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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
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かつての空


 唾液が込み上げてくる。三原麗奈はとにかく必死に口を押さえた。吐きたくないと思ったのだ。だって自分は男だから。ここで吐いてしまえば、自分が自分ではなくなってしまうような気がしたのだ。

 思考が追い付かなかった。自分は車の中に居て、車は走っていて、自分の姿をした誰かが隣にいて、その誰かはニタニタとイヤらしい笑みを浮かべている。

 状況が分からなかった。なぜ車に乗っているのか。車は何処に向かっているのか。隣の少年は誰なのか。どうして少年はそんなにも感情的な笑みを浮かべているのか。

 少年の表情には普段の冷たさがなかった。とても感情的で、人間らしさに溢れていて、麗奈はそんな彼のことが少しだけ可哀想になった。まるで鏡に映った自分を嘲笑うかのような。手首を流れる血に微笑むかのような。吉田障子が浮かべていた笑みは本当に嬉しそうで、本当に寂しそうだった。

「おーい麗奈ちゃーん、どうしちゃったのー? あ、もしかして喜んでる?」

 吉田障子はそう言って、くっく、と楽しげに喉を鳴らした。それはともすると哀しみの嗚咽を堪えているかのようで、口から手を離した麗奈は、彼の瞳をじっと見返してあげた。

「麗奈さんは君だよね……」

「はあ?」

「ねぇ、どうしてあんなことしたの……?」

 麗奈は問いかけた。プロキオンの白光を瞳に浮かべながら。

 どうしてそんなに悲しそうに笑うのか。どうしてそんなに自分を虐めたがるのか。

 麗奈には分からないことばかりで、だからこそ知ってあげたかった。冷え切った手を温かく包んであげたかった。熱くなった頬に濡れたタオルを当ててあげたかった。彼女はただ純心で、彼の心を理解してあげようとしていた。

「あんなことって何だよ。まだ何にもしてねぇっつの」

「してたじゃん……。なんか、その……。ほら、まだしちゃダメなことってゆうか……」

 麗奈は言いにくそうにモジモジとまた口を押さえてしまった。それはまさに汚れを知らない乙女の表情で、王子様を前にしたお姫様の仕草で、吉田障子は胸の内を埋め尽くしていくドス黒い感情に口を歪めてしまった。

「お前の基準なんか知らないって」

「え……?」

「ダメなことって、そもそもダメなことっていったい何だよ」

「ええっと、ダメなことっていうのは、つまり……」

「人を傷つけちゃいけませんとか、ルールは守りましょうとか、そういう話? じゃあその人を傷つけるなってのは、体の話? 心の話? ルールを守れって、法律を守れって言ってんの? それとも道徳を大切にしろって言っての?」

「ぼ、僕は別にそんな……」

「たかがキスじゃん。キスされたら誰だって嬉しいに決まってんじゃん。純白の仮面なんてうわべだけだって、どうせ皆んな中身は真っ黒に汚れてるよ。そうさ、誰だって心の奥底ではそういう行為を望んでるんだ──。つまり本能ってわけ。本能に悪意なんてないし、したいって思うのは悪いことじゃない。だから俺は良いことしたんだ。麗奈ちゃんだって嬉しかったろ? 相手を待つばっかの陰気で卑怯なお姫様が、やっとキスの味を経験出来たんだ」

「もしかして、誰かとキスがしたかったの……?」

 衝撃が走る。殴られたのだ。

 麗奈は呻き声を漏らした。痛みがゆっくりと鼻の周りに広がっていくと、麗奈は怖くなって、ガタガタと肩を震わせながら腕で顔を覆い隠してしまった。

「誰が何をしたかったって?」

「ひっ……ひっ……」

「なんなら今からもっと良いことしてやろうか?」

 麗奈は必死に首を横に振った。そんな彼女の髪を掴み上げた吉田障子は、呼吸を乱しつつも、ぎこちない笑みを浮かべてみせた。運転席の小森仁と、背後のシートのキザキには、感情を乱した自分の姿を見せたくなかったのだ。

