最悪の舞台
鬱蒼とした木々が道を囲んでいる。人が通ることなど滅多にないのか、電灯はなく、滑らかなアスファルトの上には枝や葉が散らばっている。警察と遭遇する可能性など考えられないだろう。八田弘が私有地だと言った山道はそれ程までに静かで、薄暗く、不気味だった。
大場亜香里は不安だった。
後部座席に座った彼女は左手に握り締めていたスマホを離そうとしない。ドアガラスから見える暗澹とした森を眺める気にはなれず、隣の老人と目を合わせるのも嫌で、運転席の橋田徹の撫で付けられた髪をただ見つめるばかりだった。時折、スマホに視線を落としては吉田障子とラインで連絡を取り合った。それのみが心休まる時間だったのだ。黒のセダンは高級車というわけでなく、山道のドライブなどさも当たり前のことのように、薄暗い影の中を走り抜けていった。
亜香里は己の浅はかさを呪っていた。学会をはめて大金を得ようなどと土台無理な話だったのだ。小野寺文久の強者の匂いが喉元に生々しく残っている。山道を進めば海に出られるという話だったが、どのみちこのまま人けのない場所に連れて行かれるというのであれば、もはや自分に出来ることなど何もない。それでも亜香里はこの話を持ち掛けてきた吉田障子を恨む気にはなれず、この暗い森の奥底から唯一外に繋がっているスマホを握り締めたまま、王子様の声が自分の元に届くことを願った。
吉田障子とのメッセージのやりとりは絶やさない。
何処に向かってる──。
海の方。
八田弘の他に誰がいる──。
幹部の人が運転してる。
車種は分かるか──。
黒のセダン、名前は分かんないけどなんか古臭いやつ。
今どの辺だ──。
分かんない。
怖いか──。
大丈夫。
すぐに迎えに行ってやるから安心しろ──。
うん。
後部座席のドアはしっかりと開けてあるか──。
うん。
よし。万が一の為に逃げる準備はしておけよ──。
飛び出たら、死んじゃうかも。
わら──。
笑。
「心霊学会を潰そうとしてるのは吉田くんの方なんです」
徳山吾郎は黒縁メガネを押し上げると校舎の時計を見上げた。灰色の空は時間を示してくれず、時計の針が天辺に近付きつつあったことに驚く。
いつの間にか学校は賑やかだった。グラウンドでは運動部員たちが汗を流し、校舎から吹奏楽部の楽器の音色が流れてくる。昇降口を早足で通り過ぎる生徒たちは一様に顔を伏せており、彼らに向けられる白髪の老女の視線は獲物を狙う鷹のようである。
「吉田くんを早く止めなければならない。でないと大変なことになってしまう」
徳山吾郎がそう声を震わせると、戸田和夫はひどく呆れたような顔付きで腕を組んだ。
「お主らは少し妄想が過ぎるようじゃの。まぁ我も若い頃は色々と妄想に励んでおったわけじゃが、それにしてもじゃよ。もうちょい楽しい妄想に浸ってみんか」
「本当の話なんです! 麗奈さん、いや吉田くんは心霊学会を潰そうとしている!」
「妄想じゃないですよ。それをやってるのが吉田くんだとは思わないけど、おそらくはキザキが僕たちのチームを使って何かしようとしています」
徳山吾郎と長谷部幸平の声が合わさる。両者ともに表情は硬い。戸田和夫は肩を落とすも、それでもその「吉田」という少年のことは気がかりで、負の妄想に蝕まれているかのような若人たちと会話を続けることにした。
「では聞くが、どうしてその吉田あるいはキザキとやらはそれほど学会潰しに熱心なんじゃ」
「それは……」
長谷部幸平は口を紡いでしまった。昨夜の病室で鴨川新九郎から伝えられた“苦獰天”の山田春雄の言葉を一晩考えあぐねたのみであり、その目的にまでは考えが及んでいなかったのだ。そんな彼に代わって徳山吾郎が口を開いた。
「臆病だからです」
「ふむ」
「強迫性障害の一種ではないかと疑っています。彼女、いえ彼は他人の一切が信用できず、自分に向けられているかもしれない悪意に怯え、それゆえに攻撃的になってしまっているのです」
