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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第四章
135/254

日暮れの王


 発砲音はそれ以上響いてこなかった。だが、たった一発の銃弾の残響が耳の奥で鳴り止まない。

 睦月花子は夕陽に赤く染まった校舎を早足で進んでいた。1979年の生徒である木崎隆明に手を引かれながら、盲目の彼女はただひたすらに暗闇の奥底に耳を澄まし続けている。

 時間が動いた為に発砲音が消えてしまったのか。それともたった一発の銃弾で獲物を仕留めてしまったのか。何にせよ先ほどの銃撃は荻野新平によるものとしか考えられない。花子は強い警戒心を抱きながらも足を急がせた。

 西側からの音だった。それもおそらくは三階の端。家庭科室の辺りで何かあったのかもしれない。花子たちが立ち寄っていた放送室も同じく三階にあった。だが、つい先ほど西側の階段を上がってきた際には家庭科室の様子など気にも留めなかった。人の気配を感じなかったからだ。その時の校舎は夜闇の中で、まだ家庭科室には誰もいなかったのだろう。

「下か?」

 階段前に差し掛かると、木崎隆明は立ち止まった。花子は首を横に振ると「家庭科室よ」と声を上げる。もしそこに荻野新平がいるというのであれば、どうにも彼を狂愛しているらしい中間ツグミもその場にいるはずで、二人のことは見つけ出しておく必要があったのだ。

 ふと、香ばしい匂いが花子の頬を撫でた。それは正面から漂ってくるもののようで、目の見えない花子は大きく息を吸い込むと、陰気な少年に手を引かれながら西側の奥へと歩みを進めていった。

「これってコーヒーよね」

「ああ」

 木崎は頷いた。家庭科室の扉は僅かに開いており、そこから香ばしい湯気に溢れかえった空間が安易に想像できる。

 そっと扉を開けた木崎は家庭科室の中を見渡した。横並びの白い机。黒板が夕陽に赤く染まっている。窓辺の机にはガラス製の器具が。サイフォンの中で浮かんでは消える泡が床に薄い影を伸ばしている。コーヒーの薫りは思ったほどでもなく、どうにも廊下を漂っていた匂いと差異がないように思えた。

「よぉ」

 青い火の潰れたサイフォンの横で、赤い夕陽を背景に、一人の男が足を組んでいた。左手には白いマグカップが、肩幅の広い彼はまるで泡の弾ける音を楽しむかのように、サイフォンの滑らかな表面に顔を近づけている。

「根暗野郎が女連れかよ」

 小野寺文久の唇が横に広がる。失くした右腕を青い火に翳しながら。



 旧校舎の中庭ではシダレヤナギが窮屈そうに長い枝を垂らしていた。姫宮玲華はキョトンとした表情で木枠に囲まれた窓の外を眺めている。右手には山本千代子の煤けた手が、視界の端にはふよふよと白い布に運ばれる六人の男女が、玲華は鼻歌まじりに旧校舎の長い廊下を歩いていた。

「ねぇねぇ千代子ちゃん千代子ちゃん、いったい何処に向かってるの?」

 玲華は細い首を傾げた。白いうなじが日差しに透ける。

 千代子はずっと無言だった。いや、果たして彼女が喋れるかどうかは玲華には分からない。ただ、黒く煤けた肌と奇妙な力以外は自分とさほど変わらぬ普通の少女のように思え、玲華は遥か昔の、戦前の高峰茉莉だった頃の思い出に浸りながら千代子の頬をツンツン、ツンツンと愛おしげに突いていた。

「千代子ちゃん千代子ちゃん、うふふ」

 旧校舎の長い廊下を抜けると大広間に辿り着いた。そこは演劇部の部室であり、低いステージが陽の光を浴びている。玲華は初めて訪れる広間を興味深げに見渡すとまた千代子の頬を突いた。だが、いつまで立っても千代子は反応を示してくれない。むぅっと頬を含まらせた玲華は腰に手を当てると──姉に無視された幼い妹のように──ふよふよと宙に浮かんでいた白い布を振り返った。赤い結び目が気になったのだ。まるで水玉模様のように幾千もの赤い糸が布に散りばめられている。玲華は何となしに白い布に手を伸ばしてみた。赤い糸を手繰ってみようと──。

