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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章

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記憶


「アンタは大人しく寝てなさい!」

 睦月花子はそう叫ぶと、薄い保健室の扉を廊下に振り下ろした。

 ヒュンと風を切る速度で天井を掠めた扉が白い布を叩き落とす。それでも理科室から無数に伸びる白い布の全ては対処し切れず、薄い扉を投げ捨てた花子は、理科室と保健室に挟まれた美術室の壁に指をめり込ませた。そうして、額に青黒い血管を浮かばせた花子は、厚いコンクリートの壁を手前に引いた。



「逃げて! 皆んな、早く逃げて!」

 校舎が裂けるような轟音と共に美術室の壁が倒壊する。同時に、1年D組の担任である高野真由美は金切り声を上げた。

 いったい何が起こったのかと、砂煙の舞う廊下で暫し呆然と立ち竦んでいた生徒たちは、担任の絶叫を掻き消すような花子の怒鳴り声を耳にしてやっと、転がるようにして駆け出した。重なり合う悲鳴と怒号。激しい恐怖にへたり込んでしまった女生徒の腕を男子生徒が掴み上げる。

「貴方たちも、早くっ!」

 生徒たちの大半が走り去ると、高野真由美は、廊下に座り込んでいた八田英一に向かって腕を伸ばした。だが、八田英一はいつ迄も地蔵のように動かぬままで、手を上げようとする素振りすら見せない。微かに首を振った八田英一は精一杯の笑顔を口元に浮かべると、高野真由美に向かって疲れ切ったような声を出した。

「行ってください」

「な、何を言ってるんですか! さぁ、早く立って!」

「この子たちを置いてはいけない」

「あ……」

 高野真由美は言葉を失った。八田英一の背後で横になっていた大野木詩織と大久保莉音の凄惨な傷跡にやっと気が付いたのだ。

 それは見るに堪えない状態だった。片腕のない大野木詩織の顔はマネキンのように血の気がなく、顔の上半分が包帯で覆われた大久保莉音はまるで死んでいるかのように呼吸が浅い。息も絶え絶えな二人が自力で立ち上がれる筈もなく、八田英一は諦めたように首を振るばかりだった。

 昇降口前には他にも見覚えのない三人の男女がいた。だが、彼らは一様に表情が虚ろで、下駄箱に向かって長い棒のような物を振り回し続ける背の高い少年などは、もはや常軌を逸しているようにしか見えない。とてもじゃないが助けを求めれるような状態ではなく、むしろ彼らは助けを必要としている側にすら思えた。

「さぁ、行ってください」

 そう言って八田英一は微笑んだ。砂塵の舞う理科室の方からは絶え間ない衝撃音が響いてきており、鬼のような女の怒声が校舎を震わせ続けている。

「我々は大丈夫です。ですから早く逃……」

 八田英一の言葉が途切れる。左頬に衝撃が走ったのだ。その鋭い音が眠り掛けていた彼の脳を震わせると、驚いて微笑むのを止めた八田英一は、荒い呼吸を繰り返す高野真由美の右手を呆然と見上げた。

「立て! 貴方も教師でしょ!」

 まるで思春期の少女のような金切り声だった。だが、その感情の重みに八田英一の表情が固まってしまう。グッと息を止めた八田英一は血が滲むほど強く下唇を噛み締めると頬を両手で叩いた。

「小野寺くん達も手伝って!」

 そう叫んだ高野真由美は、廊下に横たわっていた大野木詩織の元に駆け寄った。八田英一も慌てたように、大久保莉音の体を抱き上げる。

 高野真由美はかなり取り乱している様子だった。必死に顔を赤らめるも、同じくらいの背丈の大野木詩織の体は中々抱き上げられないようで、「小野寺くん!」と再び叫んだ彼女は、昇降口の前に残っていた三人の男子生徒を振り返った。

「早くして!」

「あー、じゃあ俺たち、あちらのお姉さんを運びますね」

 それは何処か間の抜けた声だった。

 小野寺くんと呼ばれたその男子生徒はかなり長身で、広い肩まで伸びた彼の長髪に隠れるようにして、二人の少年が腕を組んでいる。彼らの視線は、下駄箱の前で項垂れていた橋下里香に向けられているようだった。

「こっちを手伝ってって言ってるの!」

「いや先生、あのお姉さんも助けが必要でしょ?」

「そ、そんな、言い合いしてる場合じゃないでしょ! 小野寺くん、とにかく早くして!」

「あー、はいはい。おい高瀬、先生を手伝ってやれ」

 小野寺文久はそう頭を掻くと、左隣に立っていた坊主頭の男子生徒の背中を叩いた。長身の彼はこの状況に何ら憂いを感じていない様子で、その切れ長の目には余裕すら見えるほどだった。まるで品定めでもするかのような視線。橋下里香のはだけた胸元を見下ろす小野寺文久の表情には品がなく、彼の長い指が橋下里香の首筋に伸ばされると、八田英一はカッと額に青筋を立てた。

「君!」

 だが、その声は響かなかった。拳大のコンクリートの破片が八田英一の耳元を掠めたのだ。慌てて身を屈めた英一は、腕に抱き抱えていた大久保莉音の体を守るようにして背中を丸めた。

「に、逃げろ!」

 保健室の壁に亀裂が走る。理科室から聞こえてくる花子の怒号は止まない。

 砂塵を漂う無数の白い布は海を泳ぐクラゲの触手のようで、岩が雪崩れるような轟音が校舎を揺らし始めると、八田英一は慌てて大久保莉音の体を抱き上げた。高野真由美と坊主頭の男子生徒も必死になって大野木詩織の体を引き摺っていく。