「なるほどの」
「そして問題は、彼がその頭脳において、天賦の才を授かってしまっているというところにあるのです。冷徹で残忍、抜け目なく計算高い。彼が潰すと決めたものは全て潰れてしまう。そうしてやがては彼自身が彼の才能の前に潰れ去ってしまうでしょう。そうなる前に彼を止めなければならないのです!」
徳山吾郎は必死だった。
そんな若人に戸田和夫は頷いてみせる。別にその妄想に近い話を信じたわけではなかった。だが、面白いとは思った。その吉田という少年と入れ替わっているらしい三原麗奈という娘に、戸田和夫はある可能性を考えていたのだ。もしや巫女ではあるまいか、と。
その人生の大半を目つきの悪い巫女と連んできた戸田和夫とって、三原麗奈という存在が尋常のものでないだろうと、安易に予想がついていたのだ。
「お主が言っておるそれは三原麗奈のことであろう」
「ち、ちがっ……」
「いちいち否定せんでよいて。我は巫女の存在を知っておるでな」
「巫女……?」
「仮にじゃ、その吉田もとい三原麗奈が巫女で、さらには極悪非道な破壊者であったとして、それでも心霊学会が潰されるようなことはありえんよ。巫女の力も万能ではないという。生者には効かせづらく、それが異性や歳の離れた者ならばなおさらじゃと。そもそも入れ替わっておる状態で巫女の力などほとんど使えんじゃろうて。まぁそれでも巫女の力とは関係なく何らかの攻撃を加えようとしている可能性は大いに考えられるが、もしそうだとすれば、三原麗奈という巫女は愚か者というより他ない」
「僕はその巫女とやらを知りません。ただ貴方も彼女のことは何も知らないでしょう。彼女は一度やると決めたことをどんな手段を使ってでもやり遂げてしまう恐ろしい人なんです」
「ふん、個人に出来る事などしれとるわい」
「ええ、勿論そうでしょう。だからこそ彼女は裏で暴走族を操っていたのでは? おそらく今起こっている抗争も心霊学会を潰すための何らかの布石なんです」
「暴走族などいくら集まろうと無意味じゃて。もし本気で彼奴らを潰したいというのであれば……」
「あの、ちょっといいですか?」
長谷部幸平が口を挟む。戸田和夫は言葉を止めると、包帯だらけの彼を振り返った。
「さっきから会話の中で麗奈ちゃんと吉田くんがごっちゃになってる気がするんですけど、まさか麗奈ちゃんと吉田くんが裏で繋がっていた可能性があるんですか?」
幸平は体の内が圧迫されるような火照りに呼吸を浅くしていた。ゴミ捨て場でのリンチは記憶に新しく、あの場に自分を導いた三原麗奈はやはり“苦獰天”と繋がっていたのだろうかと悲しい気分になっていた。
「いいや、そういった繋がりの話ではない。説明は面倒臭いので省かせてもらうが、我は既に三原麗奈という娘をこの目で見ておる。もしその吉田とやらが本当に冷徹で残忍な人間であるならば、三原麗奈と吉田の間に裏の繋がりはないだろう。それ程までに三原麗奈という娘は純粋であった」
「そうですか、それなら良かったです」
「話を戻すが、学会を潰すには社会的ダメージを与える必要がある。であるからして、そもそも社会的イメージの悪い暴走族などは論外なんじゃよ。それでも個人的恨みで学会に一矢報いたいというのであれば、もはや頭を狙うより他ないだろうのぉ」
「頭を狙うとは、その、心霊学会のトップを狙うということでしょうか?」
「八田弘を殺す、これが個人で与えることの出来る最大のダメージじゃろうて。まぁその結果、いわゆる判官びいきで、学会がさらに巨大になってしまうことも考えられるわけじゃがの」
徳山吾郎は息を呑んだ。戸田和夫は平然とした顔で話を続ける。
