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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章
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見えない影


 睦月花子は頬を伝う赤い血を親指で弾いた。

 後頭部から目元を押さえるようにして白い布は巻き付けてあるものの、先ほど村田みどりに潰された両眼から滲み落ちる鮮血は止まってくれない。ここが学校で良かったと、花子は完全なる漆黒の校舎に耳を澄ませた。

 壁伝いに一歩一歩、ヤナギの霊の見えない影を追いながら、暗闇を慎重に彷徨い歩いていく。花子の警戒はヤナギの霊にのみ向けられているわけではない。およそ人の情を持ち合わせていないのは元傭兵だという荻野新平も同じで、この1979年の校舎において、両眼の潰された自分を目にした荻野新平が次にどのような行動に移るかは安易に想像が出来た。視力がない状態で荻野新平の放つ銃弾を避けられる筈もなく、彼と出会ったときが自分の最後だろうと、花子は唇を濡らす血を舐めながら自嘲気味に笑った。

 ゆっくりと一階の校舎を進んでいった花子は、記憶の通りに少し折れ曲がった廊下を壁沿いに歩くと、旧校舎の乾いた空気を胸一杯に吸い込んだ。古びた校舎には足音がよく響き、建て付けの悪い窓ガラスは触れるとカタカタとした音が鳴る。だが、他に突筆すべきような音はなく、理科室から旧校舎までの道のりは異様に静かだった。まさか自分だけがまた別の時間に飛ばされたのではあるまいか。そんな想像に僅かな焦りを感じた花子は周囲の音に警戒しつつも足を急がせた。前へ前へ。凸凹とした木造の廊下が軋んだ音を立てる。

 そうして、何やら記憶のものよりも長い廊下に違和感を覚えつつ、旧校舎の端に近付いていった花子の耳に微かな話し声が届いた。ヒソヒソとしたそれは少年の声のようで「田川明彦?」と顔を上げた花子の額に壁のような何かがぶち当たる。眼孔を抉られるような激痛。怒りを爆発させた花子は鋼鉄のように硬い拳を大きく振りかぶった。



 大広間のグラウンド側の扉が弾け飛ぶと、木崎隆明は肩を跳ね上がらせた。

 表情こそ変えなかったものの、その腫れぼったい目を大きく見開いた木崎隆明は、破壊された扉の向こうに立っていた小柄な女生徒に息を呑んだ。様相が異常だったのだ。目元に包帯を巻きつけた女生徒の頬と右腕は垂れ落ちる血に赤く染められてしまっており、その手足には青黒い血管が浮かび上がっている。薄い唇から漏れる吐息は野獣のようで、女生徒の足がドシンと旧校舎の大広間の床を踏み締めると、のそりと腰を上げた木崎は、未だに半裸のままの橋下里香と木剣を斜め下に構えた田中太郎の前で、両手を前に構えた。

「田川明彦おおぉ……!」

「あ、あんた、大丈夫か?」

「……はあん?」

「その怪我、なんて酷い……。まさかあんたも、あいつにやられたんじゃ……」

「いや、アンタ誰よ」

 睦月花子は肩の力を抜くと、木崎隆明が立っている広間の中央付近に向かって首を傾げた。目元の白い布はちょうど眼孔の辺りが赤黒く凹んでおり、制服の袖から覗く右腕の傷と太ももに巻かれた包帯が痛々しい。そんな血塗れの花子を正面に見据えた木崎は表情を変えずとも激しく動揺してしまい、だが、当の花子はといえば、何事もないかのような態度で腕を組んでしまうのだった。

「あ、あのさ、ほんとに大丈夫なのか?」

「何がよ」

「何がって、その目……。あんたのその酷い怪我の話だ」

「はん、この程度ね、死にかけてた前回と比べりゃ屁でもないっつの」

「前回?」

「てか、アンタってマジで誰なの? 一年D組の生徒とか?」

「俺は、うん、一年D組の木崎」

「木崎って、まさかアンタ、木崎隆明?」

「そうだけど」

「へぇ、じゃあアンタが悲劇のヒーローなのね」

 そう呟いた花子は興味深げに首を傾げると、血に濡れた顎を親指で撫でた。

 木崎は何だかよく分からず、取り敢えずここにいる皆んなをすぐにでも保健室に連れていくべきだろうと、斜め後ろに立っていた田中太郎の右手を横目に振り返った。

「つーか、ここっていったい何なのよ。やたら声が通るけど、随分と広い場所なんじゃないの?」

「ここは旧校舎だよ。演劇部の部室」

「演劇部の部室って、あの広間か。ふーん、見えないからよく分かんないけど、広間って校舎から一本道で繋がってたっけ。ああ、それとも、さっき私がぶつかったのって旧校舎の壁だったのかしら」

 先ほどの衝撃を思い出した花子は、まだズキズキと痛む額に皺を寄せると、見えない背後を振り返った。旧校舎の内装はよく覚えているつもりで、壁沿いに進めばまず初めに階段にたどり着くはずだったのだ。まさか頭をぶつける事になるとは思ってもみなかった。

