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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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苛烈で退屈な世界


 薄いカーテンが青空を舞う。病室に吹き込む風が涼しい。

 三原麗奈は丸椅子に腰掛けたまま窓の向こうを見つめた。白い壁に染み込んだアルコールの匂い。ベッドに横になった長谷部幸平は昨日からずっと意識を失ったままで、包帯で顔を覆い隠された彼は、それでも穏やかな寝息を立てているように思えた。

 長谷部幸平の兄だというスーツ姿の青年が病室を去ると、途端に緩やかになった時の流れの中で、麗奈は物思いに耽った。昨日の出来事はいったい何だったのかと。夏空に浮かんだ白い雲を目で追っていく。

 彼はいったい誰なのか。

 彼女はいったい誰なのか。

 私はいったい何処にいるのか。

 髪を靡かせる夏風が涼しい。世界を見下ろす青空が眩しい。

 ここは夢の中なのだろうか。苛烈で可憐な──。それとも現実の内なのだろうか。平穏で退屈な──。

 彼は現実を生きているのだろうか。彼女は夢を見ているのだろうか。

 とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと、あの子を迎えに行かないと……。

 三原麗奈は静かに立ち上がった。同時に長谷部幸平の瞼がゆっくりと開かれる。

 あの人に会わないといけない。あの子を助けに行かないといけない。

 だって、私たちはいつも一緒だから。いつまでも私たちは永遠に友達だから──。

「麗奈、ちゃん……」

 長谷部幸平の声は届かなかった。白いベッドに背中を向けた三原麗奈のアッシュブラウンの髪が流れていく。病室を後にした麗奈は、平穏で可憐で苛烈で退屈な世界を、再び彷徨い始めた。



 “火龍炎”の総長、鴨川新九郎は胸の内に燃え上がった大炎に焦がされていた。彼の前に集まったメンバーたちも一様に目をギラつかせており、その握り締められた拳は安易に解けそうにない。

「俺はよ、ぜってぇに許せねぇよ……」

 鴨川新九郎の声は静かだった。だが、その低い声は雑居ビルの地下を震わせるほどに重く、荒くれ者たちの心を揺さぶるほどに熱かった。

「なぁ、仲間やられて黙ってられっか……?」

「否!」

「なぁ、集団で一人を襲うような卑怯者どもを黙って見過ごせっか……?」

「否!」

「こそこそと闇討ちなんて言語道断だ……。そんなのは俺たちの戦い方じゃねぇ……」

「応!」

「だから俺たちは、正々堂々と、奴らの正面から、目に物を見せてやる……!」

「応!」

 “火龍炎”はその名の如く、天地を焼き尽くさんと、火炎の咆哮を上げた。

 激情の中に憂いはなく、あるのは身を焦がす怒りのみである。潰してやると。焼き尽くしてやると。怒りが体を前に押す。後ろ髪を引く憂いはない。“火龍炎”は連戦連勝を続けていたのだ。卑怯な“苦獰天”を相手に敗北の二文字など浮かび上がらない。いや、もはや勝敗などは関係なく、ただただ彼らは怒りのままに振り上げた拳を固く握り締めた。

「明日だ」

「応!」

「明日、総攻撃をかける」

「応!」

「そう奴らに伝えてやれ。俺たちは逃げも隠れもしねぇと」

「応!」

「やってやんぞ、おめぇら!」

「おおおおおおおおおおおおおおおお!」

 “火龍炎”の炎が世界を揺らす。赤と黒の特攻服が明るい緑を焼き尽くす。龍の頭が咆哮を上げると、龍の拳が胸に叩き付けられた。

 ただ一人、冷たい地下の壁に背中を付けていた“インフェルノ”の清水狂介のみが、冷静に腕を組んだ。



「明日かよ」

 吉田障子はそう言って軽く舌打ちすると、パチンと指を弾いた。彼の期待よりも一日早かったのだ。視線を落とした吉田障子はこの最も需要な場面において、役者たちの動きを一つ一つ頭の中で計算しながら、左の頬を無意識に撫でた。

「おいキザキ、山麓の方は本当にもう大丈夫なんだろうな?」

「ああ、見せただろう」

 キザキはゆったりとした態度でコーヒーを入れた。白い湯気が山田春雄の実家の工場を流れると、気を鎮めるような香ばしい匂いが辺りを漂い始める。だが、それでも工場内の空気はどんよりと不穏なままであり、“苦獰天”の総長である野洲孝之助などは先ほどからジッと腕を組んだまま、キツく結ばれた唇を解く素振りすら見せない。

