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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章
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焼けた声


 八田英一は放心したように木造の校舎に溢れた光を眺めていた。太陽はまだ低い位置にあるようで、東からの日差しが古びた教室を透かし、廊下に広がり、木枠に囲まれた廊下の窓を内側から照らしている。

 教室の中では、おさげ髪の女生徒たちが真剣な表情で狭い黒板を見上げていた。教壇では教師らしき丸メガネの男が厳格そうな薄い唇を大きく縦に動かしており、女生徒たちは熱心に彼の話を聞き入っている。その様子が英一には何故だかとても寂しかった。それは声がなかったからか。黒板に並んだカタカナの文字が掠れていたからか。それともやがてここに訪れることとなる悲惨な運命を無意識に嘆いてしまったからだろうか。

 それはまさに夢の中のような光景で、英一は崩壊の瀬戸際にあった心を最後の理性でなんとか保たせているようなギリギリの状態にあった。

 そう、まさにここが戦前の世界なのだろう、と。自分は今まさに、戦前の校舎を訪れているのだ。

 そんな独り言を呟きながら英一は木造の校舎をゆっくりと彷徨い歩いていった。

 おさげ髪の女生徒たち。黒い制服。木の匂いに溢れた廊下。そこに彼の知る富士峰高校の面影はない。空襲によって焼ける前の校舎は写真にすらも残ってはいない。そこが本当に戦前の高等女学校であるかどうかの判断はつかない。だが、それでも英一は信じた。自分が戦前の校舎を歩いていることを英一は信じて疑わなかった。

 懐かしかったのだ。何故だかとても懐かしい気持ちがした。黒い制服に身を包んだ生徒たちの笑顔は明るく、陽光を柔らかく反射させる木造の校舎は温かい。これこそが本当の学び舎だと、英一は一人嬉しそうに頷いた。人に溢れたこの木造の校舎こそが本当の富士峰高校なのだと、胸の奥底から込み上げてくる嗚咽に英一は口元を押さえた。

 では、自分は今まで何処を彷徨っていたのだろうか。

 そんな疑問がふと英一の喉元に引っ掛かる。あれは本当に暗く寂しい場所だった。永遠の夜に漂っていたものは静寂のみだった。いったいあの校舎は何だったのだろうか。生徒の声のないあの場所を学び舎などと呼べるはずがない。自分はいったい何処を彷徨い歩いていたのだろう……。

 そうか、焼けてしまっていたのか。

 英一ははっと顔を上げた。

 だからあの校舎には声がなかったのだ。永遠の夜は終わりの証だった。

 英一の頬を涙が伝う。慌てて目元を拭った彼は陽の光に眩しい教室に微笑んだ。空襲に焼ける前の校舎には生徒たちの笑顔が溢れていて、それを誰かが覚えていたのだ。夜の校舎の静寂は誰かの嘆きだった。焼けて失われた生徒たちの声を誰かが嘆いていた。

 気が付けば、おさげ髪の生徒たちの視線が英一の元に集まっている。教師らしき丸メガネの男が英一の元に駆け寄ってくると、もう一度涙を拭った英一は照れ笑いを浮かべながら木造の廊下を後ずさっていった。丸メガネの彼は何やら左の頬を怪我しているようで、その形相には激しい怒りが溢れている。

 英一は嬉しくなった。当然のことだと。自分のような不審者が学び舎を彷徨いているのだ。大切な生徒たちを守らなければならない立場にある彼が怒りに震えるのは当然のことだ。

 丸メガネの彼と話がしたくなった。だが、これ以上この学校に迷惑をかけるわけにはいかない。それに自分も早く元の世界へと帰らなければならない。

 そう思った英一は慌てたように頭を下げると、戦前の校舎を走り出した。彼の夢に現れては消えていく子供たちの声を想いながら、昼と夜の交差した現実の世界に向かって。



「アイツらは何処に行っちゃったのよ!」

 くわっと口を開いた睦月花子の腕に青黒い血管が浮かび上がる。夜の校舎に声を轟かせた花子はその反響音から仲間たちの気配を探った。だが、校舎は完全なる夜の闇に呑み込まれてしまっているようで、誰の声も返ってこない。花子の怒鳴り声もすぐに静寂の彼方へと消えてしまうのだった。いや、そこが夜であるか否かは目の見えない彼女には確かめようのない事実だったのだが。ただ「夜になった」という木崎隆明の言葉と、何やら少し肌寒くなったような感覚から、また校舎に夜が訪れたのだろうと花子は判断していた。

