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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章

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記憶の檻


「記憶──」

「記憶……?」

「記憶っ──」

 そう言って黒く煤けた口を尖らせた山本千代子はきょろきょろと旧校舎の大広間を見渡した。まるで自分の存在位置を確かめるかのように、タンタンと広間の床を踏み締めると、陽に照らされた舞台に目を細める。ふよふよと宙に浮かぶ白い布。田中太郎ほか意識のない四人の男女が床に寝転がっている。

「記憶って……?」

 姫宮玲華と水口誠也は怪訝そうに顔を見合わせた。「この校舎はいったい何なのか」という二人の質問に対して、返ってきた答えが「記憶」だったのだ。「記憶」とはいったい何なのか。まだ「夢」という答えの方が分かりやすい。ほっそりとした腰に手を当てた玲華は何やら不満げで、水口誠也はといえば何かを考え込むように視線を下げると、おもむろにリコーダーを吹き始めた──ヨハン・パッヘルベル『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』──。

「うるっさーい!」

 くあっと口を開けた玲華のビンタが水口誠也の頬に赤い痕をつける。誠也は「いたた……」と頬を撫でるも、その表情は何やら嬉しげである。そんな変態に向かって玲華は中指を立てると、トコトコと舞台に向かって歩いていく千代子の後を追い掛けた。

「ねぇねぇ千代子ちゃん千代子ちゃん、待ってよ。記憶って何なの?」

「記憶──」

「誰の?」

「誰かの──」

 よいしょ、と低いステージの上によじ登る。その後に続いた玲華は、水口誠也の鷹が如き鋭い視線にうぶ毛を逆立てると、はっとスカートの後ろを押さえた。

「ねぇ千代子ちゃん。ちょっとあの変態の首を引き千切ってくれないかな」

「ま、待ってよ! 誤解だってば!」

 慌てたように舞台の上に飛び乗った水口誠也は、ヒラリと舞い上がった自身のスカートを両手で押さえた。

「僕は本当にただの天才紳士なんだよ。この格好にも当然理由があるのさ」

「変態が変態たる所以なんて絶対に聞きたくないし。ほんと気持ち悪いからもう何も喋らないで」

「玲華ちゃんってさ、そうやって何でも自分基準で決めつけちゃうとこあるよね。そういうのってあまり良くないと思うな」

「はいぃ?」

「花子さんから色々と聞かせてもらったけど、玲華ちゃんって自分のことをヤナギの霊だって思い込んでたんだよね。この校舎のことも王子の夢がどうのこうのと自分解釈で断定してたらしいけど、そのせいで前回も相当危険な目にあったとか。もっと他人の話に耳を傾けた方がいいんじゃない?」

「むうぅ……」

 玲華は肩を怒らせた。本当に悔しそうである。変態にしたり顔で諭されるという屈辱。それでも、たかが変態相手にいつものように感情を爆発させるのは癪であり、玲華はただじぃっと水口誠也の目を睨み付けた。水口誠也もまた決して視線を逸らさず──玲華の胸元から──、そうしてしばらく二人が睨み合っていると、気が付けば隣に立っていた千代子の煤けた指が、玲華のスカートの裾を引っ張った。

「わわっ! ど、どうしたの千代子ちゃん?」

「あっち──」

「あっち……?」

「出口──」

「ねぇ千代子ちゃん、君から見て俺の格好ってどうかな」

 水口誠也の声が割って入る。露骨に顔を顰めた玲華は、小柄な千代子を守るように腕を広げた。

「ヤナギの霊って言っても中身は普通の女の子でしょ。大人の男ってだけで女の子にとっては怖い存在だろうし、だからほら、セーラー服を着てみました。これなら怖くないよね?」

