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王子の苦悩  作者: 忍野木しか
第三章
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生徒たちの声


 混乱の最中にあったのは心道霊法学会の信者たちだった。

 ちょうど山の麓に位置する本殿を訪れた彼らは大理石の床に跪くと、白い上下の衣を乱さぬようにそっと両手を合わせた。震える声が本殿を木霊する。祓え給え、祓え給え──。その大半はかつての集団失踪事件の被害者の親族たちであり、戻らぬ子供たちを諦めた彼らが望むものは心の平穏であった。

 心道霊法学会の幹部たちもまた渦中にある。ただ、幹部たちの憂いは信者たちのそれとは対照的で、再び集団失踪が起こったであろう富士峰高校への恐怖と、同僚を含む失踪者たちへの憂いは当然胸に渦巻いていたが、そんな事よりも彼らは日常の不穏に対する焦燥感に駆られていた。

「荻野新平の行方はまだ分からんのか」

 橋田徹は爪を噛みたい衝動を懸命に堪えていた。彼の前には白いフードを被った幹部候補生たちが項垂れており、本殿の四階は走り回る同僚たちの声に騒がしかった。

「荻野様の自宅は十八日の夜から放置されているようで、職場にも顔を出していないとの事です。やはり荻野様も“神隠し”に巻き込まれたのではないかと……」

 幹部候補生の一人が顔を上げる。彼らは失踪事件を“神隠し”という隠語で呼んでいた。

「あの男が巻き込まれるとは思えん。他の失踪者の影に紛れて何処かに潜んでいる可能性がある」

「それは……」

 何故そう思われるのでしょうか、と幹部候補生の瞳に困惑の色が浮かんだ。だが、口には出せず、長身の彼の黒いスーツを見上げるばかりである。橋田徹と荻野新平の確執は学会内では有名な話だった。

 幹部候補生たちが動き出すと、橋田徹は親指の爪を噛み締めた。その表情には普段の冷徹さが見えず、やってくれたな、と彼は行方が分からない荻野新平への怒りに血が沸騰しそうな思いだった。

「あの橋田様、記者だとおっしゃる方がまた……」

 幹部の新田彩加がおずおずと頭を下げる。大学を卒業したばかりだという彼女はまだ幹部に成り立てで、何かあるたびに橋田徹のリーダーシップを頼っていた。その容姿は立華瓶の草花のような。心霊学会幹部の女性たちは皆、うら若く、美しく、ただそれだけの存在だった。

 それでも橋田徹は彼女たちを邪険には扱わなかった。彼女たちの存在が学会には必要だったからだ。それはあたかも信者たちと接するかのように、優しげな微笑みで、彼女たちの頼みを聞いてあげるのだった。普段の彼であれば。

「追い返せ」

 橋田徹はイライラと頭を掻いた。そんな普段とは違った彼の様子に新田彩加は青ざめてしまう。どうすれば良いのか分からなくなった彼女はその場でモジモジと手をこまねいた。

「橋田くん、不味いよ」

 肩を丸めて立ち竦んでいた新田彩加を押し退けるようにして、古参の幹部の一人である吉崎文弘が、橋田徹の元に歩み寄った。

「平和党の藤田泰三だよ。あの爺さんが学校に乗り込んだんだ」

 吉崎文弘はそう焦ったように、脂ぎった鼻の頭をヒクヒクと動かしてみせる。

「最近、日創会の動きが騒がしかったのはそのせいでしたか」

「いや、日創会は別の件らしい、なんでも折伏がどうのこうのと……。て、そんな話はどうでもいいのさ、問題はあの爺さんだよ、孫がイジメの被害に遭ってるとかで、酷くご立腹なんだと。藤田泰三が動けばマスコミも教育委員会も黙っちゃいないぞ。もう此方にも飛び火が来てる」

「荻野の件ですか」

「そうだよ。しかもあの野郎、よりにもよって女生徒の顔をぶん殴りやがったとか。クソ野郎め、女を殴んのはベッドの上だけにしろよな」

 吉崎文弘がそう言葉を吐き捨てると、彼の背後に控えるようにして俯いていた新田彩加がビクッと肩を震わせた。橋田徹は思わず嫌悪感に奥歯を噛み締めるも、今はそんな場合ではないと、新田彩加に向かって記者を追い返すよう指示を出した。

