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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
137/254


 戸田和夫は顎に手を当てた。パナマハットの薄い影が老人の顔を翳らせ、整えられた白い顎髭が苦悶に歪んでみえる。

「相当に厄介な問題じゃぞ……」

 暗い雲が夏空を覆い隠していた。部活中の生徒たちの声が校庭を賑わせている。ただ、昇降口前に集まった者たちの耳には届いていない。徳山吾郎と長谷部幸平は頬を青ざめさせ、大野蓮也は訳が分からないといった表情で腕を組み、一年生の小田信長はオロオロと首を振るばかりである。

 白髪の老女。姫宮詩乃はジッと富士峰高校の校舎を見上げていた。やはりここは何かがおかしいと、巫女の瞳の色が薄くなっていく。

「け、警察だよ。警察に通報しないと」

 そう言うが否や、長谷部幸平は慌てた様子で患者衣のポケットからスマホを取り出した。それを戸田和夫が制止する。

「待て坊主。警察はいかん」

「どうしてですか!」

「このままで一人の少年の人生が終わる。吉田という少年が全ての罪を背負う事となる。三原麗奈はそれを分かった上で、吉田という少年と入れ替わっておるんじゃ」

 その言葉に徳山吾郎は奥歯を噛み締めた。感情の乱れに鼓動が速まったのだ。それは彼女に対する怒りだった。だが、長谷部幸平はといえば、老人の言葉の意味が分からないといった表情で、スマホを下ろそうとしない。

「ええっと、それって彼の自業自得なんじゃ……?」

「おい坊主、お主とて他人事ではないぞ。お主らは暴走族じゃろ」

「はい……?」

「暴走族は吉田とやらに操られておるんじゃろ。警察を呼べばただでは済まんぞ」

「いや、操られているのは“苦獰天”というチームで、僕たちとは何の関係もないんです。だから彼らには申し訳ないけど、今すぐ警察に……」

「本当か。ここまで周到に策を弄する奴がお主らをただで見逃すと、本当にそう思うか」

「でも本当に何の関係も……」

「何か違和感があった筈じゃ。よく思い出せ。お主らとて三原麗奈という女の視線の内側におるんじゃ」

 老人の視線が険しい。長谷部幸平は唇を結んでしまった。

 違和感を問われれば答えに窮してしまう。それは違和感に覚えがなかったからというわけでなく、むしろ覚えがあり過ぎて絞るのが難しかったからだ。足並みの揃わない合同チーム。都市伝説の男。毛色の違う少年。彼らが逃げ回っていた理由は。警察は。どうしてあんなにも困惑した表情で──。

「“鬼麟”……?」

 幸平はスマホを下ろした。

「“鬼龍炎”ってなんだ……?」

 口に手を当てた幸平の視線が泳ぎ始める。ドッと鼓動が胸の内を叩いた。

 それは言うまでもなく“火龍炎”を意識した名前だった。

「どうしたよ?」

 大野蓮也が首を傾げる。そのパープルピンクの髪を見上げた幸平は微かに唇を震わせた。

「ね、ねぇ蓮也、まさかなんだけど、“苦獰天”の中に俺たちのメンバーがいたなんてことはあり得ないよね……?」

「はあ? 仲間の話か?」

「うん」

「いるわけねーべ! 俺たちの中に裏切り者なんてよ!」

 蓮也はそう断言した。幸平は微笑むも、やはり心臓の鼓動は静まってくれない。

「“鬼龍炎”……。“鬼麟”と“火龍炎”が同盟を結んだって……。あ、あの噂、あまりにも広がり過ぎてた……。あれは誰かが意図して流した噂だったんだ……」

「おーい、何をブツブツ言ってんだ? あ、そういえば、変だなって思ったことなら確かにあったべ」

「な、何が?」

「“苦獰天”との抗争の前によ、ほら、久しぶりに地下のバーに集まったべさ? あんとき十五人くらいしか集まらなくって、なんか少ねーなって言ってたじゃねーか。まぁすぐに狂介たちが駆け付けてくれたから、無敵の“火龍炎”は完全復活したがよ」