「じゃがの、そもそもそれ自体が甚だ難しい話なんじゃ。倫理観や道徳観を完全に切り捨てられたとして、八田弘は極端に臆病で神経質な引き篭もりじゃて、常に学会の最上階におる彼奴には物理的に手が出せん。ごく稀に気まぐれで外に出るようなことはあれど、そのタイミングは誰にも分からぬ上に、裏から忍ぶようにして出ていく彼奴を捉えることは個人では不可能に近いじゃろう。偶然にも街に出ていた彼奴と出会えたとして、彼奴には常に複数のボディガードが付いておる。警察上がりや元軍人などといった護衛のプロフェッショナルがの。それら全てを神懸かり的な奇跡で突破し、彼奴を上手く殺れたとしよう。その後に待っておるのは己の破滅と、悲劇を越えてより強固となった学会の結束のみじゃ。まぁ八田先輩は嫌がるじゃろうがの、うはははっ」
「ず、随分とお詳しいですね……」
「八田弘は我の一つ上の先輩じゃて、我も昔はあの学会におったんじゃ」
「暴走族の集団で本殿を襲うという可能性は考えられないですか?」
長谷部幸平は耳を赤らめつつ首を傾げた。言ってすぐ自分の発言の幼稚さを恥じてしまったのだ。
戸田和夫は出来の悪い生徒に苛立つ教師のように眉を顰めると、首を傾げ返した。
「暴走族というのはロボットか何かか? 誰がそんな無謀で無意味な行為を進んでやりたがる?」
「はい、そうですよね。すいません……」
「よいかお主ら、学会を潰すなどと、確かに言うのは簡単じゃ。じゃが、一応は学会の顔である八田弘が引き篭もってしまっておる上に、たとえ彼奴を狙えたとしても学会の結束が強まるという結果にしかならん。個人で与えられる社会的ダメージなど限られておるし、そもそも多少の社会的ダメージを与えたところであの学会は……」
八田弘は思わず言葉を止めた。ふと思い出したことがあったのだ。ヤナギの霊に関する問題を最優先にしていた戸田和夫は「はて」と顎を撫でながら明後日の方向に視線を動かしていった。
「どうかされましたか?」
「いや、そういえば最近学会の周囲がやけに騒がしかったな、とな。法華経の連中に平和党の藤田と、偶然じゃろうか……。メディアの動きも何やら騒がしいと……。そうじゃった、国税局までもが動いておるらしいではないか。大丈夫なのか、彼奴らは」
「国税局ですって? まさか学会が脱税を?」
「ああ、彼奴らはしておるよ」
「そ、それってかなり不味いのでは? いったい何故学会は宗教法人化していなかったのでしょうか?」
「そんなこと我が知るか、おおよそ小野寺の小僧に何か思惑があったんじゃろ。まぁ何にせよ学会には莫大な資産がある。それに小野寺文久もおる故、万が一にもあの脱税行為が露呈したところで、やはり学会が揺るぐことはない」
「そのタイミングで更に別の問題が発生したら?」
長谷部幸平は声を低くした。今やっと大場亜香里の存在が陰謀と繋がっていくような気がしたのだ。
「ファッションモデルをやってる大場亜香里という女生徒が、学会の尊師と接触を図ってるらしいんです」
「ほぉ、接触とな」
「美人局ではないかと疑ってるんですが、学会の尊師と呼ばれる方に果たして美人局など通用するんでしょうか?」
「いいや、せんじゃろ。現場を押さえられんからの。学会の最上階が彼奴の寝床じゃて……いや待て、そうか、法華経にマスコミか。国税局の査察調査がいつ入るかも分からんぞ。そうか、神経質な彼奴であれば外に出る可能性も大いにあり得るわけか」
戸田和夫は唸った。姫宮詩乃の鷹のような視線がいつの間にか彼のパナマハットを捉えている。
「いやはや美人局か、ふっはっは、面白いの。じゃが、やはり大したダメージにはならん。八田先輩にとっては大ダメージじゃろうが」
「そうでしょうか? 未成年淫行は学会としてもかなりイメージが悪いような……」
「心霊学会は普通の企業とは違うて、彼奴らを支えておるのは信者たちじゃ。たとえ未成年淫行で社会的ダメージを受けたとて潰されるまでにはいかんよ」
「本当に美人局などというくだらぬ目的の為か」
姫宮詩乃の少し掠れた声が場の空気を凍り付かせる。戸田和夫は振り返ると、雪原を舞う風のような白い髪を持った巫女と視線を重ね合わせた。
