嘆きの因果
清水狂介は曇り空を見上げた。半紙に薄く墨を伸ばしたような影が青い光を隠している。山向かいの河川敷は蒼々とした雑木に囲まれており、生い繁った雑草が荒くれ者たちの握り拳に薙ぎ倒されていく。
火龍炎”と“苦獰天”の決戦は今まさに佳境を迎えようとしていた。
スマホに耳を傾けた清水狂介は完全に無防備だった。ただ、その剥き出しの肩で微笑むブラック&グレーの髑髏のタトゥーが禍々しい。“火龍炎”の特攻隊長はかつてこの街で最も恐れられた男だった。今や“インフェルノ”の総長である彼に安易に近付こうとする者はいなかった。
清水狂介は視線を落とした。彼を遠巻きに睨み付けていた“苦獰天”のメンバー数名が慌てて明後日の方向を見上げる。スマホをポケットに仕舞った狂介は微かなため息をつくと、“インフェルノ”の副隊長である山下優に目配せした。
「狂介、どうした?」
「用事だ。離れるぞ」
「なんだって?」
「幸平の頼みだ。どうにも複雑な事態らしい。もしかするともうここには戻れんかもしれん」
狂介はそう言うと、彼の愛車であるカワサキZ400GPの排気音を轟かせた。山下優は慌てるも、それでも彼が信頼して止まないリーダーに向かって落ち着いた声を出した。
「わかった。俺たちのことは心配すんな。お前はお前の用事をキッチリと済ませてこい」
下品な歓声が曇り空に上がる。“火龍炎”の初期メンバーの一人である古城静雄が殴り倒されたのだ。“火龍炎”と比べて“苦獰天”の方が若干人数が多く、形勢は五分五分といったところだった。今自分がこの場を抜ければ、“苦獰天”に追い風が吹き始めるかもしれない。そう思った狂介はまたバイクの排気音を河川敷に轟かせると、元“紋天”のリーダーである早瀬竜司に向かって親指で首を切る動作をした。
「ああっ?」
早瀬竜司の目の色が変わる。清水狂介がそのまま親指を後ろに向けると、クック、と低い笑い声を出した早瀬竜司もまた自分のバイクに跨った。
「おい、ここは任せたぜぃ」
「行ってこい」
彼の右腕である大杉田太地が太い顎を動かす。早瀬竜司は楽しげに舌を鳴らすと、清水狂介に向かって中指を立てた。
二つの排気音が曇り空に轟くと、宙を旋回していたカラスの群れが山向こうへと飛び去っていった──。
コーヒーの薫りが六畳一間を満たしている。田中太郎は乾いた布団を横に折り畳むとベットを見渡した。襖の前で腰を曲げた老女の表情が見えづらかったのだ。枕元に愛用のスクエアメガネを発見した田中太郎は目を瞬かせると、また姫宮玲華に視線を送った。
「どういうことだ……?」
「さぁ……?」
二人は首を傾げ合う。永久の夢から目覚めたばかりの二人はまだ頭がぼーっと虚なままで、自身の記憶すらも曖昧だった。やがて少しずつ頭がはっきりとしてくると、メガネを押し上げた田中太郎は口元に手を当てた。
「まさか、また過去が変わっちまったのか……?」
「そ、そうかも……」
二人の顔がほんのりと青くなる。腰を曲げたまま正座した老女は「良かったぁ……」と微笑むばかりで、状況を説明しようという素振りすら見せない。よく見ずとも痩せ細った手で頬や額を擦り続ける老女の仕草は狂気じみており、もしやボケてしまっているのではないかと、年齢すらも定かではない高齢の女性に対して二人は憐れみの視線を送った。
「おいっ……!」
野太い男の声が畳を振動させる。ぬっと廊下から伸びてきた影に玲華と太郎はゴリラを連想した。
現れたのは世界史の福山茂男だった。コンビニのビニール袋を片手に荒い呼吸を繰りした彼は、呆然と口を半開きにした田中太郎の広い背中に、太く毛深い腕を回した。
「お前たちっ……! 帰って来れたんだな……!」
「うおおいっ! 暑いっつの!」
「あわわ……。これは、ヤバい展開だよ……!」
姫宮玲華は慌てたようにスマホのカメラを二人に向けた。うひひ、と何やら嬉々とした表情である。
暴れる田中太郎をひとしきり力強く抱き締めた福山茂男は鼻水まみれの顔を玲華に向けた。毛深い腕がぬっと横に広げられる。すると、背後のきゅうりに気が付いた猫のように飛び上がった玲華の白い手が振り上げられた。
「このっ、変態ロリコン野郎っ!」