「早く逃げろ!」

 そんな怒鳴り声はどこ吹く風に、小柄な橋下里香の体を軽々と担ぎ上げた小野寺文久は旧校舎に向かって歩き始めた。まるで朝の散歩でも楽しむかのように。彼の取り巻きである男子生徒の一人もその後に続く。

 ゆったりと歩き去っていく彼らの姿に八田英一は気が付かなかった。土間に座り込んだまま動こうとしない田川明彦の腕を引っ張るのに夢中だったのだ。

 ただ、一つだけ、彼らの影を掴んで離さない視線があった。

「勇者殿……」

 そうボソリと呟いた田中太郎は、粗末な木剣を下段に構えると、1979年の旧校舎に向かっていった小野寺文久の跡を追い掛けた。



 白い布が理科室を舞う。赤い糸が天井を覆う。

 その動きは洗練されたダンスミュージカルのようで、赤い糸が縫われた無数の白い布は一人の女生徒の元に統制が取れているようだった。ただ、それらは出所がよく分からず、何もない空間から突如として現れたような白い布を捉え切るのは至難だった。

 睦月花子は面倒臭そうに理科室を見渡した。その右手には先ほど引き剥がした理科室の扉が握られており、既に彼女の体には白い布が幾重にも巻き付いている。

「たく、なんだっつーのよ」

 ゴキリと首の骨を鳴らした花子は何事もないかのように、右腕を締め付ける白い布ごと理科室の扉を振り上げた。そうして、ダンッと足を踏み出した花子の体から白い布が引き離されていく。それは何ものにも止めることの出来ない鬼の力だった。

「覚悟なさい」

 無数の白い布が花子の前方を塞ぐ。だが、花子は止まらない。鬼の歩みは止めることが出来ない。

 振り下ろされた理科室の扉が初夏の日差しを切り裂いていった。校舎中に響き渡る鬼の怒号。集まった白い布は無惨にも引き裂かれ、そのままの勢いで下ろされた扉に黒い実験台が叩き潰される。その衝撃音に窓辺にいた山本千代子は足を震わせた。

 黒い女生徒は怯えていたのだ。花子のことが怖くて怖くて仕方なかった。鬼の額に浮かんだ血管が窓からの青い陽光に照らされると、わあっと身を屈めた山本千代子は転がるようにして駆け出した。

「待ちなさい!」

 花子の視線が山本千代子の黒い背中を追う。その超人的な腕力で真後ろの実験台を引き剥がした花子は、それを出入り口に向かって放り投げた。実験台の根本が千代子の頭を掠める。凄まじい衝撃音と共に理科室の出入り口が破壊されると、むしろ逃げる隙間は大きくなってしまったが、激しい恐怖に支配された千代子は足を止めてしまうのだった。そうして鬼の手が肩に触れると、千代子は取り乱したように腕をぶんぶんと振り回し始めた。

「さーて、どう料理してあげようかしらね」

 花子の薄い唇が横に裂けていく。その腕力は常人のそれとは比較にならず、千代子はすぐに体が動かせなくなった。

「あらぁ? なーによ、もうすっかり料理されちゃってんじゃないのよ。じゃあこのままガブリといっちゃいますか」

 白い布が幾重にも花子の体に巻き付いていく。だが、既に満身創痍だった前回とは違い、花子の鋼の肉体にそれは無意味に等しい。千代子には為す術がなく、ただジッと恐怖に震えながら、鬼の瞳を睨み返すことしか出来なかった。

 そんな彼女の黒い頰を見下ろしていた花子の胸にふとした疑問が浮かび上がる。ニヤニヤとした笑いを止めた花子はギロリと目を細めると、千代子の乾いた瞳を覗き込んだ。

「アンタ、なんで私のこと覚えてんの?」

 千代子は首を動かせない。一人目のヤナギの霊である彼女は瞳すらも動かせず、ただただ、その小さな黒い肩を震わせ続けた。

「前のこと覚えてんでしょ? そんなにビビって、アンタ、まさか……」

 花子の眉が怪訝そうに顰められていく。まさか、と思ったのだ。まさかコイツも単なる被害者なのではないか、と。

 そう思った花子は腕の力を緩めた。

「まさか、アンタもここを彷徨い続けてるだけって、オチじゃないでしょーね……?」

「き、記憶っ──」

 花子は目を見開いた。それは予想だにもしない出来事だった。

 黒い女生徒の唇の奥が青い陽に照らされる。その小さな舌がチロチロとした動きを見せる。

「記憶っ──」

「ア、アンタって、喋れて……」


 ──。


 花子は言葉を止めた。微かな少女の息遣いを耳にしたのだ。


 みっけ──。


 誰かが廊下に立っている。誰かが此方を見つめている。

 それは人の気配だった。破壊された扉の向こうに誰かの影があった。

 いったい誰だ、と花子はそっと視線を持ち上げた。

「しまっ──」

 言葉が途切れる。いや、呼吸が止まる。

 扉の前に立っていたのは太った少女だった。それはまさに「醜い」といった形容詞がよく似合う少女で、ボサボサの髪に目は覆い隠され、ぶよぶよと丸まった腕には青あざが目立ち、そして、それ以上の特徴は掴むことが出来なかった。

 静寂が訪れる。ひどく、ゆったりとした静寂が。

 時間の流れがやけに遅い。

 そっと手を持ち上げた花子は、潰された両眼から滴り落ちる鮮血を指で撫でた。


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