂を擦るような足音がグラウンドの方から聞こえてくる。視線のみを横に動かした吾郎はまるで亡霊にでも出会ったかのように「あああっ」と声をひっくり返してしまった。

「おおおい!」

 徳山吾郎は慌てて駆け出した。一ヶ月近くも行方不明となっていた同級生が突然目の前に現れたのだ。いや、それを期待して学校を訪れた吾郎であったが、いざ実際に目の前に現れるとそれはまさに亡霊のようで、果たして彼が幻覚でないか否かの判断がつかない。ただ吾郎は黒縁メガネを激しく上下に揺らしながら、田中太郎の広い背中に腕を伸ばした。

「田中くん!」

「うおっ?」

「田中くーんっ!」

「生徒会の徳山じゃねーか。急になんだよ」

「それはこっちのセリフだよ! いったい今まで何処にっ……! い、いや、そんなことよりも、花子くんはいったい何処をほっつき歩いてるんだね!」

「ああ? 部長ならまだ寝て……。てか、んな事よりもおい徳山、お前って前回のことは覚えてるか?」

「ぜ、前回? 前回とは、まさかアレの話か?」

「また過去が変わっちまってないか、確認しておきたいんだ」

 田中太郎は校舎を見上げた。左手はポケットに、右手が何やら忙しない。まるで見えない棒で見えない虫でも叩いているかのような。

 吾郎は呼吸を整えるとメガネのブリッジを押し上げた。そうして暫しの沈黙の後、口に手を当てる。

「何も変わってないさ……と信じたい。しかし、それを僕は知覚できない。君の感覚としてはどうなんだい?」

「どうもこうもまだ起きたばっかで何も分かんねーよ。ただ、妙なのは確かだな」

「そもそも君はいったい何処から……」

 ざわざわと部活中の生徒たちの視線が集まってくる。徳山吾郎は慌てたように田中太郎を旧校舎裏へと引っ張っていった。

「それで君は何処から現れたんだね? てっきり僕は、君たちがここにいるものとばかり……」

 ヤナギの青葉がふわりと薄墨色の空を撫でる。渡り廊下を挟んだ旧校舎裏は別世界のように静かで、空気がひんやりと涼しげである。姫宮詩乃の視線はヤナギの幹から動いておらず、ただ、パナマハットのトップを押さえた戸田和夫は何やら怪訝そうに目を細めており、田中太郎もまた茫然自失といった様子で言葉を失っていた。

「おい田中くん、大丈夫か?」

 徳山吾郎は不安げに黒縁メガネの位置をズラした。田中太郎は魂が抜けたような表情で、「師範……」という呟きのみが花壇の土に沈んでいく。太郎がフラフラと足を踏み出すと、何やら不気味な気配を感じた吾郎は、彼から数歩距離をとった。

「おいお主。ボーイよ、ちょっとよいか」

「し、し、師範っ……!」

「唐突に聞かせてもらうが、お主の父親は誰じゃ?」

 戸田和夫の表情は険しい。田中太郎は目を潤ませつつ「はぁ?」と首を倒してしまった。

「いやほら、父親ならいないっすけど……?」

「おらんじゃと? では母親は?」

「いや俺、家族いねーし……。あれ、ま、まさか師範、俺のこと忘れて……?」

 田中太郎は愕然と目を見開いた。まさにそれがこの世の終わりであるかのように、彼の肩から下半身にかけてがふにゃりと崩れていく。戸田和夫は顎に手を当てると、田中太郎の体をジロジロと見渡した。そうして旧校舎を横目に睨んだ戸田和夫は「ふむ」と腕を組んだ。

「忘れて、とはいったいどういう意味か。数十年ぶりにこの街を訪れた我とお主に面識があるとは思えんが」

「あ、え……? す、数十年ぶり……?」

「田中くん田中くん、ほら、アレのせいだろ。過去が変わってるんだ」

 徳山吾郎がボソリと耳打ちをする。田中太郎ははっと表情を変えると、首の後ろに手を当てた。

「そ、そうか、アレのせいか……。忘れたんじゃなくそもそも俺の存在を知らなくて……あ、そういや心霊学会とかいうわけ分からん団体が師範の道教を乗っ取ってやがったな……!」

「アレとはなんじゃて」

「ヤナギの霊のアレっす。いや、今の師範が知ってるかは分かんねーけど……」

「もしやお主、行方不明となっていた学生の一人か?」

「はい。一応っつーか、二回目っつーか」

「ふーむ」

 戸田和夫は唸ると、ヤナギの木に視線を送った。いつの間にか白髪の老女の姿が消えている。代わりに小田信長が旧校舎の扉からその活発な手足を跳躍させた。

「田中せんぱーい!」

「信長くんじゃねーか。久しぶりだな」

「久しぶりです! 先輩、大丈夫だったんですか?」

「まあな」

「部長と、その、あの、姫宮さんは……?」

 小田信長は首を赤くすると、モジモジと指をこまねいた。

「部長はまだ目覚めてねーんだ。それと玲華ちゃんは急に飛び出していっちまってな」

「学校からですか?」

「いや、なんつーか、木崎さんって人の家からなんだが」

「木崎さんって誰ですか?」

 信長の丸い目がクリクリとした動きを見せる。田中太郎は頭を掻いた。やはりまた過去が変わってしまってるんじゃないかと。どうにも前回目覚めた時よりもさらに不可解な状況となっているようで、交わせば交わすほどに、さまざまな絵の具が混ざり合うように、白い世界が不鮮明となっていった。