「きゃあっ!」

 玲華は慌てて手を引いた。ピシャリと手の甲を叩かれたのだ。まるで夕飯に手を出そうとした猫を叱るかのような仕草で、煤けた手のひらを前に向けた千代子の表情は怒っているようにも見える。驚いて目を丸めた玲華は次第にムッと頬を膨らませていくと、やがて唇を大きく歪め、またわんわんと泣き始めてしまった。

「ううううっ……! ど、どうじ、でっ……ひっぐ……どうじで叩ぐのっ……!」

「千人針だよ。赤い糸にはとても大切な想いが込められてるんだ」

「へ……?」

 涙がピタリと止まる。玲華は唖然として表情を変えると、いつの間にやら真横に立っていた水口誠也の顔をまじまじと覗き込んだ。

「戦時下では日本を象徴する風俗だったらしい。街中で縫い取りの協力を求める光景もよく見られたんだってさ」

「……あー、ええっと、うん。……うほんうほんっ! あー、気をつけ!」

 水口誠也は動かない。ただ彼は興味深そうに宙に浮かんだ白い布を眺めるばかりで、おもむろにデジタルカメラを──女生徒の名前が入った鞄から──取り出すとパシャパシャと写真を撮り始めた。

「気をつけ! 敬礼! Salut! Penche-toi,un cochon!!!」

「ねぇ玲華ちゃん、女の子がそんな汚い言葉を使っちゃダメだよ」

 水口誠也は首を横に振った。呆れ返ったような表情だ。いったいどういうわけか、彼には魔法に対する耐性が備わってしまっているようだった。

 もはや変態を止める術はないのか。

 そんな絶望感から玲華の頬が青ざめていく。ヤナギの霊よりも恐ろしいモンスターを誕生させてしまったかもしれないと。

 それでも玲華は諦めなかった。千代子の身を守らなければならないと思ったのだ。彼のカメラが千代子の煤けた首筋に向けられると、キッと肩を怒らせた玲華は手を振り上げた。魔法が効かぬならば、そう、物理攻撃である。

「この変態豚野郎!」

「ありがとうございますッ!」



 小野寺文久は胸の前にマグカップを翳した。昼下がりのコーヒーを準備しろと部下に命ずるかのように。

 斜陽に照らされたマグカップは燃え盛っているかのようで、サイフォンに浮かんだ水の影が灯火の如く揺らめいている。

 木崎隆明は視線を落とした。まさかこんな場所で、こんな状況で、また彼と出会う羽目になるとは思ってもみなかったのだ。恐怖心から呼吸が浅くなっていく。そもそも右腕を落とされた彼が生きていること自体が信じられなかった。

「誰よ?」

 睦月花子が首を傾げる。やっと彼女の存在を思い出した木崎は激しく狼狽してしまった。それでもその退屈そうな表情は変えることなく、腫れぼったい目を上げた木崎は抑揚のない声を文久に向けた。

「出口が分かったんだ」

「あ?」

「だから案内するよ」

「……そうかそうか、はは、そりゃあ朗報だ。でもその前に、なぁ木崎、お前の横のその目隠し女と少し遊ばせてくれよ」

 小野寺文久の口元にイヤらしい笑みが浮かび上がる。だが、彼の視線は木崎の顔に向けられたままだった。

 木崎もまた彼から視線を外さなかった。試されているということを分かっていたからだ。小野寺文久は他人の感情をコントロールするのに長けていた。恐怖を与え、動揺を誘い、褒美を与え、油断を誘う。それを分かっていたからこそ木崎は感情を押し殺し、また木崎自身の天性の才から、感情が表に現れることはほとんどなかった。