福山茂男の大きな体が畳に倒れる。その様子に目を丸めていた田中太郎ははっと体を起こすと、頬を押さえたまま鼻水を啜る大男に向かって声を荒げた。
「先生! これってどういう状況だよ!」
部屋を見渡した田中太郎はまた口を押さえた。畳の上にはベットが四つ置いてあり、猫のように瞳孔を細めた玲華の隣には田川明彦が、そして、彼のベットの前では睦月花子が死んだように目を瞑っていた。
「こ、これって、アレに迷い込んだメンバーじゃねーか……」
田中太郎は言葉を探すように視線を動かし続けた。いったい何から質問すればいいのか。過去が変わっているとすれば、もはや自身の目で状況を確認するよりないだろう。だが、もし過去が変わっていないとすれば、この現状の不可解さに対して、どんな質問が適しているのか安易には計れない。
なぜ自分たちは同じ部屋で寝ていたのか。なぜ世界史の教員がここにいるのか。ここはいったい何処なのか。そもそもあの夜の校舎はいったい何なのか。もしや本当にただ夢を見ていただけなのでは。ならば前回の夜の校舎はいったい。あの後、夜の校舎を脱出した自分たちは確かに自分たちの家で目を覚ました。そうして変わってしまった世界に何の疑いもなかった。
「せ、先生は……。アンタは何を知ってんだ……?」
田中太郎は深く息を吐いた。どうしても焦りが消えてくれない。苛立ちを抑えようと頭を掻いた彼は、睦月花子を横目に拳を固めると、コツコツと額を叩いた。
「済まん。俺は何も知らないんだ」
福山茂男はそう言って、悔しそうな表情をする。太郎は勢いよく拳を下ろすと、激しい動揺と怒りに喉を震わせた。
「じゃあ、なんでアンタがここに居んだよ! つーか、ここは何処だ!」
「ここは木崎隆明という人の家で、学校の隣だ」
福山茂男の視線が薄いカーテンに向けられる。振り返った田中太郎はゆっくりとカーテンに手を伸ばした。一階の窓から見える庭は多様な植物に覆われ、青葉の生い茂った赤松の先に富士峰高校の校舎が見える。その光景に太郎はただ呆然と目を見開くばかりだ。
「こ、こんな場所に……。い、いや、どうして俺たちはここに……」
「俺が運んだんだ。人数が多かったから木崎さんにもお願いしてな。もう一月近く前の話だ」
「病院とかだろ、普通……。まさか警察にも通報してないのか……?」
「警察にはまだしてない。もしお前たちがこのまま目を覚さなければ、俺は自首するつもりだった」
「なっ……なんでだよ! 意味分かんねーって!」
外に響くような怒鳴り声だった。玲華の細い肩がびくりと震える。福山茂男が無言で頭を下げると、腰の曲がった老女は痩せ細った腕を横に伸ばした。
「こら小野寺くん! 先生だってねぇ、頑張ってるんだから!」
「はあ……?」
「先生はねぇ、毎晩ねぇ、仕事終わりに学校の見回りをしているの。毎晩毎晩夜遅くまで、生徒たちがしっかりと家に帰ったか、見て回ってるんだから。先生だって大変なんだからね」
老女はそう言うと、痩せた手を畳に下ろした。そうして「あれぇ……?」と間の抜けた声を出し始める。そんな老女の背中を優しく撫でた福山茂男は、神妙な面持ちで唇を結ぶと、また頭を下げた。
「済まん。ただ、こうするより他なかった。迷い込んだ者の体はあまり遠くには離せないんだ。本当に死んでしまうかもしれないから」
「な、なんだって……?」
「俺にもよく分からん。この家の持ち主である木崎さんの話だと、ここまでが戦前の高等女学校の敷地らしい。俺はここで、お前たちがあの夜の校舎を自力で脱出してくれることをひたすら願ってた」
「高等女学校? いや、ちょ、ちょっと待て、まさか先生もアレに巻き込まれたことあんのか?」
「ある」
福山茂男はそう言って無精髭を撫でると、板目の焦げた竿縁天井を見上げた。
「もう十数年も前の話だ。俺がまだお前たちと同じくらいの頃、俺たちは四人であの夜の校舎に忍び込んだ。俺と、同じクラスの大宮真智子という女性、彼女の恋人だった白崎英治という男、そして今隣の部屋でお前たちと同じように眠っている荻野新平の四人で、あの夜の校舎に忍び込んだ。何度も何度も。そう、俺たちは忍び込んだんだ」
福山茂男は声を低くした。まるで壁の向こうを見つめるように、細めた目を右に向けた茂男は坊主頭を後ろに撫で付ける。