「それにしてもタイミングが悪過ぎるよ」

 新田彩加が走り去ると、その後ろ姿を舐め回すように見つめていた吉崎文弘は僅かに声のトーンを落とした。

「まさか“神隠し”の起こったタイミングで議員殿が暴れ出すとは、荻野本人も消えちまうし、これじゃあマスコミの格好のネタさ」

「しかし、その荻野の件ですが、なぜ今まで問題に上がらなかったのでしょうか」

「なんでも殴られた生徒本人が黙ってたらしいんだ。怖かったんだと」

 吉崎文弘は生徒を憐れむような態度で肩を落とした。

 橋田徹はガチリと爪を噛み締める。まだ、教師や警察に相談されていた方がマシだった。そうすればマスコミが騒ぎ立てる前に内々に対処出来ていたのだ。だが、もはや荻野本人を処分するだけでは騒ぎは収まらない。聞くところによれば、イジメの加害者たちは心霊現象研究部という部活動に加入していたらしい。その名前の類似性だけでもマスコミを騒がすには十分な材料だった。

「あのぉ……」

 消え入りそうな声が喧騒の隙間を縫って橋田徹の耳に届いた。慌てて噛んでいた爪を手の中に吐き出した橋田徹は、それを隠すように手を背中に回すと、声のする方を振り返った。

「これはこれは増田さん、いったいどうしたのです?」

 橋田徹の顔に菩薩のような笑みが浮かび上がる。それは信者と接する際の表情だった。だが、内心は煮えたぎるような怒りに打ち震えており、勝手に本殿の上層に侵入した増田晶子という初老の女に対して、怒鳴りつけたい衝動を覚えていた。

「あのぉ……」

「あのですね、増田さん。何度も言うようですが、本殿二階の“校舎”より上の階層は非常に危険なエリアとなっているのです。元々、霊は天に向かって上がっていく性質を帯びておりまして、特にここ本殿は下の階層を守るために、近づく霊どもを上へ上へと運ぶよう創られているのです。当然、貴方ほどのお人であれば、その程度のことはご存じですよね?」

「へぇ、それはもう……。ですが、あのぉ……」

「なんですか、増田さん?」

「声が……」

「声?」

「声が、聞こえとるのです……。あの子らの声が、助けてぇ、助けてぇって、いつまでも止まんのです……」

 増田晶子はそう言って耳を押さえた。その実年齢よりも老いて見える顔は能面のようで、だが、彼女の乾いた唇の震えが、胸の内で限界にまで膨らんだ恐怖を表していた。

「大丈夫ですよ、増田さん。ここに居れば何の問題もありません」

 橋田徹は普段よりも大きな声で増田晶子を励ました。彼女には精神病院の通院歴があったのだ。初めての通院は学生時代の事らしい。消えた生徒たちの声が聞こえると、消えた生徒たちが壁を叩く音が聞こえると、授業中に発狂したのだ。それは、彼女一人の症状ではなかった。富士峰高校においての生徒集団発狂現象は一時マスメディアを盛り上げ、そして、時と共に忘れ去られていった。だが、当時の生徒たちは歳を重ねてもなお子供たちの声に苦しめられており、その大半が心道霊法学会の信者となっているのだった。

「大丈夫です、大丈夫ですよ。さぁ増田さん、一緒に“祈りの間”へと向かいましょう、大丈夫ですから」

 橋田徹はそう言って「祓え給え」と両手を合わせた。増田晶子も同じように「祓え給えぇ……、祓え給えぇ……」と声を絞り出す。

 増田晶子が下の階層に向かい始めると、騒がしい同僚たちを振り返った橋田徹は、四階の白い絨毯を這いずり回る薄い影に何やら不穏な気配を覚えた。

 


 何かがおかしい、と“火龍炎”の参謀である長谷部幸平は前髪を引っ張った。どうにも“苦獰天”との抗争が、彼の予想とは違った方向に進んでしまっていたのだ。

 もし“苦獰天”が徹底抗戦の形で向かい撃ってきたのであれば、抗争は意外にも早く決着がついただろう。また“苦獰天”が逃げ回るばかりであれば、抗争はしばらく膠着状態を続けた筈だった。

 長谷部幸平は膠着状態を予想していた。徹底抗戦はないだろうと。奴らは正面衝突は避け、小隊で逃げ回るだろうと。

 膠着すればするだけ“苦獰天”に有利だったからだ。まだ新チームとして旗を上げたばかりの彼らには陣形をまとめ上げる時間が必要だった。自分の役割は何か。誰の指示のもとでどう動くか。陣形の構築には共通の敵が不可欠であり、その役割を自分たちが買う形になってしまったと、長谷部幸平は後悔していたくらいだった。

 そして“苦獰天”とは対照的に、再び集まる形となった“火龍炎”は長引く抗争に不利だった。主要メンバーの五人はバンドを組んでしまっており、“火龍炎”の特攻隊長だった男も新たな族のリーダーとして活動を続けている。既に彼らはそれぞれの道を歩み始めていたのだ。“苦獰天”などという新チームを相手に手を煩わせている暇などなかった。

