カラスの群れ
三羽のカラスが細い雲に沿うようにして街を離れていく。
その様子に目を細めていた清水狂介は赤いバイクのハンドルを握り直した。
カワサキZ400GPの低い排気音がカラスの後を追う。まだ青い空の彼方には厚い雲が流れている。
「引き返すぞ!」
清水狂介は声を張り上げた。バイクを止めた“インフェルノ”のメンバーたちが彼の髑髏のタトゥーを振り返る。
「逃すんですか?」
「逃げるカラスは捕らえられん」
「ああ、誘き寄せるつもりで」
「いいや、引き返す。今日はもう終わりだ」
そう言った清水狂介は一人バイクを反転させた。“インフェルノ”のメンバーたちは彼に順従である。だが、“火龍炎”のメンバーたちは憤った。これは報復なのだと。大切な仲間である長谷部幸平を闇討ちした“苦獰天”を叩き潰すための決戦なのだと。
「これ以上追っても仕方がない。奴らは種族が違う。オオカミとカラスの間に決戦は起こらない」
“苦獰天”は四つの少数チームを街の東西南北に待機させていた。数で劣る“火龍炎”には彼らを同時に潰す術がない。さらに“苦獰天”は逃げ回るばかりで、その尻尾すらも踏みつけられないでいる。“火龍炎”のメンバーたちは燃え上がった拳を振り下ろす先を探し続けており、“火龍炎”の総長である鴨川新九郎と“インフェルノ”の総長である清水狂介のみが、広げた拳で口元を押さえていた。何かがおかしいと。奴らの目的が分からないと。
「おい狂介、またサツだ」
“インフェルノ”のメンバーの一人が清水狂介の隣にバイクを走らせた。街には連日、パトカーのサイレンが鳴り響いており、それはあたかも獲物を狙う白いカラスの群れのように、彼らのテリトリーを蝕んでいくのだった。抗争が空振りに終わる原因の一つがこれである。
清水狂介はバイクに跨ったまま腕を組んだ。“火龍炎”と“インフェルノ”のメンバーたちはパトカーのサイレンに警戒しつつも、彼の言葉を待ち続ける。左腕のタトゥーは死を運ぶ悪魔のようで、しかれば死の悪魔を従える王の威厳が彼には備わっているようだった。
「帰るぞ」
バイクの排気音が夏空に轟く。パトカーが数台、彼らの後を追う。だが、彼らは気にせず街を走り抜ける。警察もまた手一杯だった。毎日のようにバイクの音を轟かせ、抗争に明け暮れる暴走集団たちに警察側は眉を顰めていた。
先ず感じたの言いようのないもどかしさだった。
安眠を妨げられた際に感じる不快感ではない。唐突に夢を終わらされた際に感じる歯痒さである。壊れた世界の断片が瞼の裏を掠めると、長谷部幸平は今の今まで見ていた筈のリアルな夢を思い出そうと肩の力を抜いた。心を鎮めて記憶の断片を繋ぎ合わせようと。
だが、騒がしい。雑音が頬を叩く。彼方へと霧散した夢を再構築するのは困難で、再び眠りにつくことすらもままならない。いったい何だと、幸平は目を瞑ったまま眉間に皺を寄せた。
「おい幸平!」
聞き覚えのある声だ。夢の断片が完全に消えてなくなると、やっと現実の世界に意識を戻した幸平はうっすらと目を開いた。白銀に輝く眩しい世界。白い天井を覆い隠すように、金髪の大男が彼の顔を覗き込んでいる。
「幸平!」
「……しんちゃん?」
「こっ、幸平っ! 幸平っ!」
「病室では静かにしてください!」
しんと凍り付いたような静寂が白い部屋に訪れる。白衣姿の若い女性が「もう」と腰に手を当てると、その隣に立っていた鴨川新九郎は申し訳さそうに頭を掻いた。勇猛果敢な彼がこれまでに見せたこともないような表情である。よく見れば他にも数名の女性たち白衣の裾をひらひらと揺らめかせており、壁際では髑髏のタトゥーを入れた長身の男が腕を組んでいる。もしやまだ夢の中なのではないかと、幸平は苦り切った笑みを浮かべながら体を起こした。
「お、おい、大丈夫なのか?」
「しんちゃんこそ、大丈夫なの?」