 千代子の首がふるふると横に動く。玲華が親指を下に向けると、水口誠也は「あれぇ」と困惑したように紺色のスカートを見下ろした。

 ちょうどその時、木造の廊下へと続く大広間の扉が開いた。それは影が忍び寄るような静かな音だった。

 おや、と首を傾げた玲華の視線が動く。長身の男子生徒が扉の前に現れたのだ。肩幅の広い青年で、彫りの深い顔は美しく整っている。一瞬その青年を田中太郎と勘違いした玲華は、木剣を片手に床に寝転がった男と扉の前の男を見比べて、困惑の表情を浮かべた。水口誠也の体がジリジリと後ろに下がっていく。

 彼らの背後で凄まじい打撃音が鳴り響くのとほぼ同時の出来事だった。

「きゃあっ!」

 玲華は驚いて飛び上がった。慌てて舞台裏を振り返った彼女は、ふよふよと宙を舞う白い布と、壁に開いた巨大な穴を見る。

「出口──」

「へぇ……?」

「行ってっ──」

 白い布がふわりと玲華の体に巻き付いてくる。てっきりそのまま持ち上げられるのかと思った玲華は、白い布に足を引っ掛けられるようにしてステージの上に倒されると「ぎゃっ」と尻尾を踏まれた猫のような悲鳴を上げてしまった。

「もー! いったいなにっ……」

 銃声が静寂を切り裂く。

 残響が校舎を振動させる。

 そのあまりの衝撃に息を止めてしまった玲華は、どっどと胸を叩く鼓動に口を押さえつつ、隣で同じように倒されていた水口誠也を振り返った。

「な、な、なに……?」

「ま、ま、まさかだけど……。いや、で、でも、どうして……」

 白い布が大広間の天井を埋め尽くしていく。まるでミュージカルダンスを踊っているかのように滑らかな動きだ。煤けた少女の指に合わせて動くそれらの向かう先には長身の青年が立っていた。

「気色悪りぃ。クラゲかよ」

 斜陽が青年の肌を透かす。青年の右手が上がると、黒色のリボルバーが眩い光を放った。

「お、小野寺さんだ……」

 大砲が放たれるような音ともにスミス&ウェッソンM29の銃口から煙が噴き出す。ダンッ、ダンッ、と銃声が静寂を切り裂き、白い布の破片がはらはらと床に舞い落ちていった。

「小野寺さんって……?」

「ヤ、ヤバいよ……! 早く逃げないと……!」

「逃げるって言っても……」

 銃声は鳴り止まない。装弾数を遥かに超えた44レミントン・マグナムが旧校舎の壁に穴を開けていく。

 ふっと煙の匂いが頬をくすぐる。玲華は肩を震わせながら、そっと大広間の床を見下ろした。意識のない五人の男女が、肩の広い青年の目の前に寝転がっている。よく見れば白い布は、彼らの体を守るように低い位置を漂っており、青年に向かって舞う布はほんの数枚にすぎなかった。

「千代子ちゃん千代子ちゃん……!」

「あっちっ──」

「あの子たちをこっちに連れてきて……!」

「待って……! 今彼らを動かすのは危険だよ……! 流れ弾に当たるか、最悪狙われて撃たれるかもしれない……!」

 銃撃は止まらなかった。青年の右手のたった一丁の拳銃から無限の弾丸が飛び出してくる。斜陽を遮る白い布の舞い。銃撃に弾けた木屑が日差しに反射する。いったい何が起こっているのかも分からないままに、玲華と誠也は舞台の上で頭を伏せ続けた。

「あああっ……!」

 玲華が悲鳴に近い声を上げた。二人を守るようにして立っていた千代子の横腹が弾け飛んだのだ。煤けた制服から血が噴き出すと、玲華は半狂乱になりながら、千代子の体に飛び付いた。

「千代子ちゃんっ千代子ちゃんっ……!」

「待って玲華ちゃん……! 危ないから伏せて……!」

 白い布が二人の体を持ち上げる。あっと声を上げる間も無く、玲華と誠也の体が舞台裏の隙間に投げ込まれた。

「出てっ──」

 千代子の声が頭上に響く。崩れた段ボール箱の上で体を起こした水口誠也は、頬を撫でる乾いた風の流れに背後を振り返った。

 木目の粗い壁にポッカリと巨大な穴が開いている。両腕を広げたほどの穴は暗く、底が見えない。誠也はゾッと背筋を凍らせるも、慌てたように立ち上がると、隣に倒れていた玲華の腕を掴んだ。