「なぁ野洲クン」

「……なんだ?」

 名前を呼ばれれば反射的に返事をしてしまう。潔癖で真面目な男である。だが、今の吉田障子にはそこを笑う余裕などなく、頬に指を当てたまま彼は、野洲孝之助の純白の特攻服を仰ぎ見た。

「明日は様子見で行こう」

「……なんだと?」

 にわかに野洲孝之助の表情が変わる。強張っていた唇をわなわなと震わせ始めた孝之助は、吉田障子の猫っ毛の天パを睨み下ろすと、憤怒の形相で声を張り上げた。

「お前は何を言っている!」

「落ち着け」

「“火龍炎”の総攻撃は明日だ! 我々がそう仕向けたのだ! 今さら変更など出来んぞ!」

「まぁ聞けって」

「明日だ! 明日全てを終わらせる! 様子見などと、そんな士気を下げるような話は二度とするな!」

「士気なんてねぇだろうが」

 吉田障子のその言葉に野洲孝之助は声を詰まらせてしまった。胸ぐらを掴まれていた吉田障子は苦しげに息を吐くと、表情は険しいままに口を紡いだ孝之助の腕を払った。

「完全にビビッちまってんぞ、アイツら」

 そう言った吉田障子は疎らに集まった“苦獰天”のメンバーたちを横目に睨んだ。確かに吉田障子の言う通り、工場内の床に座った彼らの表情は一様に暗く、とてもではないが決戦前の士気など見られない。それはまさに野洲孝之助自身が危惧していた事だった。

 総長である野洲孝之助すらも騙されていた作戦の直後である。いったいメンバーたちがそれをどう受け止めているか、孝之助は不安だったのだ。それが作戦だったとはいえ、連戦連敗の相手を正面に見据えて、果たして本来の実力など発揮することが出来るのだろうか。いいや、その本来の実力すらも、“火龍炎”には遥かに及ばないのではあるまいか。

「士気がないからこそ、明日は様子見だ。そうしなければ俺たちは負ける」

 吉田障子は言葉を続けた。野洲孝之助の返答など待たずに。

「いいか野洲クン、アイツらの無謀な進軍はあくまでも作戦の第一段階だ。そこからの勝利を確実なものとするには俺たちの士気が不可欠なんだ。脇目も振らずに攻め込んできたアイツらを十分に引き付けて、かわし、誘導し、囲い込む。元々、明日の決戦も正面からぶつかり合う作戦じゃなかった筈だ」

「だが……」

「数の上では俺たちが有利さ。そして、敵もその事実には目を向けていない。だからこそアイツらは決戦を挑んできた。だがよ、いくら俺たちの数が多くても、ビビッちまってたら戦えねーだろうが。戦いには勢いが不可欠なんだ。作戦が全て上手くいったとして、誘き寄せたアイツらを完全に包囲出来たとして、そこに士気がなければ逆転されちまう可能性がある。だからこそ、明日は様子を見るんだ。十五人の少数チームを四つ作り、進軍するアイツらの目を惑わす。まともには戦わず、完全には背中を向けず、ABCDと四つに分けた少数チームで四方からアイツらを睨み付ける。アイツらがその中のAに飛び掛かれば、襲われたAは素早くその場を離れ、残りのBCDで“火龍炎”の背後を追い掛ける。BCに飛び掛かればADが奴らの背後を、もしもアイツらが四方に分散して四つ同時に襲い掛かると言うのであれば、ABCDは互いに距離を置き、その場を離れていく。いくら“火龍炎”とはいえ、数人では何も出来ねぇのさ。そうして明日は様子を見て、だが決して敗北とはいえないような状況を作り、チームの士気を上げてやる。“火龍炎”からすれば、いつも通り“苦獰天”が逃げ回っているようにしか見えねぇだろうが、それを作戦だと知っている俺たちの士気は確実に上がる。士気さえ上がれば勝てるんだ」

「なるほど、いわゆる練兵という……」

「ああそうだよ。いいか野洲クン、明日は士気を上げる為に様子を見て、明後日の正午に作戦を実行する。それで俺たちの勝ちだ。分かったか?」

 吉田障子は声を大きくした。野洲孝之助は表情を引き締めると顎を縦に動かす。

 苦味の強いインスタントコーヒーを舌の上で転がしたキザキは微かに首を傾げた。吉田障子の様子が普段とは違うように思えたのだ。

 吉田障子は演出家だった。相手の表情、言動、行動をよく見て、その上であたかも相手に合わせているかのように、相手の動きを誘導していく。それが吉田障子の人心掌握術だった。だが、野洲孝之助の言葉を遮る吉田障子の言動には普段の余裕が見られず、キザキは舌がざらつくような違和感に肩をすくめてしまった。