幸平はそう言葉を返すと、新九郎の頬の傷に首を傾げた。随分と殴られたのか、物語に登場する武士のように古風で濃い顔立ちをした新九郎の顔には青あざが目立っていた。幸平の視線から傷を隠すように、そっと頬を撫でた新九郎の視線が窓の外に送られる。西日は沈みかかっており、赤い陽が街に影を伸ばしている。
「随分とやられたね。囲まれたの?」
「いや、これは春雄くんにやられたんだ」
「へぇ、春雄くんが相手だったんだ。ならしょうがないか」
「ああ、いや待て待て、もちろん俺の圧勝だったさ! けどよ……」
「けど?」
「ちょっとな……」
新九郎は口を紡いでしまう。それはやはり彼がこれまでに見せたことのないような表情で、幸平もまた奇妙な違和感に口を閉じてしまった。二人の視線が日暮れの夏空に向けられると、白い部屋の空気がゆっくりと動きを止めていく。
「カラスが多い」
沈黙を破るように、壁際で腕を組んでいた清水狂介が低い声を出した。白衣姿の若い女性たちが驚いたように目を丸める。
「カラス?」
幸平は窓の外を見つめたまま首を傾げた。倒景に赤く黄昏れた薄い雲が空を覆っている。それを遮る鳥の影は見えない。もしかすると何かの比喩だろうか。そう思った幸平は壁際に立つ寡黙な男を振り返った。だが、目を瞑ったまま腕を組んだ清水狂介はそれ以上の言葉を発せず、やれやれと肩をすくめた幸平はベッドの側の大男に視線を戻した。
「しんちゃん、今日は何か変だね」
「変だって?」
「春雄くんと何かあったの? それともまさか“火龍炎”に何かあったとか……」
「いいや、それは心配すんなって、俺たちは最強だからよ」
「じゃあ」
「春雄くんがよ……、いや、今朝の話なんだが、あの野郎ちょっと変だった。俺と戦う前から既にボロボロだったんだ」
新九郎は窓の外を睨んだまま太い指を唇に当てた。山田春雄の言動を思い出そうと、日暮れの空に青い光を探してみる。
「まさか、仲間割れ?」
「かもしれねぇ。“苦獰天”を抜けようとしてリンチにあったのかも。あの春雄くんをタイマンでボコれるような奴なんてアイツらの中にはいねぇだろうしな」
幸平は驚いて目を見開いた。いったい自分が寝てる間に何があったのかと、好奇心が抑えられなくなった幸平はベッドの上で身を乗り出してしまう。
「何で? いったい何があったのさ?」
「今日が“苦獰天”との決戦の日だったんだ。春雄くんとのタイマンはその前哨戦みたいなもんで……、ああ、いやなんつーか、説明が難しい」
「それってもしかして僕のせいで? 勝敗はどうなったの?」
「いや、それがな……」
「勝敗はつかなかった。いつものように逃げ回る奴らの羽を追いかけたのみだ」
清水狂介の視線がベッドに移る。その鋭い眼光には何かを訝しむような疑問の色が浮かんでいる。
「決戦の事は伝えてたんだよね?」
「ああ。それでも奴らは逃げた」
「へぇ」
「その事なんだがよ、決戦の日は今日じゃねーって春雄くんが俺に言ったんだ。決戦は明日だって」
新九郎の低い声に視線が集まる。二人の男の視線は熱く、対照的に、白衣姿の若い女性たちの瞳には桃色の光が溢れていた。
「春雄くん、やっぱり何か変だったぜ。俺たちじゃ“苦獰天”には勝てねぇって、アイツ、そんな風に相手を煽る男じゃなかっただろ」
「うん、そうだね。それで決戦が明日っていうのは?」
「分かんねぇ。ただ俺たちはリングに上がってねぇって、この戦いが舞台の上の演劇だとかなんとか、春雄くん、わけわかんねぇことばっか言ってやがった」
「なんだって?」
幸平は表情を変えた。僅かに視線を落とした彼は、この抗争に感じていた違和感を思い出して眉を顰める。
「“苦獰天”の敵は心霊学会だって、俺たちなんて眼中にねぇって、あの野郎……」
「し、心霊学会……?」
「明日の決戦で俺たちの役目は終わるって、そうだ、俺たちが利用されるとか利用されたとか、よく分かんねぇ話もしてやがったな」
「ちょ、ちょっと待って……!」
幸平はそう言って口元を押さえると、ブツブツと何かを呟き始めた。話を整理しなければいけないと考えたのだ。違和感の正体を掴もうと。