「木崎さんじゃて? いや待て、流石にそれは有り得んか……」

 戸田和夫はそう一人で首を振ると、パナマハットのフロントに手を置いた。徳山吾郎も不審げで、田中太郎はなんとか現状を整理しようと無意識に木剣を振る仕草をした。

「だから俺にもよく分かんねーんだって。目が覚めたら普通の畳部屋でさ、すぐそこの家だよ、そこで俺たちの体が寝かされてたんだ。隣の部屋で心霊学会の奴らが寝てて、なんかよ、世界史の福山が木崎って人と一緒に、俺たちの体をその家に運んだらしいんだ」

「ふ、福山先生が君たちの体を……? まさかこの学校からかね……?」

 吾郎の黒縁メガネが鼻の上でズレる。

「そうらしいぜ。俺たちは理科室で意識を失ってたんだとよ」

「理科室で意識を失って……。ということはやはりアレは……。いやいや、もしそうだとして、なぜわざわざ体を運んだりするんだ……?」

「そうしないと俺たちの命が危なかったらしい」

「救急車は呼ばず、警察にも通報せず、意識のない君たちの体を一月近く民家に隠して、そちらの方がよっぽど危険だろう!」

「まぁそれには俺も同意見だが、なんかな、戦前の学校の敷地から出ちまうとそのまま死んじまうらしいんだわ。俺だって意味分かんねーって。つーかさ、やっぱあの夜の校舎って夢だったんじゃねーの?」

 田中太郎のその言葉に、徳山吾郎は重々しく首を振った。よく熟れたアケビのように唇が紫色となっている。

「いや、アレが夢というのはあり得ないさ……。夢では説明できない事が多すぎるからね……」

「夢じゃねーってんなら、何だってんだよ?」

「それは……」

 徳山吾郎は口を紡いだ。背筋が寒くなったのだ。

 先ほどの戸田和夫と姫宮詩乃の会話。白髪の老女の話は大変に興味深かった。もはや幽霊の存在を否定しきれない立場にある徳山吾郎は、魂と体、そしてそれによって創られるという精神の話に圧倒された。この学校が不測の事態によって生まれた「体」だという話。あの夜の校舎はいわば「精神」であり、自分達は「魂」となって学校の「精神」の中を彷徨っていた。

 つまり、煙のように消えるべくは魂のみで、肉体はその場所に在らねばならないのだ。

 徳山吾郎の頬から血の気が失われていく。旧校舎を振り返った彼は少しずつ視線を校庭に落としていった。

 多数の行方不明者がこの学校から出ていた。消えた生徒たちはその生死すらも未だに確認されていない。つまり体が見つかっていないということ。だが、それは神隠しなどではなかった。夜を彷徨っていたのは魂だったのだ。体ごと消えてしまったというわけではなかった。

「あ、あ……」

 徳山吾郎はその場にへたり込みそうになった。その真実を知るのがあまりにも恐ろしかった。

「おい、どうした?」

 田中太郎が訝しげに眉を顰める。徳山吾郎はフルフルと首を振り返すことしか出来ない。小田信長は先ほどからキョトンとした表情で、戸田和夫はといえば、白い顎髭を撫でながら頬を青ざめさせている。

「あの先輩、それで部長は今何処にいるんですか? 新九郎先輩がなんか大変で、金髪で、不良で……。だから僕は超研の部員として部長を探さなければならないんです!」

 小田信長はピンと背筋を伸ばすと敬礼のポーズをした。

 はっと徳山吾郎は表情を変える。切迫した事態にあるということを思い出したのだ。

「そ、そうだった! 先ずは麗奈さんの方を何とかしなければ!」

「麗奈さん?」

「田中くん、早く花子くんの居場所を教えてくれ!」

「だから部長はまだ寝ててよ……」

「叩き起こすんだ! いやそうか、花子くんの魂はここに……」

 徳山吾郎は怯えたようにヤナギの枝を仰ぎ見た。いったいどれほどの業がこの老齢の巨木に絡み付いているのか。彼はゆっくりとまた首を振ると、コンクリートのように無機質な灰色の空を睨み上げ、そして視線を下ろした。

「彼女なら大丈夫さ。きっともうすぐ、目覚めたばかりの花子くんの快活な怒鳴り声に、暗い雲が吹き飛ばされるだろう。だから、早く花子くんの元に僕を連れて行ってくれ」

「ああ、そうだな。分かった」

「それと移動する為の足が必要だ。いや、本当に事態が切迫していてね、このままじゃ麗奈さんと吉田くんだけじゃない、その他大勢の人生までもが終わってしまうかもしれない」

「吉田だと? いったい俺たちが寝てる間に何があった?」

「おそらくだが、心霊学会のトップが麗奈さんに拉致された。そのまま殺される可能性もある。だから、その最悪の事態が起こる前に、麗奈さんと、彼女が引き連れている暴走族を止めなくてはならない」

「は……?」

「警察には頼れない。だから絶対に花子くんの力が必要になる」

「わ、分かった……。ちょっと新九郎に連絡してみるわ……」

 田中太郎は呆然とした表情でスマホの画面に指を滑らせた。徳山吾郎はもう一度旧校舎を振り返ると、薄く黄色みがかったヤナギの青葉をぐっと睨み付けた。


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