 蓮也はニッと親指を立てた。眩しい笑顔だ。だが、幸平は笑顔を返しやる事が出来ず、ただ呆然と肩を落としてしまった。

「たくよぉ、いったいなんだっつーんだ」

「“火龍炎”は元々五十人以上居たんだ……。でも今は三十人ほどで、後の二十人とは連絡が付かない……」

「それがどうかしたか?」

「もしも、もしもだよ……。かつてのメンバーの内の一人でも、“苦獰天”の計略に加わっていたとしたら……」

「はあ?」

「き、“鬼龍炎”って……、同盟を結んだって……、そ、そんな噂程度でまさか僕たちまで……」

 幸平は慌ててスマホを掲げた。戸田和夫が止める間もない。「警察じゃない、仲間です!」と老人を腕で制止しながら、幸平は最も頼りになるであろう“インフェルノ”の清水狂介に通話を繋げた。

「おい、ワシらはどうする」

 姫宮詩乃の鷹のような視線が動く。幸平のスマホに耳を傾けていた戸田和夫は眉を顰めながら、パナマハットのトップに手を置いた。

「どうするもこうするも、ワシは学会の敷地内に入れんし……。おい待て坊主、Y町じゃ! 海沿いの国道を走れと伝えろ! Y町の外れの小さな漁村に学会へと繋がる山道がある!」

 戸田和夫は声を荒げた。幸平のスマホを奪い取らんばかりの勢いで。そんな老人の肩に手を伸ばした姫宮詩乃は、その鷹のような目に力を込めた。

「ワシらも行くぞ」

「なんじゃて……?」

「三原麗奈という巫女に会うてみたい」

「まだ巫女と決まったわけではないて」

「巫女じゃよ。でなければ娘っ子風情にここまで大それた行動は起こせん」

「大それた行動と巫女の力に何の関係がある?」

「巫女はその身に降ろした魂の記憶を経験できるんじゃ。むろん大抵は欠片程度の記憶しか残っておらんが、それでも降ろせば降ろすほどに、人としての時間を越えて成長する事ができる。否、それが成長と呼べるかどうかワシには分からぬが」

 戸田和夫は目を見開いた。愕然としたのだ。

 彼が唯一その存在を知る巫女は、目付きが異様に悪く、大変に口やかましく、それでもおよそ邪心とは無縁の存在で、なんとも清々しい女であった。巫女への警戒心が欠けてしまっていたのだ。不覚だったと和夫は奥歯を噛み締めた。

「くっ、まさか巫女がそれほど厄介な存在じゃったとは……! もうちっとよく調べておくべきじゃった……!」

「いいや、巫女の力など知れたもの。その三原麗奈という娘が特別なんじゃ」

「降ろした魂の記憶を経験できるんじゃろ? 体を入れ替えることが出来るし、人の意識を飛ばすことも出来る。ならば人の命を奪うことも可能なのではあるまいか……?」

「飛躍するな戯け! 魂を入れ替えられるのは歳の近い同性の者だけで、それも肉体の環境が違うゆえ長くは持たん! 意識を飛ばすアレはただ魂を肉体の中で迷わせておるだけじゃ! 人の命を奪うことなど決してできん!」

「じゃが、その三原麗奈という娘はもう長いこと異性の少年と入れ替わっておるらしいではないか。それに魂を動かして迷わせられるというのであれば、人の体から離れさせることも可能じゃろう。お主の孫娘は肉体を島と例えておったが、島から海へと魂を落としてしまえばよいではないか」

 戸田和夫はそう言って、パナマハットの下で目を細めた。言えば言うほどに巫女という存在が危険に思えたのだ。

「娘っ子が少年と入れ替われた理由はわからんが、おそらくは少年の方に何かあったんじゃろう。長い時間入れ替わっておられるのは三原麗奈という娘っ子の類まれなる才能のおかげか。それでも他人の肉体であるが故に必ず限界がある。娘っ子ではなく、少年の限界がの。先ほどワシは魂の記憶を経験できると言うたが、それは口で言うほど生易しいものではない。精神は記憶により形成される。記憶を経験するというのは単に記憶を見るといった話でなく、精神を捩じ込まれるといった表現が正しい。大抵は一人二人で頭がおかしくなってしまう。じゃからワシは魂を降ろす術を控えておったんじゃ」

 姫宮詩乃は曇り空に視線を送った。そうしてゆっくりと校舎に視線を下ろしていく。やはり普通の光景ではないと。言うならば他人の瞳の奥を覗き込んだような感覚であろうか。ただ、そんな表現では収まらない、この世のものとは思えない光景が巫女の瞳を濁らせていた。白髪の巫女は会話を続けつつ、違和感の正体を探ろうと必死になった。

