舞台の夢を見て
舞台の上の白い衣装の煌めき。体育館の粗い床に並べられた低い木の椅子。
繰り返される夢が加速する。音の無い世界に語られる美しいストーリー。黒い制服の女生徒たちの動かない視線。障子は、延々と続く演劇に、熱の無い涙を流し続けた。知らないはずの物語。シェイクスピアの戯曲。
「──」
「──」
音を忘れた生徒の声。忘れた顔に浮かべる笑顔。
「──」
「──」
障子は楽しかった。彼女は生まれて初めて夢を見た気がした。明るい未来への希望。将来に対する強い想い。いつか叶うと信じる夢。
「──……」
「──……」
無音に微かな揺れが混ざる。水の底の振動に障子は首を傾げた。
「──……じ……」
「──……」
「……うじ……て……」
「……」
「……おうじ、……みて……」
「……え?」
「……王子、前を見て」
忘れかけていた音。空気が伝える信号。夢を壊す雑音。
振り返った障子の瞳に長い髪の女生徒の笑顔が映った。ヤナギの枝のように揺れる黒髪。大きな瞳に掛かる長いまつ毛に障子は違和感を覚える。
「……あの、誰ですか?」
「王子、前を見て」
「……前? 劇?」
「劇は後ろよ。前を向いて、王子」
「どういう意味?」
「過去は過去ってことだよ」
瞳の奥の光。艶やかな細い髪を無造作に下ろした女生徒の異様に赤い唇。
障子は怖くなった。雲よりも白いセーラー服。ふわりと風に浮かぶ長い髪。磨かれた爪の薄いピンク。漂うフローラルノートは、現実のものとは思えないほどに甘く強い。
「あ、貴方は、お化け?」
障子は唇を震わせた。黒いセーラー服の裾をギュッと握ると、長い髪の女生徒を上目遣いに睨む。
「ふふ、あはは。そっか、どのアナタも、あたしをお化けだと疑うんだね?」
「お化けなの、ですか? 私を、どうしたいの?」
「お化けじゃないよ、アナタもあたしも現実なの。思い出せないなら、王子、ほら、立ち上がって」
「ごめんなさい、貴方が何を言っているのか、分かりません。どうか、どうか安らかにお眠りください……」
障子は震える手を合わせた。熱のない手のひら。目を瞑った彼女は神への祈りの言葉を唱え始める。
長い髪の女生徒は青白い顔をして笑った。僅かに乱れた呼吸。音のない咳をした女生徒の白い頬に汗が伝う。
やっぱりお化けなんだ。
苦しそうな女生徒の幽霊を障子は哀れに思った。
舞台の上の時間は止まってしまっていた。白い衣装を着た王子役の女生徒が片膝をついたまま天井を仰いでいる。
安穏な無音と永遠の劇を望む障子の細い指の先。立ち上がった女生徒は障子の手を掴んで無理やり彼女を立ち上がらせた。
「ここにはあまり長くはいられないよ」
「は、離してください!」
「さあ、帰るよ」
「いやっ! 離して!」
「大丈夫だよ、君の夢は、未来で叶うから」
「いやああああああああ」
障子は絶叫した。女生徒の手を振り払うと、音のない体育館の外に走る。重力のない廊下の僅かな凹凸。閉ざされた木の扉の向こうの光。
扉を押して校舎の外に飛び出した障子を包み込む暗闇。どんよりとした重い空気に漂う湿った土の匂い。音が肌を伝って体の奥を震わせる。突然現れた見覚えのない世界に、呆然とした障子は立ち竦んだ。
「おかえりなさい、王子様」
聞き覚えのある声に振り返った障子は、肩で息をする姫宮玲華の濡れた赤い唇を見つめた。
「……えっと……あれ?」
記憶の混濁。感情の麻痺。
ゆっくりと意識を失った障子は、玲華の細い腕の中に倒れた。