「どうした。まさかオモチャを独り占めするつもりか?」

「あのさ小野寺くん」

「なんだよ」

「時間があんまり残されてないんだ。すぐにここを出ないと不味いことに……」

「あーウゼェウゼェ。いちいち面倒臭ぇんだよテメェは。おいそこの目隠し女、今すぐその場で裸になれ」

 小野寺文久の影が赤い壁を覆い尽くしていく。広い肩をそびやかすようにして立ち上がった彼は、視界の端に木崎の姿を捉えながら、小柄な花子のうなじに左手を伸ばした。

「なんなら俺が脱がしてやろう……」

 だが、すぐに声が止まる。突然体が動かせなくなったのだ。巨大な岩に呑み込まれてしまったかのように。それは花子が文久の体に向かって腕を伸ばした直後の話で、その細い腕に視線を落とした文久はギョッと目を見開いた。浅黒い肌の上を青黒い血管が龍の如く走っていた。

「あらぁ。なーによアンタ、随分と良い身体してんじゃない」

「はぁ……?」

「フフッ、どうしても私とヤリたいってんなら、ヤラせてあげなくもないわよ」

 文久の足が床から離れていく。小柄な少女の腕から逃れられない。

 それはもはや人の力ではなかった。目元の包帯を除けば、花子の姿は何処にでもいる普通の少女のようで、一般的な人の特徴からはかけ離れていない。だが、その肉体と精神は人の領域にあらず、超人である彼女の魂は白銀の光沢に眩しかった。睦月花子はまさに鬼と呼ばれるような存在だった。

 文久は深く息を吐いた。肩の力を抜くと、だらりと左手を下ろす。彼もまた普通の存在ではないのだ。生命の危機に瀕した文久はその本能で冷静となった。

「この私に裸になれですって? フフフッ、なら先ずはアンタが裸に……」

 

 銃声──。

 

 残響はない。

 ただただ重い銃声。

 花子の声が銃声に叩き潰されてしまう。花子の鼓膜が銃声に弾かれてしまう。

 ほんの刹那の時間、ポカンと呆気に取られていた花子は、口を紡ぐと共に全身に意識を集中させた。撃たれたということに気が付いたからだ。だが、いったい何処を撃たれたのかがわからない。痛みはまだなく、熱もまだ感じられない。それでも撃たれたことは確かだった。胸か腹か腕か足か。油断したと後悔する暇もない。そうしてやっと太ももの辺りに焼け付くような熱を感じ始めた矢先、今度は拳大の鈍器のような物でこめかみの辺りを殴られた。脳が弾かれたような衝撃が花子の平衡感覚が狂わせる。小野寺文久の体を投げ捨てた花子は頭を押さえると、焼けた鉄の棒を両眼に捩じ込まれるような凄まじい激痛に呻き声を漏らした。

 ゆらりと小野寺文久の影が揺れる。黒色のリボルバーを左手に握り締めた彼の表情もまた思わしくない。こんな所で貴重な銃弾を無駄にするつもりはなかったのだ。さらに狙いまで外す始末。胸か腹部を狙った銃弾が貫いたのは花子の太ももだった。

 確かに銃の扱いは素人だった。胸ぐらを掴み上げられた状態で、さらには利き手ではない左手での銃撃である。だが、それでもそれは完全なる至近距離での銃撃だった。まさに目と鼻の先にあった狙いを外してしまったことが彼のプライドを大いに傷付けたのだ。本来の彼であれば重傷を負った女など構わずにさっさと家庭科室を後にしていただろう。だが、まだ年若い文久は自身の感情を上手く処理することが出来ず、花子の体を完全に壊してやろうと、リボルバーのグリップをまた彼女の後頭部目掛けて振り下ろした。

 油断とまでは言えない。慢心もしていない。むしろ太ももから血を流す盲目の少女に対しての過度で残忍で執拗な攻撃だったと言える。だが、見た目とは裏腹に、睦月花子は到底普通の少女などと呼べるような存在ではなかった。極限にまで研ぎ澄まされた感覚器が彼女の本能を刺激する。手負いの鬼は咆哮を上げると、その反響音から小野寺文久の位置を正確に把握した。

 黒色のリボルバーが花子の頬を掠めた。避けられたのだ。小野寺文久は驚愕した。目が見えぬ状態でいったいどう攻撃を避けられたというのか。だが、それでも彼は努めて冷静に息を吐き出した。左手を振り下ろした勢いのままに腰をひねる。彼女の側頭部に蹴りを入れてやろうと。