「あの男を外に連れ出すこと自体が目的ではないのか。下衆な行為を目前とするのであれば、あの男もボディーガードはそう連れて行くまい」
姫宮詩乃の瞳の陰影が移り変わっていく。長谷部幸平と徳山吾郎は互いに顔を見合わせ、戸田和夫は表情を強張らせながらパナマハットのつばを掴んだ。
「まさか……。いやしかし、そこまで念入りに謀略を巡らせるような輩が、街中でただ八田先輩を殺すようなことがありえるかて。その不利益に考えが及ばぬはずなかろう」
「殺して消してしまえば良い。遺体が見つからねば行方不明となる」
「無理じゃ。白昼堂々と人を殺して、その証拠を完璧に消し去るなど……」
「連れ去れば良い。暴走族であったか、人数は揃えておるんじゃろ」
「それこそ街中では不可能な話じゃろ。ただでさえ最近は警察が多い」
そう言った戸田和夫ははっと口を紡いだ。もしや裏道を使っているのではあるまいか、と。あの神経質な男が未成年を連れて警察の多い街中を移動する筈がない。
「この、このパトカーの数は、いったいなんじゃ……?」
パトカーのサイレンが遠鳴りに響いてくる。白いカラスの群れはその姿を見せずとも街に存在感を放っていた。
「抗争のせいです。おそらくはキザキか吉田くんが仕向けた」
長谷部幸平の声が震える。まさかそんな策謀はありえないだろうと。
「そ、そこまで考えて暴走族を従えておったというのか……? なんじゃその三原麗奈という女は……?」
「あの、このパトカーの群れにはいったいどんな意味があるんでしょうか?」
「……おそらくはルートの誘導じゃよ。学会の裏には深い山々が連なっておって、そこから海へと出る道がある。およそ数十キロの長い道のりで、途上にあるのは寂れた村落のみ。あの道ならば警察と出会うことなく安易に移動ができ、また連れ去ることも可能やもしれん」
その言葉に徳山吾郎は腹の底が凍り付くような思いがした。それをしてしまえばもはや後戻りは出来なくなると。そんな絶望感に似た思いに頬を青ざめさせた吾郎は正門を振り返った。
「す、すぐに止めに行かねば! 大変なことになるぞ!」
「落ち着け坊主、あくまで仮説じゃて。本当に連れ去ったとてそれが上手くいくとは……」
「脱税の件があるじゃろ」
「なんじゃて?」
白髪の巫女は何処までも冷静にその鷹のような目を細めていた。戸田和夫はパナマハットの下で大きく目を見開いてしまう。
「露呈すればあの男に逮捕状が出る。もしその本人が女と行方不明になっていたとしたら、世間はいったいどう思う?」
「逃げた、と……」
薄暗い森を抜けると山あいの開けた土地に出た。点々とした古民家に人の気配はなく凸凹とした砂利道には雑草が生い茂っている。
大場亜香里はスマホを握り締め続けた。心細かったのだ。隣に座った老人の手が太ももを撫でると、亜香里は涙を堪えつつ、引き攣った笑みを浮かべながらその手を払った。
「うわっ!」
突然、強い衝撃が亜香里の体を前に押し出した。何事かと顔を上げた亜香里はあっと息を呑む。道の正面に女性が立っていたのだ。スタイルの良い彼女の顔は乱れた茶髪に隠れてしまっており、豊満な胸ばかりが曇り空の下に強調されている。
女性は半裸だった。引き裂かれた衣服から覗く泥まみれの肌が痛々しい。一瞬で何があったのかを理解した亜香里は「ひっ」と息を詰まらせると手で口元を覆い隠した。
「た、大変だ……」
運転席に座っていた橋田徹は慌てた様子で肩に掛かったベルトを外した。亜香里もまた、とにかく彼女を助けなければとドアハンドルに手を伸ばす。だが、真横にある筈のドアに触れられない。いったい何故かと疑問に思う暇もなく、何が起こったのかさえ分からないままに、亜香里の視界が何かに遮られた。
痛いと思った。それでも声は出てこない。
「良い女だったよ」
幻聴のような声だった。よく通る少年の声が亜香里の耳の奥を木霊して消えた。