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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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濡れた土の匂い


 体育館の空気がどんよりと重い。厚い雲に覆われた空は天井に隠れて見えない。それでもその燻んだ灰色の光は安易に想像できる。気温はそれほど高くなく、かわりに濡れた土のような匂いが肌にまとわり付いてくる。だが、床は冷たく乾いている。

 三原麗奈はステージを見上げていた。

 まだ朝早い校舎には人の声が少なく、薄暗い体育館を流れるものは麗奈の微かな呼吸音のみである。だだっ広い客席に座るものは彼女ただ一人で、舞台の上に役者の姿はない。麗奈はただジッと冷たい床で膝を抱えたまま、誰かの影が現れるのを待ち続けていた。美しく力強くそして何処か寂しげな誰かの声が。

「王子」

 可憐な声が背後から聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。だが、麗奈は振り返らなかった。待ち望んでいた声ではなかったからだ。

「ねぇ王子」

 可憐な手が麗奈の肩にかかる。白魚のような手だ。人形のように整った顔の少女。大野木紗夜は少し困ったような表情で、膝を抱えたまま動こうとしない麗奈の背中をそっと撫で始めた。

「そろそろ部活の時間だよ?」

 麗奈は心ここに在らずといった表情でステージの上を眺め続けていた。紗夜はため息をつくと、しょうがないなといったような微笑みを浮かべながら、麗奈のほっそりとした背中に腕を回した。



 早朝の街を流れる風には土の匂いが混じっていた。吉田障子は顔を上げると、どんよりとした曇り空に目を細める。学校の正門前のバス停は静かで、ベンチに腰掛けた二人の男女に意識を向けるものはいない。

「じゃあ、行ってくるね」

 雲間を抜けるようにして道の先からバスの影が見え始めると、大場亜香里は少し慌てた様子で立ち上がった。スラリと背の高い彼女は黒のトップスに紺のデニムと大人っぽい印象のコーデをしており、女子高生らしさなどは微塵も感じられない。それが彼女の判断であるならばそれで良いと吉田障子は何も言わなかった。だが、彼女の強張った表情には幼さが見え隠れしており、やれやれと立ち上がった吉田障子は彼女の手を強く握りしめてやった。

「頼んだぜ」

 唇と唇をそっと重ね合わせる。不意をつかれた大場亜香里は驚いたように目を見開くも、すぐに頬を緩めると彼にキスを返してやった。

「任せてよ」

 バスの影が暗い雲間に消えていくと、唇を袖で拭った吉田障子は富士峰高校の正門に向かって歩き始めた。迎えに行かねばならない者たちがいたのだ。

「おーい、麗奈ちゃーん」

 まだ声変わりを迎えていないような少年の声が体育館の乾いた床を震わせる。三原麗奈が振り返ることはなく、かわりに麗奈の肩に胸を寄せていた大野木紗夜が驚いたような声をあげた。

「障子くん……?」

「紗夜、ごめん」

 吉田障子の瞳の色が薄くなっていく。硯の墨が水に溶けていくように。暗い霧の奥底で青い泉の水面が波立つ。

 大野木紗夜の体が体育館の床に倒れると、麗奈の肩を乱暴に引き寄せた吉田障子はセイレーンの歌声を彼女の瞳の奥に向けた。

「立て──」

 アッシュブラウンの髪が揺れる。虚ろな表情をした女生徒の体が起き上がる。

 彼女を正門へと向かわせた吉田障子はすでに学校に来ているはずの倉山仁にラインのメッセージを送った。



「おせーよ、豚野郎」

 倉山仁に向けられる吉田障子の声には変わらず毒が含まれていた。その鋭い棘が彼の太った体を傷付けるも、普段のような痛みは感じない。それどころか彼は浮き足立ってさえいた。恋焦がれて止まない同級生が目の前に立っていたからだ。憧れの三原麗奈と一緒に仕事ができると、倉山仁は今日が待ち切れない想いだった。

「い、急いだつもり、だったけど……」

「口クセェ豚が口答えしてんじゃねぇよ。ほらみろ、麗奈ちゃんだって待ちくたびれて落ち込んじまってんじゃねーか」

 そう言った吉田障子は口元にイヤらしい笑みを浮かべると、三原麗奈の肩にそっと手を置いた。途端に倉山仁の呼吸が荒くなる。その汚い手を今すぐ退けろ、と。だが、口には出せず、ただただ彼は陰鬱とした視線を二人に向けることしかできなかった。

「なぁ麗奈ちゃん、そろそろ機嫌直せってば」

 吉田障子の視線が麗奈の体を舐め回す。だが、麗奈は見向きもしない。その表情はさも虚ろなようで、確かに彼の言葉通り、彼女は憤っているように思えた。同時に何かを憂いているようにも。「落ち込んでいる」とは何か。「機嫌を直せ」とはいったい。何気なく吐かれたような吉田障子の言葉が気になって仕方がない。倉山仁は胸に湧き上がってくる疑問に唇を噛み締めた。

「そろそろ行くか」

 曇り空を見上げた吉田障子はほんの僅かに眉を顰めると、ポケットから取り出したスマホの画面に視線を落とした。そうして麗奈の背中を軽く押した彼は正門の回転扉に向かって歩き始める。倉山仁は危うくレンガ畳の上で転げそうになりながらも、慌てて彼らの後を追い掛けた。

「あ、のさ……、その、し、仕事って……」

「あ?」

「仕事って……、きょ、今日の……」

「撮影だよ」

「な、何を……?」

「うるせぇ豚野郎だな。テメェは黙ってカメラ構えときゃいいんだよ」

 吉田障子は振り返ることすらしなかった。倉山仁はグッと丸い拳を握り締める。いつか必ず復讐してやると。だが、そんなことよりも彼は泳ぎ続ける視線を固定するのに必死だった。ややもすると三原麗奈のほっそりとした腰から、夏服の裾から伸びる白い肢体から、目が離せなくなってしまいそうだったのだ。柔らかな花の香りが鼻の奥をくすぐる。可愛いと、好きだと、そんな単純な想いばかりが倉山仁の胸を叩き続ける。

「待たせたな」

 気が付けば黒いバンの前だった。学校からほど近い路地裏である。人けはない。開け放たれたリアドアから見えるバンの中は広々としており、運転席に座った男の表情は能面のようだった。

「あ、あの……」

「乗れ」

 吉田障子の言葉に従うように、三原麗奈は表情を変えることなくセカンドシートに腰掛けた。「テメェは後ろだ」と吉田障子の低い声が倉山仁の背中を叩く。恐る恐るバンの奥に体を押し込んだ倉山仁はそこでやっとサードシートの窓際に腰掛けていた陰気な男の存在に気が付いた。その男はまるで夕暮れの街を彷徨う蝙蝠のような暗い影に覆われており、前髪に隠れた腫れぼったい目のみがギョロリと奇妙な光を放っていた。

「なぁ小森クン、少しだけ待ってて貰えるか」

「はい」

 運転席に座っていた能面のような男が唇のみを動かす。彼に向かって頷いてみせた吉田障子はリアドアを開けたまま来た道を振り返った。学校へと続く路地の先に一人の男が立っていたのだ。制服姿のその男はキザったらしい黒縁メガネをかけており、普段とは違った険しい表情をしている。こんな路地裏には不釣り合いな男だと、バンのサードシートで震えていた倉山仁は、突然現れた生徒会書記の徳山吾郎に対してそんな印象しか抱くことが出来なかった。


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