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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章
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永久の時


 それは突然の出来事だった。

 一階の廊下の窓を振り返った睦月花子の瞳に初夏の晴天が飛び込んできたのだ。今や校舎は午前中の青い光に包まれており、睦月花子は赤い糸で目と口が塞がれた人形を片手に、校舎全体を震わせるような雄叫びを上げた。

「やったわよ、憂炎! だーから言ったじゃないのよ! 人形と音楽こそが謎を解く鍵だってね!」

 花子の高らかな笑い声が明るい夏の校舎に響き渡る。廊下にはクラシックピアノの滑らかな旋律が流れており、壁際には生後間もない赤ん坊ほど大きさの人形がズラリと並んでいた。

 夜の校舎を彷徨い続けること幾日か後──睦月花子の感覚で一ヶ月、姫宮玲華の感覚で千四百年──の出来事である。

「はー、いい天気だわ。太陽の光ってほんっと最高ね。最っ高の散歩日和よ。やっぱ人間には太陽が必要なのよ。もー、夜空なんて懲りっ懲りだわ」

 そう言った花子は大きく深呼吸をすると、ちょうど昇降口前の段差に座り込んでいた田中太郎の額に向かって人形を放り投げた。だが、人形が額にぶつかろうとも田中太郎は一切の反応を見せず、まるで魂が抜けてしまったかのような表情で、ドアの向こうに見える校庭の風景を眺め続けるのだった。田中太郎と膝を合わせるようにして座っていた田川明彦も同様で、クラシックの音楽を流すために放送室へと向かった姫宮玲華、荻野新平、中間ツグミ、水口誠也の四人を除いた七人の中で、夏の陽光に無邪気な声を上げたのは睦月花子ただ一人だった。

「ちょっと憂炎、アンタ、なーにを黙りこくっちゃってんのよ?」

 睦月花子がチョップを喰らわせる。だが、憂炎こと田中太郎はといえば「……ぅ」と微かな吐息を漏らしたのみで、花子と目を合わせようともしない。田川明彦の虚ろな瞳にも花子の姿は映っておらず、廊下に大の字に寝転がっていた心霊学会幹部候補生の橋下里香などは、はだけたブラウスの胸元から覗くシルバーグレーのブラジャーを隠そうともしない。大野木詩織と大久保莉音の間に挟まるようにして二人の手を握りしめていた八田英一のみが、ほんの僅かに正常な精神を保っているようだった。

「やぁ花子さん、おはよう」

「おはようじゃないっつの。たく、さっさとここから出るわよ」

「ああ、そうだったね。それで、出られるようにはなったのかい?」

 そう言った八田英一が窓の向こうにそっと目を細めると、花子は試しに転がっていた人形の一つをドアに向かって放り投げてみた。軽い手縫いの人形が弾丸のような速度でドアのガラスに衝突する。だが、まるで衝撃が吸収されたように空中で動きを止めた人形は、何の音を立てる事もなく土間に落ちてしまうのだった。

「ダメね」

「そうか」

 八田英一の視線が落ちる。息も絶え絶えな大野木詩織が微かに瞼を開くと、それに気が付いた八田英一は無理やり笑顔を作ってみせた。軽快なクラシックピアノの音色。ラヴェルの水の戯れが大野木詩織の呼吸のリズムと重なる。初夏の早朝をイメージさせる旋律だ。未だ校舎は静寂に包まれている。

 花子は人形の一つを手にとった。クリーム色に近いその手編みの人形は手足の長さが不揃いで、無理やり詰められたような綿に、お腹の部分がはち切れそうだった。毛糸の編み方も雑で、ただ、目と口の部分にのみ、赤いナイロンの糸が念入りに縫われてある。

 この人形にも何か意味があるのだろう。それが三人目のヤナギの霊である村田みどりの記憶を覗き込んだ姫宮玲華の意見だった。1979年の七月十日に一年D組の生徒たちを夜の校舎へと誘ったヤナギの霊は、それでも、その当時の王子だった木崎隆明という幼馴染の少年のみは救うつもりだったという。彼が外に出られるようにと、ヤナギの霊だった村田みどりは、この校舎から脱出出来るルートを一つだけ残しておいたそうなのだ。

「どうしてそんな回りくどいことすんのよ」と花子が鼻を鳴らすと、姫宮玲華は哀しげな表情で「遊びの一貫だったのだろう」と肩を落とした。知恵の遅れていた村田みどりは善悪の観念に疎かったそうだ。

「ねぇ憂炎、アンタはどう思う」

 窓からの陽が人形を照らす。その不細工な頭を愛おしそうに撫でた花子は「ねぇ?」と田中太郎を振り返った。だが、いつ迄も呆けたように校庭を眺め続ける田中太郎は一向に返事をせず、イライラと腕に血管を浮かばせた花子は、彼の後頭部を目掛けて人形を放り投げ付けた。否、弾丸のような速度で。

「ぐあっ」

 柔らかな人形の衝撃に前のめりとなった田中太郎は大きく息を吐き出した。そうして、はっと辺りを見渡した田中太郎は初夏の校舎の眩しさに目を細める。だが、その口から次の言葉が発せられることはなく、よっこらせ、といった様子で土間と廊下の段差に腰掛けた田中太郎は再び外の景色に惚けてしまうのだった。