「まさか殺されちゃったんじゃないでしょーね」

「いや、血の跡はない。いなくなったと言うのが正しい」

 木崎隆明の声が花子の耳に届く。相変わらず抑揚のない声である。いなくなった者たちを心配しているのかいないのか。突如として訪れた夜に驚いている様子はなく、ただ彼は普段通りの退屈そうな声で、現状を花子に伝えるのみだった。

「血の跡なんてここじゃすぐに消えてなくなっちゃうのよ。ああ、そういやあのヒステリーサイコレズ役立たず女、時間が動き出してるとかなんとか言ってたわね。これはちょっと不味いかもしれないわ……」

 夜の校舎は静寂に包まれていた。無意識に耳を撫でた花子はいつの間にかクラシックピアノの物寂しい旋律が消えてしまっていることに気が付く。

「そうだわ、放送室よ」

「ああ、校内放送で自分達の居場所を伝えるのか」

 抑揚のない声のみがふっと闇の中から現れる。だが、それに驚いている暇などない。

「いいえ、クラシックの音楽を流すの」

「音楽だと? それにいったい何の意味がある」

「んなもん知るかっつの。てかそうね、校内放送で呼びかけるってのもいい考えじゃない」

 このまま校舎を彷徨い歩いても彼らと会える保証はないだろう。いや、いずれ会える可能性はあるとて、悠長に彼らを探し回っている暇などないのだ。今の彼らには自分の身を守る術がない。ヤナギの霊に目をつけられた瞬間が彼らの最後となるだろう。そうなる前になんとしても彼らを見つけ出さなければならない。

 保健室の前の壁に手をついた花子は自分の位置を確かめつつ、三階の放送室を目指して歩き始めた。すると、花子の空いた右手に少し冷えた肌の感触が伝わってくる。花子の手を引くのに木崎は何の躊躇いもないようだった。

「こっちだ。階段に気をつけろ」

 そういうが否や、木崎自身が階段に躓いてしまう。目が見えない花子はそれでも木崎の体を軽々と支えてやりながら、やれやれと苦笑いを浮かべた。

「アンタが私をエスコートしてくれるんじゃなくって?」

「すまない。実は俺自身もよく見えていないんだ」

「まさかアンタ、目が悪いの?」

「いや、暗くってさ」

 木崎はそう言うと、腫れぼったい瞼を細めながら夜闇に腕を振った。すると手すりに手が触れる。いったいこれは何だと微かに首を傾げるも、それ以上は特に気にすることなく、壁伝いにのそのそと階段を上がっていった。二階にも三階にも光源はなく、ほんの微かな月明かりが校舎に影を作っているのみである。ただ、二人とも夜を恐れないたちなのか、木崎のペースが落ちることはなく、完全なる闇の中にいるはずの花子の歩みにも迷いはない。気が付けば二人は放送室と書かれた白いプレートの前に立っており、木崎はといえば怪訝そうな表情で、見覚えのないスチール製の扉にゆっくりと手を伸ばした。

「たぶんここだ」

 扉を引いた木崎は放送室の中を見渡した。だが、灯りもなしに何も見えるはずがなく、途方に暮れた彼は後ろを振り返った。

「それで、どうするんだ」

「だから、クラシックの音楽を流すのよ」

「暗くて何も見えない」

「電気つけなさいよ」

「電気?」

「扉の前にスイッチがあるでしょーに」

「すいっち?」

 花子の額に血管が浮かび上がる。「たく、退いてなさい」と木崎の体を片手で押し退けた花子は壁伝いに放送室に足を踏み入れた。そうして記憶にある通りに花子が壁を探っていると、突然、脳天に風穴が開けられるような鋭い発砲音が放送室の扉を弾いた。驚いて顔を上げた木崎は「うっ」と腕で腫れぼったい目を覆い隠してしまう。赤い陽光が廊下から放送室に差し込んできたのだ。

「伏せなさい!」

 咄嗟に身を屈めた花子はそう叫ぶと、狭い放送室の壁伝いに体制を立て直しながら、半開きとなっていたスチール製の扉を捻り剥がした。ある意味ではヤナギの霊よりも危険な存在であるといえる男がこちらに迫っている可能性があったのだ。万が一にも彼の強襲を受ければ、今の自分では全く歯が立たないだろう。だが、それ以上の発砲音は聞こえてこず、スチール製の扉を横に構えながらそろりと廊下に足を踏み出した花子は、残響の消えていく校舎の奥に意識を集中した。