「何を焦っている」

 その呟きは吉田障子には届かなかった。「はぁ?」と微かに視線を動かした吉田障子は再び左頬に薬指を当てると、壁際で不安げに腕を組んでいた山田春雄に向かって声を上げた。

「なぁ春雄クン」

「なんだ……?」

「防弾チョッキって持ってる?」

 山田春雄は眉を顰めた。「防弾チョッキ……?」と春雄が訝しげに首を傾げると、吉田障子は天井付近の薄汚れた窓を見上げて目を細めた。

「念の為に必要なんだ」

「別に防弾チョッキぐらいなら、ネット通販でも普通に売ってるが」

「持ってるか持ってねーかを聞いてんだよ」

「いや、持ってはいるけど……」

 山田春雄は声の震えを抑えようと必死だった。大まかにではあるが、彼のみが吉田障子の舞台の概要を聞かされていたのだ。もはや春雄にとっては“火龍炎”との抗争などどうでもよく、いったい自分はどうするべきかと、彼は不穏の影の上で頭を抱えていた。

「なら、貸せ」

 吉田障子の視線は冷たかった。それはまるで人を人とは思っていないような声色であり、山田春雄にはその視線が恐ろしく、また、許せなかった。

 お前は何様なんだと言ってやりたかった。俺たちはお前の道具じゃないと睨み付けてやりたかった。だが、怖い。どうして自分はこんなにも臆病なのかと、春雄は激しい苦悩の中で、ただ一人彼が尊敬して止まない兄の拳を思った。ただ一人彼が尊敬して止まない兄の背中を思った。

 吉田障子の瞳の色が怖い。吉田障子の声の響きが恐ろしい。それでも春雄は顔を上げた。プロボクサーである兄のようには成れないけれど、それでも自分は彼の弟なんだと、そんな小さな自負心を瞳の奥底に光らせた山田春雄は声を尖らせた。

「な、なんでだよ?」

「必要になる可能性があるからだ」

「可能性だと?」

「その時になってみないと分からない。だが、恐らくは必要になる」

「まぁ別に貸すくらいはいいが……。それよりも、前に貸してやったスタンガンはどうした?」

「ああ、アレなら俺の女に預けてるよ」

「お……! おい、なに他人に貸しちまってんだ! そいつがアレを人に向けちまったらどーする!」

 山田春雄は焦った。吉田障子に貸した改造スタンガンは先頭の電極部分が長い針状となっており、ちょうどテーザー銃のように、体内から感電させることが可能となっていたのだ。もしも人に向ければ相手を死なせてしまう可能性が高く、そんな危険なものを簡単に貸してしまった自分の愚かさを呪いながら、春雄は握り締めた拳を顎の前に構えた。

「大丈夫だって、あの女は純粋で臆病な処女だ。自分を守ることすらもままならない」

「なら、なんで……!」

「なぁその前に一ついいか」

「ああ?」

「春雄クン、お前さ、なんか余計なことを考えてない?」

 山田春雄の背筋が凍り付く。真下から覗き込むようにして見開かれた吉田障子の目にポッカリと穴が空いているように見えたのだ。その暗く冷たい瞳には底が見えなかった。

「俺を怒らすような真似だけはするなよ」

 そう声を低くした吉田障子は、春雄の縦長の顔を舐め回すように瞳を動かすと、後ろを振り返った。

 忙しかったのだ。彼は焦っていた。だが、それでも彼は冷静に、役者たちの動きを計算し続けた。

「おいキザキ」

「なんだ」

「明日の二十時以降に、山麓の証拠を郵送しろ」

「何処に」

「国税局に決まってんだろ」

「別にいいが、なぜ時間まで指定する」

「明日に動かれちゃ不味いからだ」

「奴らはそんなに早くは動かん。先ずはリークされた情報が正しいかどうかを確かめる為に忍び足になる筈だ」

「通常ならな。だが、既に動いている場合はどうだ。心霊学会が怪しいと国税局は情報集めに血眼になっている。リークされた証拠を確信と捉えて、獲物を逃さぬようにとすぐにでも動き出す可能性がある。その万が一が起きても構わないよう、郵送の時刻を調整するんだ」

 そう言った吉田障子は頭を掻いた。

 忙しい、忙しい──。

 だが、それでも彼に憂いはなく、何もかも上手くいくと左頬に指を当てた吉田障子は、その冬の夜空のように冷え切った瞳で舞台役者たちを見渡した。もうすぐコイツらも必要なくなると。やっと平穏で可憐な小さな世界に戻れると。

 そうして、何やら鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに肩の力を抜いた彼は、腫れぼったい瞼を退屈そうに閉じた陰気な男からコーヒーを受け取った。


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