「玲華ちゃん! ほら、立って!」

「出てっ──」

 銃弾が千代子の頬を掠める。赤い血が彼女の煤けた肌を伝うと、跳ねるようにして起き上がった玲華は舞台の端に手を伸ばした。

「千代子ちゃん!」

「逃げてっ──」

 少女たちの視線が重なり合う。

 銃声は鳴り止まない。



 睦月花子は壁に手をつくと、深く息を吐いた。右足を流れ落ちる血が点々と三階の廊下に足跡をつけていく。

 太ももの傷はかなり深刻だった。44マグナム弾は花子の大腿動脈ごと鋼の筋肉を弾け飛ばしてしまい、もはや包帯程度では処置の施しようがない。血を止める術など思い付かず、とにかく早く外に出なければと、花子の肩を支えていた木崎隆明は腫れぼったい瞼を見開いていた。

「たく……」

 壁から手を離した花子はため息をつくと、目元を覆っていた包帯を撫でた。今や見えないばかりか一人で立つことすらもままならない。自身の死を想像すらしない花子だったが、それでも徐々に失われていく熱に、生命活動の限界を感じずにはいられなかった。よもや自分がこのような状態に陥るとは、亡霊と出会うよりも怪事であろう。そんな自嘲気味な笑みを浮かべた花子は、自分の肩を支える少年の吐息に耳を傾けると、ぐっと左足に力を込めた。

「だーから、アンタは介護士かっての……」

「え?」

「んなトロトロ歩かなくたって、ちゃんと付いてってやるわよ……」

「い、いや」

「なによ……? まさか私が重いからとか言うんじゃないでしょーね……?」

「まぁ、ちょっとだけ……」

 花子の左拳が少年の腹部を突く。木崎の体が軽く浮かび上がると、彼の足が廊下に届くよりも先に、銃声が三階の校舎を震わせた。まるで山向こうの空を青白く光らせる雷のように、二発、三発と発砲音が遠鳴りに響いてくる。振動と重なる鼓動。花子の額に青黒い血管が浮かび上がる。

「アイツね」

 怒りが痛みを吹き飛ばす。怒りが肉体を活性化させる。もはや右足の傷など気にしてはいられない。一刻も早くあの男を止めなければならない。

 ゴキリと首の骨を鳴らした花子の右足が大きく一歩前に踏み出される。半分意識を失っていた木崎は視線を落としたまま、花子の腕力に引き摺られていった。



 それは影だった。舌足らずな少女の声と共に、人形たちの影が職員室の前を横切っていった。

 荻野新平は腰のホルスターに左手を伸ばした。黒色のリボルバーがカチリと微かな音を立てる。新平の脇腹を縫っていた中間ツグミは息を止め、高野真由美の肩に寄り添っていた八田英一は、もはや力なく血の海に腰を落とすばかりの彼女を守るように、その体をギュッと抱き締めた。


 あそぼ──。


 少女の影が旧校舎に向かって遠ざかっていく。ふと鼻を掠めたコーヒーの薫りに新平は眉を顰めるも、黒色のリボルバーは左手に構えたまま、中間ツグミの黒い髪を睨み下ろした。

「早くしろ」

「はい」

 やっと止めていた息を吐き出したツグミは特に慌てることなく、新平の脇腹の刺し傷にうっとりとした視線を送った。高野真由美は魂が抜けたように無表情で、ただ、時折ふっと優しげに微笑む。そんな真由美の背中を撫でた英一は、一向に止まらない嗚咽に喉を震わせると、涙を噛み締めるように頬を引き締めた。

「行くぞ」

 スミス&ウェッソンM29の銃口が斜め下に向けられる。スッと足を動かした新平は傷の具合を確かめるように深く息を吐くと、影の消えていった校舎の奥に鋭い視線を送った。


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