「今の音はなんだ」

 抑揚のない声が真横から聞こえてくる。花子は闇の向こうに耳を澄ませたまま唇のみを素早く動かした。

「たぶん仲間よ。銃を持ってる奴がいるの」

「銃だと」

「放送室に隠れてなさい。彼、私と同じくらい頭がイカれてるから、ひょっとすると撃たれるわよ」

「人の気配はないようだが」

 夕陽の淡い熱が肌を柔らかく包み込んでくる。僅かな空気の変化ではあったが、目の見えない花子はそれを頬で感じ取ると、放送室の扉を斜め横に倒した。

「まさかまた時間が動いたの?」

「夕方になってる」

「なんですって? それっていつの夕方なのよ? ねぇちょっとアンタ、その辺の教室にでも潜り込んでノートか何かを盗み見てきてもらえるかしら。きっとそこに日付が書かれてるはずだから」

「日付が分かったとして、それが何だというんだ」

「気になるじゃないのよ! もしここが戦国時代とかだったらどーするってーのよアンタ! あーもう、目さえ見えりゃあこの私が怨念渦巻くこの学校の怪異解き明かして世紀の大発見をかましてやれるっていうのにぃ!」

 花子の手の中でスチール製の扉が潰れていく。本当に悔しそうである。そんな彼女を無視して放送室の隣にあるパソコン室を興味深そうに眺めていた木崎は、ふと目にした奇妙な光景に腫れぼったい目を細めた。教室の端にある掃除用具入れらしきロッカーから青々とした晴天の空が覗いていたのだ。近付いてみずともそれが校庭の景色であるらしいことは判断でき、廊下を振り返った木崎は、今やかつての面影すらも残っていない扉の残骸に片足を乗せていた花子に向かって抑揚のない声を出した。

「おい、外に出られるぞ」

「はあん?」

「外に出ろと、あいつが言っている」

「それって村田みどりのこと?」

「ああ」

「意味が分からないんだけど、急にどーしたってのよ」

「……さぁ、俺にも分からない」

 いいや、果たしてこれは本当に急な事態なのだろうか。

 木崎はそんな自身の想像にゾッと背筋を凍り付かせると、唇を歪めながら首を横に振った。もしや夢を見ている者と、夢の中にいる者とでは、時間の流れが違うのではあるまいか。もしそうだとすれば、それはあまりにも哀れで悲惨な物語ではないか。

 見覚えのない教室の白い机に並んだ薄い板のような何かは、或いはテレビの類のようにも思え、だがそれは彼の知るテレビとは形状に大きな差があり、またそれを学校の教室に幾つも揃える意味が彼には分からなかった。ここが彼の知らない未来の世界だということは安易に想像がつき、それがいったい何年後の世界なのかを知るのが木崎にはとてつもなく恐ろしかった。

 夢を見ているであろう自分にとっては一定でない時間の流れが、もしも夢の中にいる彼女たちにとって一定だったとしたら、いったい彼女はこの時をどれほど待ち侘びていたのだろうか。待ち侘びて待ち焦がれて、数年、数十年、やっと目の前に現れた自分にいったい彼女は何を思ったのだろうか。安堵だろうか。悲しみだろうか。憎しみだろうか。

 木崎は自身の想像に嫌気が差した。どうして自分はこうも余計ことばかり考えてしまうのだろうか、と。だが、実際に目の前には外への道が示してあり、それはつまり彼女自身が遊びの終わりを暗示しているということにほかならない。あれほど望み焦がれた筈の永遠の未来を、やっと終わらせられると彼女が哀しそうに微笑んでいるのだとしたら、これほど悲惨な話はないではないか。木崎は絶望に似た感情を胸に、腫れぼったい目を閉じていった。

「で、アンタはどーすんのよ」

 花子の声が木崎の頬をピシャリと叩く。僅かに視線を上げた木崎はひどく気怠げな低い声を出した。

「分からない」

「はん、なら外に出るのは後になさい」

「どうしてだ」

「どうしてもこうしても、暴走してんのはアンタの友達じゃないのよ! 村田みどりはアンタが何とかするのよ!」

 パソコン室のロッカーが独りでに開いていく。早く外に出てと懇願しているかのように。

 ほんの僅かに腫れぼったい目を見開いた木崎は、少し寂しげな表情でもう一度だけ首を横に振ると、白い包帯で目元を覆った花子の手を掴んだ。

「分かった。なら急ごう」

 木崎はそう言うと、パソコン室を振り返ることなく、銃声が消えていった校舎の奥に向かってのそりと足を踏み出した。

 

 

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