 抗争は長引くだろうと、それが“苦獰天”の背後にいる誰かの作戦だろうと、そう予想した長谷部幸平は新たな戦術を練っていた。

 “苦獰天”の半分にも満たない“火龍炎”のメンバーを更に小隊に分け、奴らを相手に敗北を演じる。こちらが不利だと思わせ、奴らを誘き寄せる。そうして集まった“苦獰天”を相手に最後の抵抗を演じつつ、元特攻隊長の清水狂介を含む残りのメンバーで奴らを囲んでしまおう──。

 それが、膠着状態を予想し、それを打開するために長谷部幸平が考えた作戦の一つだった。だが、この“苦獰天”との抗争は、彼の予想とは違った方向に進んでしまっていたのである。

 雑居ビルのバーには元“火龍炎”のメンバーたちが集まっていた。宝石を透かしたような鮮やかなライトが地下に溢れる笑い声を照らしている。踊り、歌い、馬鹿騒ぎする彼らの表情に憂いは見えず、やはり自分たちは最強だと、彼らは連日の勝利に酔ってしまっているようだった。

「幸平ちゃーん、なーにを仏頂面してんだべ?」

 大野蓮也のパープルピンクの髪が縦に揺れる。長谷部幸平の肩に腕を回した蓮也は、ウィスキーの瓶を片手に本物の酔いを味わっているようだった。

「いや、何か変だなって思ってさ」

「ぶはは、確かに変だべ。アイツら弱すぎっしょ」

 笑い声を上げた蓮也はウィスキーの瓶を口に咥えた。だが、既に空だったようで、軽く舌打ちをした蓮也は瓶をバーの隅に放り投げた。瓶の割れる音と共に野次が飛び交う。

「いや、弱過ぎるかどうかはまだ分からないよ。アイツら、逃げ回ってるばかりだからね」

「なーに言ってんだ。俺ら、もう随分と奴らをボコりまくってんじゃねーか」

「確かに表面上はそう見えるかもしれないけど、実際にはそれほどダメージは与えられていないと思うんだ」

「じゃあ何で反撃してこねーんだよ」

「それは、恐らく抗争を長引かせる為かな……?」

「は、長引かせて長引かせて、奴らの評判なんて地の底だべ。もう誰も“苦獰天”なんて恐れちゃいねーよ」

 大野蓮也は呆れたように肩を落とした。長谷部幸平はまた前髪を引っ張る。

 確かに彼の言う通りだったのだ。抗争は膠着を続けている。だが、それは幸平の予想していたような互角な上での膠着ではなかった。まるでトカゲの尻尾切りを続ける“苦獰天”を獰猛な肉食獣である“火龍炎”が追い続けているかのような。既に死に体に思える“苦獰天”の評判は地に落ちてしまっており、逆に“火龍炎”の評判が鰻登りの上昇を続けていた。それが幸平には不気味だった。自然に起こり得るような結果ではないと思ったからだ。

 圧倒的に数が多い筈の“苦獰天”が死に体で逃げ回り、それをただ追い続けているだけの自分たちの評判が上がり続ける。

 普通ではないと思った。絶対に何か裏があると、長谷部幸平は不安だった。

「んだべ、まさかまだ何かあるとか思ってんのかよ」

「うん」

「これも奴らの作戦の内だって?」

「いや、作戦ではないと思う。奴らの評判が地に落ちているのは事実だし、それをあの野洲孝之助が良しとするとは思えない」

「じゃあ何でそんなに不満げなんだよ」

 メンバーの一人がポカリの缶を投げて渡す。それを受け取った蓮也は「もう一本くれ」と人差し指を伸ばした。

「妙なんだ。奴らの動きも妙だけど、それよりも、噂の広がり方が妙だ」

 青いラベルを垂れる水滴が色とりどりのライトに煌めく。大野蓮也からポカリを受け取った幸平は、冷たい液体で喉を潤すと、それでも流せない憂いにため息をついた。

「噂だって?」

「そう、広がっていく速度があまりにも早過ぎる気がする。それも“火龍炎”に有利な噂ばかりが。別に歪曲ではないけど、これじゃあ僕たち自身も抗争に勝ち続けていると酔わざるを得ないよ」

「へっ、良いことじゃねーか」

「それと“火龍炎”が“鬼麟”っていうチームと手を結んだって、ありもしない噂まで流れ始めてる」

「キリン? 何処のチームだよ」

「いや、そもそも“鬼麟”なんてチームは存在しないんだ」

「へぇ、そりゃ確かに妙だべ」

「巷では“鬼龍炎”なんて造語まで出回ってるらしい」

「んだよそれ、最高にカッコいいじゃねーか」

 大野蓮也は高らかな笑い声を上げた。「いっそ“鬼龍炎”に変えちまうか」とそんな事を叫ぶ彼を尻目に、長谷部幸平は不安げに前髪を引っ張った。


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