陽が沈み、青黒い影が世界を覆っていくと、病室に白い光が灯される。若い女性たちは病室を出たり入ったと忙しなく動いており、気が付けば先ほどの倍ほどの白衣が狭い病室に入り乱れていた。
「……春雄くんって、しんちゃんと戦う前からもうすでにボロボロだったんだよね。もしそれが“苦獰天”のリンチによる結果だったとしたら、春雄くんは“苦獰天”に不満を持っていたということになる」
「そうだな」
「でも、春雄くんが総長の野洲くんと敵対したとは思えない。あの二人は仲が良いから、たとえ万が一にも春雄くんが抜けたいと言い出したとして、リンチにあうとは考えづらい」
「でもよ、ならどうして春雄くんは……」
「“苦獰天”には影のリーダーがいるんだ。たぶん“苦獰天”の奴らはそいつに逆らえなくって、この抗争も無理やりさせられてる可能性があるんだ」
壁にもたれ掛かっていた清水狂介の眉がピクリと持ち上がる。新九郎は、まさか、と太い首を横に振った。
「あの野洲孝之助だぜ? それに“紋天”の早瀬竜司もいるんだ。アイツらが誰かの言いなりになるなんて考えらんねーよ」
「たぶん背後にいる男はキザキだ」
「キザキ……」
「もしも“苦獰天”の裏にいる男があのキザキであるならば、野洲くんたちが逆らえなくなるのも納得がいく。キザキは裏社会と繋がりがある男だからね」
「あの少年じゃないのか?」
清水狂介は組んでいた腕を解いた。その低い声にまた看護師たちがビクリと肩を跳ね上がらせる。だが、狂介はさして気にした様子もみせない。
「お前が襲撃された際に、黒のワゴン車から出てきた少年だ。あの少年だけは他の奴らと毛色が違った」
彼の言葉に、幸平は再び唇を押さえた。確かにあの時、ゴミ置き場の前には他とは毛色の違う少年が立っていた。恐らく警察に通報したのは彼で、彼こそが三原麗奈を使って自分を嵌めた吉田という名の男だったのだろう。冷たい目をした少年だった。だが、流石にそれはないだろうと、唇から指を離した幸平は首を横に振った。
「うん、僕も覚えてるよ。でも、“苦獰天”を影で操ってるのが彼だってのは流石にあり得ないでしょ。もしそうなら、あの場で僕らの前に姿を見せるはずないし、何よりも彼は見た目が非力だ。うん、見た目なんて関係ないだろって思うかもしれないけど、春雄くんはともかく、野洲くんや早瀬竜司、他の“苦獰天”のメンバーたちがあの少年の言いなりになるなんてことは絶対にないと言い切れる。僕らみたいなのを束ねるには少なからずの腕っ節か、もしくは相手を脅かす知名度が必要になってくるからね。対等な立場で、そう、たとえばパートナー程度の話であればあり得るかもしれないけど、裏で“苦獰天”を束ねるのは不可能だよ。奴らの背後にいるのはキザキで間違いないと思う」
「ふむ」
「ねぇしんちゃん、春雄くんって他に何か言ってなかった?」
幸平の視線が上がる。新九郎は青黒い窓に映った自分の姿を横目に、太い首を倒した。
「そうだな……。そういや、うちの学校の大場亜香里がどうとか言ってやがったな。明日は大場亜香里が動く日だとか、白雪姫がどうのこうのと……」
「殴り合いの最中に大場亜香里の話か。うん、それはますます妙だね」
「俺たちの戦いとは別の場所でストーリーが動いていくって……。あの野郎、本当に何が言いたかったんだ」
「何を伝えたかったのかだね。今の話でだいたい検討はついたけど、この抗争の本来の目的は単純な力の誇示とは別のところにあるようだ」
「別のところ?」
「うん、元々おかしいとは思ってたんだよ。新チーム結成の宣言は大々的だったくせに、やる事といえば少数で街を走り回るのみ。いざ喧嘩を仕掛けてみても、まともには戦おうとはせず、評判を落としてまで逃げ回る始末」
「じゃあ、奴らの目的っていったい何なんだよ?」