「遊び半分だった。大宮さん、いや、大宮真智子は不思議な力が使えた。彼女はまるでそこが自分の家であるかのように、あの夜の校舎を自由に出入りしていた。まるで自分の家に友達を招くような感覚で、俺たちを夜の校舎へと誘った。お茶目で、陽気で、本当に魅力的な女性だった。いったいどれだけ英治の野郎に嫉妬したことか。俺は実のところ彼女のことが……」
「おい」
「ああ、済まん済まん。この話をするのは随分と久しぶりでな。ええっと、なんだったか……。ああそうだ、彼女、大宮真智子は夜の校舎への入り方を知っていたんだ。学校に忍び込んではいつものように理科室の隅で横になって、そうして眠るように俺たちは夜の校舎へと入っていった」
福山茂男は何度も何度も坊主頭を後ろに撫で付けた。懐かしんでいるのか、恥じているのか、恐れているのか。その表情は様々な感情に入り乱れているようだった。
「ただ楽しかった。怖くもあったが、俺以外の三人は皆んなすごい奴らで、俺はアイツらに守られながらいつもワクワクと夜の校舎を走り回っていた」
「ねぇ、その大宮さんって……」
姫宮玲華の赤い唇が妖艶な光を放つ。だが、福山茂男はかつての記憶に囚われてしまったかのように、影と光が混ざり合った瞳を畳から上げようとしない。
「昔の旧校舎は迷路みたいに入り組んでてな、戦前の授業風景なんかはまるで夢ん中みたいで、四階の空き教室からハレー彗星をみようって皆んなで躍起になった。大嫌いな鬼教師が廊下でバケツ持って立たされてる姿に皆んなで爆笑して、その後に俺の親父とおふくろが空き教室でこっそりキスしてる姿を見ちまって、あれには本当に参ったよ。ははっ、そういや英治の野郎、更衣室覗こうとして大宮さんにこっぴどく怒られてたな。ああ、あの頃は本当に色々なことがあった……」
「先生……?」
「本当に楽しかった。四人で色んな悪さしてなぁ……。あの頃の俺たちは若くて、無敵だった。不思議な出来事の数々は俺の青春だった。ただな、それは一年生の頃の話で、それから少しずつ彼女の様子がおかしくなっていった」
畳を撫でていた老女の様子が変わる。腰の曲がった老女の体が突然わなわなと震え始めると、はっと顔を上げた福山茂男は慌てたように老女の背中を摩ってあげた。
「二年生に上がったくらいから、俺は大宮さんを避けるようになった。怖くなったんだ。彼女の言動も行動も常軌を逸しているようにしか思えなかった。元々手の付けられない不良だった新平は、暴走族と連むようになってからあまり学校に顔を出さなくなり、それでも変わらず大宮さんと行動を共にしていたの英治の奴ただ一人だった。その白崎英治の行方が分からなくなったのが三年の暮れだ。とっさにあの夜の校舎を思ったよ。俺は久しぶりに大宮さんに話しかけ、そして、彼女が完全に病んでしまっていることに気が付いた。いや、既に気が付いていたんだ。ただ、どうしても怖くて話しかけられなかった」
老女の表情が虚になっていく。時折、ふっと皺だらけの頬を緩める以外に動きのなくなった老女の背中を、それでも福山茂男は甲斐甲斐しく撫で続けた。
「英治がいなくなり、大宮さんがいなくなると、新平の野郎がやっと学校に来るようになった。アイツは人が変わったように勉強に集中するようになって、俺は俺で、何にも集中できなくなった。夜になると俺はフラフラと一人で学校に忍び込み、そして夜の校舎と二人を探しながら学校を彷徨い歩いた。新平の奴は来なかったさ。薄情な奴だと俺はアイツのことが嫌いになったよ。だが、違った。アイツは十数年後の、ああそうだ、アイツは今まさにこの学校で起こっている怪異、この時の為に準備していたんだ。アイツは凄い奴だった。それに比べて俺はいつまでもダメな奴だ。俺には夜の学校を歩いて回ることしかできない」
福山茂男の視線が下がっていく。田中太郎はやっと深く息を吸い込むと、未だに深い混乱の最中にある思考で、なんとか質問の言葉を絞り出した。
「な、なぁ先生……、それでその、この家の持ち主だっていう木崎ってのは何者なんだ……?」
「ああ木崎さんは、そうだな……。お前らを俺たちの後の被害者とするなら、木崎さんは俺たちの前の被害者だ」