「玲華が肉体を島に例えておったと、お主は言うておうたな」

「ああ、大変に面白い話じゃった」

「ワシはその表現を好かん。確かに玲華は魔女であるからして、泳いだ先に現れる肉体を島と呼びたくなるのやもしれん。じゃがの、人の肉体は島と呼ぶにはあまりにも広大過ぎる」

「肉体が広大じゃて?」

「そうじゃ。肉体の中に形成されていく精神の大きさをお主は知らん。人の持つ精神の巨大さは島という表現には収まらん」

「では大陸か」

「星じゃ」

 姫宮詩乃の鋭い視線がまた空に向けられる。広大な宇宙に浮かんだ星の一つ一つに人の姿を思い描きながら。

「ほぉ、星か」

「お主はこの星から落ちることが出来るか?」

 そう言った姫宮詩乃は人差し指の先を宇宙に向けた。戸田和夫は何やら嬉しそうに首を横に振ってみせた。

「いいや。なるほどの、巫女の力で人を殺せんというわけか」

「そうじゃ。迷わすことは出来るが、落とすことは不可能じゃ」

「お主の言い分はよく分かった。じゃが、それでも巫女という存在が危険であることに変わりはない」

「巫女巫女巫女と、お主の言葉には偏見が溢れておる。ならば女より力の強い男はどうなる。か弱き女にとってどれほど危険な存在であるか。頭の悪い者にとって頭の良い者は危険な存在じゃろ。資産のある者、知識を持つ者、守る物を持たぬ者、全てが危険な存在たり得るではないか。確かに巫女の力を悪用すれば危険じゃろうて。それでも巫女そのものが危険だという話にはならん」

 姫宮詩乃は憤っていた。瞳は色を失い、白い毛は逆立って見える。

 戸田和夫は深く息を吐いた。彼女の怒りに同意してあげたかったのだ。確かに彼女の言い分は間違っていなかった。が、このまま話を終えるわけにもいかない。和夫はあえて、巫女の琴線に触れるような発言を続けた。

「大き過ぎる力というのは得てして危険を招く。意図せずともじゃよ。お主の孫娘への想いがこの学校に大き過ぎる災いを呼んでしまったように、三原麗奈という巫女もまた誰かへの想いから、意図せぬ破滅を呼び寄せておるのやもしれん」

「戯け! 確かにワシの行いが正しかったとは言わん! じゃが間違っておうたとも思わん!」

 姫宮詩乃の鷹のような目が大きく見開かれる。

「かつてのアレは死を迎えようとしておる者たちじゃった。ヤナギの木にしがみ付いた二つの魂。肉体のみとなった孫娘。苦悩に咽ぶ娘とそのお腹に宿っておうた子。あの場にいた皆が死を迎えようとしておった──。じゃからこそ、ワシは巫女の力を使うのを躊躇わなんだ。確かにお腹の子には可哀想なことをした。じゃがまだ赤子とも呼べん、自我などは当然生まれておらん、いわゆる妊娠初期の胎児じゃった。孫娘の肉体を救うにはヤナギの木にしがみ付いた魔女の魂を動かす必要があり、魔女を動かすには魔女に支えられておった少女の魂を救う必要があった。じゃからワシは少女の魂を胎児の肉体に移し、そうして魔女の魂を我が孫娘の肉体に移したんじゃ。お腹に子を宿しておることを知ったあの娘は本当に嬉しそうな涙を流して──ああそうじゃよ、あれだけは決して許されぬワシの大罪じゃよ。本当に酷なことをしたと後悔せぬ日はない。あの娘が幸せな家庭を築いておることを願わんばかりじゃ」

 姫宮詩乃はそう声を落とすと、また校舎に目を細めた。それは遠い過去の失敗を憂うような瞳で、また何かを疑うような瞳に見えなくもない。戸田和夫は表情を険しくすると、白髪の巫女の横顔をギロリと睨み下ろした。

「全てお主の罪じゃよ。人を救うなとは言わん。じゃが、その為に何も知らぬ誰かを犠牲にするな。死んだ者を救うために生きておる者を犠牲にするなど本末転倒も甚だしいわ! ……自殺しようとしておったというその娘には、腹に宿った子のことだけを伝えてやればよかった。それでその子たちは救われておった」

「言われんでも分かっておるわ! ただ、よいか? ワシら巫女にとって、まだ自我の生まれておらん胎児は人ではない。必死に生きようともがいておる魂こそが人なんじゃ。お主らの価値観と一緒くたにされては堪らんわ!」