「春雄くんは心霊学会こそが本来の敵だって言ってたんでしょ? もしかすると、俄かには信じられない話だけど、“苦獰天”は心霊学会に何らかのダメージを与えようとしてるんじゃないかな」
「アイツら心霊学会に乗り込もうとしてんのか?」
「いや、流石にそれはないよ。そんな事をすれば“苦獰天”は解散どころかメンバーの大半が刑務所行きだ。たぶんもっと社会的なダメージ、そう、たとえば大場亜香里を使って心霊学会の誰かに美人局を仕掛けるとか……」
「美人局? それならなんでアイツらは俺たちから逃げ回ってたんだ?」
「うーん、ごめん、正直まだ分からないことばかりでさ。“苦獰天”の背後にいる男はおそらく僕なんかじゃ遠く及ばないような神機妙算の戦略家で、その全容は計り知れないんだ。どうして“鬼麟”なんていうありもしないチームの噂を流したのか。どうして評判を落としてまで逃げ回っていたのか。ああ、それと警察だ。一番の謎は奴らが事あるごとに警察の力に頼ってたことだよ」
「カラスの群れを放つ為だろ」
気が付けば清水狂介はベッドを見下ろしていた。ブラックアンドグレーの髑髏のタトゥーが白い部屋に浮かび上がって見える。白衣姿の二人の女性が恍惚とした表情で彼の腕にもたれ掛かっており、いったい病室で何をしているんだと、幸平は呆れたように細い眉を下げた。
「カラスの群れって?」
「白いカラスの群れだ。奴らのせいでもはや抗争すらもままならない」
「そ……」
幸平は目を見開いた。白いカラスの群れ。パトカーのサイレンの音は日増しに街を埋め尽くしていっている。それは深夜帯にも言えることで、この病室にも時折パトカーのサイレンが響いてきていた。
「奴らが逃げ回っていたのはテリトリーを広げるためではないのか。そうして街中に白いカラスを飛び回らせることが奴らの目的だったのでは」
「そ、それは……。いや、まさか、そんな事のために奴らは……」
「おいお前ら、白いカラスって何だよ?」
そう言った新九郎は不満げに腕を組んだ。
彼の隣に立っていた白衣姿の女性も腰に手を当てながら頬を膨らませており、それでも「そろそろ面会時間は終わりですよ」とその不満げな表情とは裏腹に、新九郎を見上げる小柄な彼女の瞳は桃色の光に溢れていた。
「警察さ。パトカーが街中を走り回ってるだろ」
「ああ、そういや最近増えたよな。でも、それがどうかしたのか?」
「この抗争は、単に警察の目を増やすためだけに始められたのかもしれないんだ」
「はあ?」
「バイクで騒音を出しながら逃げ回ることで、警察の目を街中に広げる。“苦獰天”が僕たちとの正面衝突を避けていたのは、警察側を警戒させ続けるため」
「いや、なんでだよ……?」
「分からない。そこにどんな意味が隠されてるかなんて僕には……。ただ春雄くんのリングに上がっていないという言葉はそれで理解できる。もし警察の目を広げるためだけに“苦獰天”と“火龍炎”が仮の抗争をやらされていたのだとしたら、春雄くんが抜け出したくなる気持ちも分かるよ。ただ、野洲くんはいったい何を……」
「ふ、ふ、ふっざけんじゃねーぞ!」
新九郎の怒鳴り声に白衣姿の女性たちは飛び上がった。大柄の彼を囲むようにして女性たちが集まってくると、新九郎はさして抵抗もせず、ただただ怒りのこもった瞳のみを幸平に向け続けた。
「俺たちが戦わされてただと? この抗争が偽物だったって?」
「この戦いが舞台の上の演劇だって春雄くんは言ってたんだよね。何にせよ、明日の決戦を避けたほうがいいと思う」
「いいや、俺たちはやるぜ。奴らの汚ねぇ策略なんて正面からぶっ潰してやる!」
そう叫んだ新九郎は拳を握り締めると、白衣姿の女性たちを押し退けるようにして病室を出ていってしまった。彼の背中を見送った者たちは呆然とした面持ちで、二人の男のみが白い部屋で鋭い視線を重ね合わせている。
「ねぇ狂介」
「ああ、分かってる。幸平、お前は奴らの企みを考えていてくれ」
清水狂介は頷くと、青黒い窓の向こうに目を細めた。