「先生の前の被害者?」
「お前も1979年の集団失踪事件は聞いたことあるよな。木崎さんは、そしてここにいる高野真由美先生も、あの事件の被害者なんだ。二人は富士峰高校の先生と生徒だった」
「ええっ?」
姫宮玲華は驚いて声を上げた。1979年といえば、つい先ほどまで自分たちが彷徨っていた時代ではないか。だが、夜の校舎はまさに夢のようで記憶が定かではない。目の前の老女の若かりし日をこの目で見たのだろうか。当時の王子だった木崎隆明にはついぞ出会えなかったのだろうか。あまりにも不鮮明で、曖昧で、どうしても思い出せない。そんな歯痒さと悔しさから、玲華の瞳に涙が溜まっていった。
「俺は高校生の頃からあの人の存在を知っていた。木崎さんは俺たちのことを陰ながら守ってくれていたんだ。とある危険な男から──。二人が消えた後、毎夜毎夜学校を歩き続ける俺にあの人は謝りに来た。ただ一言、済まないと。高校を卒業して大学に入り、そして教師になった俺はまたこの学校を歩き回ることになった。理科室で寝ている生徒はいないか。旧校舎で遊んでいる生徒はいないか。体育館で一人嘆いている生徒はいないか……。俺はまた毎夜毎夜この学校を歩き回った。使命感からなんかじゃないぞ、楽しかったんだ、単純にな。俺は子供の頃に戻ったみたいに、ワクワクとまた夜の校舎を探検した」
姫宮玲華の瞳から涙が溢れ出る。どうしても夜の校舎での出来事が思い出せないと。さめざめと乙女の悔し涙が止まらない。無論、後遺症ではあるが。目覚めたばかりの姫宮玲華は依然として情緒不安定だった。
福山茂男は頷くと「大丈夫だ」と玲華の頭を撫でた。猫のように鋭いビンタが茂男に襲い掛かる。いてて、と赤くなった頬を押さえた茂男は苦笑いを浮かべた。
「そして時が訪れた。昨年の春だ。俺は数十年ぶりに木崎さんと再会した。いや、木崎さんの方はずっと俺のことを見守ってくれていたんだろうが、それはともかく、あの人は昔と全く変わらない姿で俺に警告した。校舎に夜が訪れると。俺は怖くなった。また誰かが居なくなるんじゃないか。いったいどう警戒すればいいんだ。するとあの人はこの家のことを教えてくれた。もし学校で誰かが不自然に気を失っていたら、速やかにこの場所に移動させろと。万が一にも救急車等で高等女学校の敷地外に出てしまえば、その誰かは本当の死を迎えてしまうと。そして何より、とある男の存在があった。その男にお前らのことを知られるわけにはいかなかった。あの放課後にな、理科室でお前らが倒れているのを見て、俺は本当に気を失いそうになったよ。恐れていたことが現実になったと、俺は慌てて木崎さんに連絡した」
「前回はどうしたんだ?」
夜の校舎を既に二回彷徨っていた田中太郎は前回の出来事を思い出しながら首を傾げた。「前回?」と福山茂男は怪訝そうな表情をする。
「ともかくだ、まだ人の多い放課後に移動させることは出来ない。俺は理科室の鍵を閉めて夜になるのを待ち続けた。幸いにも三原の奴はすぐに意識を取り戻してな、まぁちょっと様子は変だったが、とにかく三原だけは熱中症ということで病院に送ってやった。この場所でお前たちが目を覚ましたのはそういうわけだ」
そう言った福山茂男は長話しに疲れたように息を吐くと、コンビニの袋からお茶を三本取り出した。水滴に溢れたペットボトルを受け取った田中太郎はそこで腰の違和感に気がつく。どうやらオムツを履いているようだ。なぜか空腹等の不快感は感じなかったが、不意にシャワーを浴びたいと思った太郎は、自分の腕に鼻を近づけた。
「ああっ!」
姫宮玲華がまた素っ頓狂な声を上げる。自身のオムツに意識を向けつつ、姫宮玲華の白い肌に思わず赤面してしまった太郎は慌てて目を逸らした。
「王子を忘れてた! 王子のお母さんにも会わなきゃだし、しょう子ちゃんにも会いにいかないと!」
そう叫んだ玲華は、福山茂男の手からペットボトルを掠め取ると、隣の部屋からのそりと顔を出した水口誠也と入れ替わるようにして部屋を飛び出していった。
「な、なに……?」
水口誠也が困惑の表情で首を傾げる。田中太郎が赤面したまま肩をすくめると、福山茂男は慌てた様子で、情緒不安定な乙女の背中を追い掛けた。