「いや、あんたがぶつかったのはグラウンド側の廊下の扉だよ。ぶつかったっていうか、吹っ飛ばしたって感じだったけど」

「グラウンド側の廊下?」

「先生が閉めろって何時もうるさいから、そこからこの広間に入るときは皆んな癖で扉を閉めちゃうんだ」

「そこからって何よ、まさか他にもこの広間に入れるルートがあるってこと?」

「中庭沿いの渡り廊下からとか、二階の階段からとか。あ、でも何処も扉がついてるから、目が見えないと危険かも」

 花子はポカンと口を開けたまま見えない広間を見渡した。花子たちの時代である2014年においてはこの旧校舎の広間へと続く道は一つしか存在せず、それは時が止まった夜の校舎においても同じだった。何故か旧校舎の内装が変わってしまっていると、いや、この時代においてはそういう内装をしていたのかと、好奇心が刺激された花子は目が見えない現状を悔やみ始めた。

「そうかアンタ、“隻腕の赤鬼”だな」

 聞き覚えのある声が花子の耳に届く。腰に手を当てた花子は、スクエアメガネを鼻の上でズラした長身の男を頭に思い浮かべながら、声のする方向を振り返った。

「たく憂炎、アンタね、居るなら居るってさっさと言いなさいよ」

「おい“赤鬼”、俺たちは姫の行方を追うのに忙しいんだ。悪いが、お前の相手をしてやっている暇はない」

「はあん?」

「まぁ、どうしてもというのであれば、この“デュランダル”の砥石代わりにしてやらんこともないがな」

「いや何言ってんの、アンタ」

「さぁ、そこをどけ! “赤鬼”!」

 田中太郎はそう叫ぶと、木剣を上段に構えながら「うおおおおお」という雄叫びを上げ始めた。その様子に木崎隆明は唖然とするばかりで、先ほどの田中太郎の勇姿を思い出した花子は、目が見えないながらも、全てを察したようにため息をついた。

 


 家庭科室にはコーヒーの薫りが漂っていた。三階の校舎の端は西日に明るく、サイフォンが窓辺の席で真夏の青い陽光を透かしている。

 “人形”たちの足音は聞こえてこなかった。素早く周囲を見渡した荻野新平は家庭科室の扉を音もなく閉じると、彼にしがみ付いて離れない中間ツグミの濡れたような瞳を冷たく見下ろす。そうして、新平は慣れた手つきで、腰のホルスターから自動式拳銃を引き抜いた。

「離れろ」

 中間ツグミは視線を動かさない。その瞳には縋りつくような熱が込められており、怒りの表情をみせた新平はグロッグ17の銃口を彼女の額に突きつけた。

「撃たれたいか」

「はい……」

 中間ツグミの唇が微かに震える。だが、彼女の視線は一向に動かず、その上目遣いの瞳に映るものは新平の姿のみであった。

 新平は目を細めた。彼もまた視線を動かせなくなってしまったのだ。激しい怒りの炎が胸のうちを渦巻き、そして、それを飲み込むような熱情の波が彼の呼吸を乱した。彼女の濡れたような瞳から目が離せない。彼女の震える唇から顔を背けられない。彼女の肢体から溢れる若々しい熱から逃れられない。

 新平は奥歯を噛み締めると、中間ツグミの唇にそっと唇を重ね合わせた。熱と熱が通い合う。熱に溶けた感情が肉体を弛緩させる。だが、まだうら若い中間ツグミとは違い、荻野新平は冷静だった。やっと彼女から視線を外すことに成功した新平は、自動式拳銃を腰のホルスターに仕舞うと、彼女の頬に手を当てながら彼女の体を床に突き放した。

「次は本当に撃つぞ」

「はい……」

「冗談ではない」

「分かっています……。ですが、その時はどうか、新平さんの腕の中で……」

 ゆらりと腰を上げたツグミの唇が横に広がる。その瞳の光は、うっすらと暗闇を照らす蝋燭の灯火よりも不安定で、嫋やかで、妖しかった。彼女の妖艶な微笑はもはや実年齢とは釣り合っていないようで、このままでは不味いと、新平は窓辺のサイフォンを横目に額の汗を拭った。橙色の炎の影。フラスコの中の水は泡立っており、一度火を止めてロートを上に差し込めば、すぐにでもコーヒーは仕上がりそうである。ただ、水を沸かしたのみのサイフォンは透明なままで、いったい何処からコーヒーの薫りが漂ってくるのか、新平には分からなかった。

 廊下から微かな足音が響いてくる。

 果たしてそれがヤナギの霊であれば、自分は迷いなくその眉間を撃ち抜けるだろうか。

 作業着の内から黒色のリボルバーを取り出した新平は、そんな自問に深く息を吐きながら、家庭科室の扉に向かって銃口を構えた。

 

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