 単純に惨めだったからだ。舞台には何ら影響のない話だった。キザキの隣では新聞部の倉山仁が丸い拳をプルプルと震わせており、彼の目の前で三原麗奈を傷付ける行為はあくまでもストーリーの延長上にあった。当然の如くキザキはその事に気が付いており、先ほどから倉山仁への工作に余念がない。また小森仁はその性格で、背後の様子には関心がないようだった。

 髪を掴み上げられた麗奈は悲鳴に近い声をあげた。その頬をまた殴ってやろうと、拳を振り上げた吉田障子ははっと動きを止めてしまう。彼女の鼻から血が溢れ出していたのだ。赤い血に顔の半分が醜く汚されていた。 

 吉田障子は激しく動揺した。こんな姿は誰にも見せたくないと、彼女の顔を何かで覆い隠したくなった。

 果てない想像が吉田障子の恐怖心を駆り立てる。この醜い姿を目撃した彼がいったい何を言うか。この哀れな姿を目撃した彼女がいったい何を思うか。醜いと蔑むだろうか。可哀想だと哀れむだろうか。幼馴染の足田太志の声を想像し、妹の三原千夏の心を想像し、そして怖くなった吉田障子は振り上げた拳の行き場を探し始めた。それ以上醜くなるのを恐れて、ポケットからハンカチを取り出した吉田障子は焦ったように麗奈の口元を拭った。

「あっ……」

 そっと目を開けた麗奈は驚いてしまった。ルームミラーに映った自分の顔が血塗れだったのだ。一瞬の内に恐怖の感情を忘れ去った麗奈は、隣に置いてあった学生鞄のチャックに慌てて手を伸ばした。とにかく血を拭かなければと焦ったのだ。それは申し訳ないという気持ちからだった。ただ入れ替わっているだけの女の子の顔を傷つけてしまったというショックから、麗奈は狼狽していた。

「ご、ごめんなさい……。本当にごめんなさい……」

 桃色のタオルに赤い模様がついていく。麗奈がペコペコと頭を下げ始めると、吉田障子は困惑の面持ちで首を傾げてしまった。彼女の態度が恐怖によるものだとは思えなかったからだ。

「なんだよ。なんでお前が謝ってんの?」

「ち、血が……。顔、怪我しちゃって……。あの、本当にごめんなさい……」

 またドス黒い感情が胸の内に湧き上がる。その純粋無垢な心をめちゃくちゃに汚してやりたいと。どうせ叶わぬ夢ならばいっそ全部壊してしまいたいと。

「あのさぁ、なんなのお前? まさか俺のこと馬鹿にしてんの?」

「し、してないです……。ただ、この顔は女の子の、その、麗奈さんの顔だから……」

「俺が殴ったんだよ。俺が俺を殴ったんだよ。ああそうさ、俺が三原麗奈だよ。自分で自分の顔を殴って何が悪い」

 感情の暴走が止まらない。ただそれは男性的なものというよりむしろ女性的なもので、吉田障子はその感情であれば抑えられる自信があった。

「そうさ、お前の言う通り俺たちは入れ替わってるよ。俺が三原麗奈で、お前が吉田障子だ。謎が解けて良かったな」

「ど、どうして……?」

「知るかよ。俺は学者じゃない」

「あ、えっと、そうじゃなくって……。どうして、その、麗奈さんは自分の顔を殴ったんですか……?」

「ムカついたからに決まってんだろ。俺は俺の顔が大っ嫌いなんだよ」

「そ、そんなのって……。麗奈さんは別に嫌われるような顔してないのに……。僕なんかと違って……」

「嫌われるような顔ってなんだよ。テメェは顔の良し悪しで人を判断するのか」

「ち、違います……! ただ、ただ、どうしてかなって……」

「ああそっか、ふーん、俺がいっつも麗奈ちゃん麗奈ちゃん騒ぎまくってたから、俺のことを自分大好きナルシスト女だって勘違いしちゃったってわけか。はは、あんな気持ち悪ぃ演技をよくもまぁ……。つーか、それは大場亜香里を釣るための演技だったって前に話しただろうが」