「じゃからこそ巫女は危険な存在なんじゃ! そもそも我は、お腹の胎児を犠牲にしたことを責めておるわけではない。その事に誘因されたであろう異常事態の話をしておるんじゃ。魔女の魂などという人の域を外れた存在に手を掛けおって、降り掛かる災いは計り知れんぞ!」

「あの子は災いなどではないわ! 確かに頭はちと弱いが……、心は月のように明るく綺麗じゃて!」

「魔女自身、巫女自身の意図は関係せずと、先ほどからそういう話をしておるじゃろ! この学校の状況をよく見よ! 生まれ変わり続けるヤナギの霊などという異常事態は世界の何処を探しても見つからなんだわ!」

「それこそワシには関係のない話じゃろう! ワシが巫女の力を使うたのはほんの十数年前じゃぞ。戦前から続いておるらしい異常事態とワシの力にいったい何の関係が──」

 怒りの形相をそのままに、はたと姫宮詩乃は言葉を止めた。自分の言葉が耳に跳ね返ってきたのだ。感情のままに放った言葉が頭の中を木霊し始めると、巫女は、事態の歪さを再確認してしまった。

 巫女の瞳が校舎に向けられる。やはり尋常な光景ではない。つまりは普通ではない事態が、普通ではない光景を創造してしまったという話だったのだ。その事実にやっと気が付いた巫女の頬が青ざめていく。もしそれが想像通りの事態であるならば、それはまさにこの世の異常であると、姫宮詩乃は息を呑んでしまった。

「なんじゃ急に黙り込んで?」

 戸田和夫は声を抑えると帽子のフロントに手を置いた。姫宮詩乃の表情から不穏な事態を感じ取ったのだ。

「お主……。お主、ワシの孫娘から聞いたという話は覚えておるか……?」

「しっかりと覚えておるぞ。確かにちっとばかし頭の弱い魔女じゃったがの」

 戸田和夫は努めて明るい声を出した。姫宮詩乃のその声色には覚えがあったのだ。彼の経験上、声を低くした巫女の口から漏れ出してくる話は、いつも尋常なものではなかった。

「では聞かせてもらうが、魂とはなんじゃ?」

「魂は人だと、お主の孫娘が言っておったぞ。お主自身も先ほど同じようなことを言っておったではないか」

「肉体は?」

「星じゃろ」

「それは比喩じゃ。肉体は魂の器じゃて」

「ふむ。肉体はあくまでも人の器に過ぎんと」

「そうじゃ。では精神とはいったいなんじゃ……?」

「環境らしいの。肉体という陸地に魂が住み着くことで、精神という環境が出来上がっていくと。いやはや面白い話じゃわい」

「その通りじゃよ。魂が肉体に、いいや、人が器に住み着くことで、精神という環境が徐々に出来上がっていくんじゃ……」

 そう言った姫宮詩乃はまた校舎を見上げた。曇り空と校舎の間を巫女の視線が彷徨い続ける。

 異常事態だった。およそ半世紀もの時間を二つの魂が彷徨い続けてきた。戦中に死んだ二人の女が五十余年の長きに渡ってシダレヤナギの木に寄り添ってきた。互いに互いを支え合いながら魔女と少女の魂がヤナギの木の中で生き続けてきた。否、ヤナギの木という名の器の中で──。

「どうした、お主らしくもない。はっきりと申してみよ」

 戸田和夫はイライラと腕を組んだ。ただでさえ時間がなかったのだ。ヤナギの霊の問題よりも先に、三原麗奈という巫女をなんとかしなければならなかった。

「待て……。まだ確信が持てておらん……」

 巫女の瞳の色が薄くなっていく。み空色に向かって。

 校庭で汗を流す生徒たち。曇り空の下に佇む校舎。昇降口前のレンガ畳。花壇で揺れる花々。シダレヤナギの長い枝──。

 尋常ではない光景だった。それはやはり瞳の奥を覗き込んだ時と同じような感覚だった。だだ、そのあまりの巨大さに、全容を窺い知れていなかっただけなのだ。

「これは……。あ、あり得ん……」

 姫宮詩乃の声が生暖かい風に飛ばされていく。パナマハットを押さえた戸田和夫は、呆然と唇を震わせる白髪の巫女と同じように、富士峰高校の校舎を見上げた。

「いったいどうしたというんじゃ」

「精神がある……」

「なんじゃて?」

「こ、この学校は人じゃ──」

 

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