 目の見えない花子は反応に遅れた。反響音などもはや間に合わない。文久の強烈なハイキックを耳の下にもらった花子は眼球を貫かれるような衝撃に膝をつきそうになるも、それでも決して体制は崩さず、驚異的な反射速度で文久の足を捕らえると、まるで鞭でも振るうかのように彼の体を床に叩き付けてやった。

「やってくれたわね……」

 花子は浅い呼吸を繰り返した。太ももを撃たれた右足に上手く力が入らない。潰された眼球を抉り取られるような激痛が胃液を引っ張り上げる。それでも蹲るわけにはいかず、また咆哮を上げた彼女は、家庭科室の壁に腕を伸ばした。

「クソッ……クソッ……」

 小野寺文久もまた息を浅くしていた。後頭部は庇ったものの、背中を強く打ち付けられた衝撃で上手く呼吸が出来なかった。なんとか体を起こした彼はフラフラとリボルバーの銃口を前に構えると引き金に指を当てた。もはや弾数など気にはしない。至近距離から奴の頭を撃ち抜いてやろうと。

 だがすぐに文久は動きを止めた。目の前の光景に唖然として。凄まじい轟音が彼の耳の奥に雪崩れ込んでくる。

 家庭科室の壁が巨大な亀裂に分断されようとしていたのだ。無数にひび割れた白いコンクリートが夕陽に赤く燃やされている。崩れ落ちていく壁の破片はまるで雨粒のようで、花子の細い腕にコンクリートの壁が引き剥がされていく光景はもはやこの世のものとは思えなかった。

 いいや、これも恐らくはこの世の光景なのだろう。

 そんな自身の想像に思わず笑ってしまった文久はやっと生来の冷静さを取り戻すと、銃を下ろした。怪物の相手など全くもって時間の無駄だと馬鹿らしくなったのだ。

 文久の視線が家庭科室の扉の前に移る。木崎隆明の陰鬱な瞳を捉える為ではない。木崎は慌てて俯くも、そんな彼の強張った肩を叩いた文久は、おぼつかない足取りで家庭科室を飛び出していった。

「あ……あっ」

 陰気な少年の腫れぼったい瞼が見開かれる。

「お、おい花子さん!」

「ああん?」

「アイツはもう行ったから! だから早く、早く血を止めないと!」

 それは抑揚に溢れた声だった。花子は驚き、腕を下ろしてしまう。壁の破片が指の隙間からこぼれ落ちていくと、何やら強い悪寒を覚えた花子は膝から崩れようにして半壊した壁にもたれ掛かった。腰から下の力が抜けてしまったのだ。両手で右足の太ももを押さえた花子は軽い舌打ちをした。貫通はしていないようだったが、出血量が尋常ではなかった。急ぎ制服の裾を歯で千切った花子はそれを小さく丸めていく。とにかく血を止めなければ不味いと危機感を覚えたのだ。

「ぐっ……」

 凄まじい激痛に呼吸が止まる。それでも花子は額に血管を浮かばせながら制服の裾を傷口にねじ込んでいった。血を止めるだけならば縛るよりもこちらの方が確実だろうと。

「はぁ……。さーてと、じゃあ、そろそろ行こうかしら……」

 玉のような汗が目元の包帯を赤く染めていく。軽い口調とは裏腹に、一人で立ち上がることすらもままならない。それでも立ち上がろうと呻く花子の肩をそっと支えてあげた木崎は腫れぼったい目を閉じた。限界だと思ったのだ。無理矢理にでも彼女を外に連れ出さなければならない。そうしなければ彼女は本当に死んでしまうだろう。

 それは恐怖に似た感情だった。その感情に木崎は激しく動揺した。この退屈な世界において、生も死も、自然の理ではなかったのか。

 コーヒーの薫りが鼻先を掠める。コポコポと水の弾ける音が耳に届く。

 顔を上げた木崎はそっと家庭科室を振り返った。

 夕陽に照らされた机の上でサイフォンの薄い影が揺れ動いている──。


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