 吉田障子の口調に余裕が戻ってくる。相変わらず感情的ではあったが、それでも彼は呼吸を落ち着かせながら、自分の顔をした女を冷たく見下ろした。

「お前さ、本当は嬉しかったんだろ。顔の良い女の身体を好き放題出来たんだからよ」

「そ、そんな事してません……!」

「俺も男の身体に入ってよく分かったよ、女の身体が最高だってことがよ。……あー、お前ってもしかしてもう処女じゃねーんじゃね? こっそり男と遊んでたろ、お前」

 吉田障子の視線が麗奈の太ももを舐める。麗奈はゾッと背筋を凍り付かせるも、怒ったように首を大きく振ってみせた。

「遊んでなんかいません! 遊んでなんか……! だって、僕ずっと一人ぼっちだったし……」

「ふーん、まぁ俺はたっぷりと遊ばせてもらったけどよ」

「へ……?」

「てか、遊ぶ金なんてなかったか。なんたってお前のお金は俺の手元にあるんだから」

 そう言った吉田障子は自身の鞄から青い通帳を取り出すと、ひらひらと掲げてみせた。いったい何の話か分からなかった麗奈は、ただ恐々と首をすくめてしまった。

「ほら前に、俺と紗夜がキチガイ野郎にボコられた放課後に、テメェん家を訪ねただろ。紗夜と千夏と四人で俺ん家寄った後の話だよ。アレはこの通帳と財布をくすねる為だったのさ。はは、まぁ俺の金を俺がくすねるってのも変な話だが、なんにせよ金が入り用だったからよ」

「そうだったんですか……」

「なんだよ。まさか金すらも漁ってなかったって?」

「は、はい……」

「嘘だろ。金無しでどうやって生活してたってんだ。遊べないどころか飲み物すら買えないって……。あー、おいおいまさかお前さ、水道水すすって生きてきましたとか言うんじゃ──」

 吉田障子は言葉を止めた。目の前の光景に呼吸を忘れてしまうほどの凄まじいショックを受けたのだ。

「あ、あの、すいません……! 麗奈さんの水筒、勝手に使っちゃってて……」

 そう言って、彼女がいそいそと鞄から取り出したのは子供用の青い水筒だった。ディズニーの絵柄が入ったそれは三原麗奈が小学生の頃に愛用していたもので、どうしても捨てることが出来ず、戸棚の奥底に隠していたのだった。

「そ、その……、麗奈さんのお母さんが使っていいよって……。だからあの、その、勝手に使っちゃってて……。なんかとっても可愛かったから……」

 麗奈は何だか恥ずかしそうに、愛おしそうに、モジモジと青い水筒を撫で始めた。本当に可愛らしい水筒だと褒めてあげたくて。

 吉田障子は何も言わなかった。ただ彼は呆然とした表情で、青い水筒を掲げた彼女の姿に、瞳を濁し続けた。

 まるで空のようだった。ふと見上げた空の色がとてもとても美しかったのだ。地の底で泥を啜っていた彼は、その青々と美しい空色に、昔のことを思い出してしまった。泥にまみれる前の、確かに美しかった筈の、かつての自分を。

 拳が振り下ろした。怒りに任せて。

 麗奈の表情が歪んだ。恐怖と哀しみに。

 水筒を落とした麗奈は体を丸めると必死になって謝った。ごめんなさい。ごめんなさい。

 そんな彼女の態度が許せなかった。彼女の善意が許せなかった。彼女の純心が許せなかった。自分の存在を否定する彼女の存在が許せなかった。お姫様のままでいられる彼女の姿がどうしても許せなかった。

 恥辱を受けた。馬鹿にされた。否定された。

 吉田障子は目に涙を溜めながら、何度も何度も、彼女の顔に拳を振り下ろした。

「おい」

 低い声と共に拳が止められる。凄まじい力だった。はっと顔を上げた吉田障子は慌てて涙を拭うと、怒りに歪んだ唇を無理やり広げてみせた。

「あ……。わ、悪りぃ……。あ、いやほら……、これも必要なことだからよ……」

 キザキは無言だった。腫れぼったい目はいつも通りのようで、ただ、その表情には普段のような気怠さが見えない。

 そんな彼の手を振り払った吉田障子は左の頬に爪を食い込ませると、髪を乱して涙を流す三原麗奈の姿を冷たく見下ろした。


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