「コラァ! 憂炎このドアホ! いっつまでもボケっとしてんじゃないわよ!」

 花子の鉄拳が振り下ろされる。一瞬、意識を飛ばした田中太郎はまた、はっと目を見開くと、やっと花子と視線を合わせた。

「ぶ、部長か……?」

「部長か、じゃないっつの! さっさと人形の謎といて、この夜の校舎ともおさらばするわよ!」

「はぁ……?」

「たく、夏休みは南極横断する予定だったってのに、もーしも夏休みが終わっちゃってたら、アンタ、どう責任取るつもりよ!」

「いや……、おい……」

 田中太郎は暫し呆然とした表情で動きを止めてしまった。やがて肩を落とした太郎は「くっく……」と固まっていた頬を緩めると「あっはっはっ……!」と高らかな笑い声を上げ始めるのだった。

「ぶ、部長っ……! くっ……! あっはははっ……! くっくっくっ、あっはっはっはっ……! アンタって奴ぁほんと、昔のまんまだなっ、おいっ……!」

 これには流石の花子もドン引きしてしまう。

 腹を抱えて爆笑する田中太郎の瞳は依然として虚ろなままで、その乾いた咳のような笑い声は溝川のせせらぎのように校舎には響かなかった。

 しばらく壊れたエルモ人形のように笑い続けていた田中太郎はおもむろに立ち上がると、その場でストレッチを始めた。そうして、いつかの美術室で作った木剣を振り上げた田中太郎は「お前が次のドラゴンか……!」と盛大な声を上げながら、昇降口に並んだ下駄箱に飛び掛かっていった。

「ダメみたいね」

 田中太郎が下駄箱を相手に死闘を繰り広げ始めると、その様子を眺めていた花子は彼を憐れむように肩を落とした。



 三階の放送室前は騒然としていた。

 黒色のリボルバーを斜め下に構えた荻野新平が音もなく廊下に飛び出していくと、中間ツグミは慌てて彼の後を追い掛けた。マイクの前で呆然と立ち竦んでいた姫宮玲華と水口誠也はゆっくりと顔を見合わせる。

「せ、成功……?」

「うん……」

 深い、深い、安堵の吐息が淡い光に呑まれていく。扉の向こうは初夏の日差しに眩しかった。校舎をゆったりと流れるクラシックピアノの旋律は遠い記憶の景色のようで、その音色に混じる複数の生徒の叫び声は、もはや二人の耳に届いてはいなかった。

「やっと、やっと、やっと、やっとだ……。これで、やっと、終わったんだね……」

「うん……。これで、やっと、王子に会えるよ……」

 二人の視線が重なり合う。幾千もの時を越えた──水口誠也の感覚で四十八年──二人の容姿はそれでもいつ迄も若々しいままで、だが、その瞳は、降り積もる枯れ葉の影で雨露をしのぐ苔まみれの石のように、時の流れから置き去りにされてしまっていた。

「ねぇ玲華ちゃん、俺さ、ずっと、ずっと、ずっーと、言おうと思ってたことがあるんだ……」

「何かな……」

「結婚してくれないか……」

「え……?」

「俺と、結婚しよう……!」

 姫宮玲華の漆黒の瞳がほんの僅かな広がりをみせる。水口誠也の表情は何処までも達観しているようで、ただ、その細められた目は真剣そのものだった。

「玲華ちゃん、俺と一緒に、幸せになろう……!」

「ええっと……」

「俺なら君を幸せに出来る……! 俺たち二人なら絶対に幸せになれる……! 二人でここを抜け出して、そして、幸せな家庭を築き上げよう……!」

「無理かな……」

 水口誠也の瞳に失望の影が走る。その愕然とした表情は、それでも、道端で風化した地蔵のように感情が見えづらかった。

「ど、どうしてだい……?」

「どうしてって……」

 姫宮玲華の足が一歩後ろに下がる。そのほっそりとした肢体に手を伸ばそうと、水口誠也は目を細めたまま体を前に倒した。

「玲華ちゃんを幸せに出来るのは、俺だけさ……! 俺たちは幸せにならなきゃならないんだ……! なのに、どうして……!」

「だって君、変態じゃん……」

 そう言った姫宮玲華は侮蔑するような目つきで唇を結んだ。白いセーラー服姿の水口誠也はキョトンとした表情で立ち止まってしまう。その右手には、何処から持ってきたのか、女生徒の名前が書かれたリコーダーが握り締められており、「それ、ちゃんと洗ってから返してね」と姫宮玲華は嫌悪感を隠そうとしなかった。

「俺が、変態……?」

「変態だよ」

「馬鹿な……! 俺は天才だよ……! もし変態だったとして、それは天才という名の変態だよ……!」

「うん、ほんと気持ち悪いから、それ以上近づかないで」

 放送室の出口に向かって姫宮玲華の体が下がっていく。その宝石のような赤い唇に吸い寄せられるように、水口誠也の足がのそりのそりと前に進んでいった。

 放送室の前を誰かが走り去る。その気配にほんの一瞬姫宮玲華の意識が奪われると、その隙を逃すまいと前に飛び出した水口誠也は彼女の手をギュッと握り締めた。

「玲華ちゃん……!」

「dégoûtant」

 玲華の漆黒の瞳が水口誠也の瞳を射抜く。すると、ぐるりと白目をむいた水口誠也は脱力したように腕を下げた。つっと粘り気のない唾液が彼の顎を伝う。夢見心地な表情である。姫宮玲華が人差し指を伸ばすと、水口誠也の手足がカクカクとした動きを始めた。そうして、姫宮玲華の「aller」という呟きと共に、軽く敬礼のポーズをとった水口誠也の体が前に進み始める。まるでマリオネットのような。その後を続く姫宮玲華の瞳は氷層を流れる青い水のように涼冷としていた。

 あまりにも長い、永久の時の流れの果てに、姫宮玲華は魔女としての記憶と力を取り戻していた。



 

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