18 噂を広めるため頑張りました
気を取り直して、翌日バーデンフェルト侯爵家に先触れを出します。程なく明日お越しください、折角なので明日は夕食に御招待しますと回答がありました。明日なら侯爵も少し時間を空けてあるそうです。
翌日、侯爵邸を訪れます。多分正式に書面を交わすことになるので、今日はオリヴァーとハンベルトも随伴させます。
馬車の中でハンベルトが声を掛けてきます。
「お嬢。柄にも無く、えらく今日は緊張してるじゃないか。」
「・・・こ、婚約なんて、考えたことも無かったから・・・。」
「初対面で俺を叱り飛ばしたあのちっこいお嬢ちゃんが、婚約ぐらいで赤くなって緊張してるとはねえ。」
「お嬢ちゃんって揶揄うのやめてくれない!?」
ハンベルトは一兵卒から最終的に中隊長にまでなった優秀な元国境警備兵です。本人曰く上官の命令した無茶な任務で傷を負った為退役させられ、子爵領の生まれ故郷に帰って燻っていたそうです。彼の経歴と経験を買った私が拾い上げ、訓練を経て鞄持ち従者兼護衛として雇用しています。
公の場では私を主と呼びますし、仕事振りや立ち居振る舞いも申し分ないのですが、気心の知れた仲間内だけの場では私の事を昔はお嬢ちゃん、今はお嬢と呼び、揶揄ってくる所がちょっとムッとさせられます。
実害は無いし、今のやり取りもむしろ、私の緊張を解そうとしてくれているような気がするので、口の悪い彼の事を嫌いにはなれないのですが、他の言い方はないのでしょうか。
「だからいつも言ってるじゃないか。もっと背が伸びてお淑やかなレディになったら、お嬢サマって呼んでやるって。」
「なんか違う!」
横で見ているオリヴァーも、最初は失礼だとハンベルトに怒っていましたが、私が何だかんだ言ってハンベルトを放置しているので、今ではやり取りをクスクス笑って見ています。
仕事相手ならともかく、婚約者なんて・・・どんな顔をして相対すれば良いかわかりません。取り敢えず、仮契約の期間だし、仕事だと思って接すればいいのでしょうか・・・。
そうしている内に侯爵邸へ到着し、3人で邸内に入ります。
さっきまでと違いオリヴァーもハンベルトもキリッとした仕事モードに変わっています。
すぐに侯爵の執務室に通されました。
「子爵。ようこそ。
君からの情報は引き取らせて貰ったよ。陛下からは引渡しを求められたが、国民の命に係わる問題だからと断っている。」
「ずっと抱えているわけにもいかないでしょう。どうされるお積りで?」
そのうち王家も色々手を打ってくるでしょう。
「対策は考えている。しばらくは無理だが、魑魅魍魎の多い王都でずっと抱えている積りはない、とだけ言っておくよ。情報自身に悪い様にはしない。」
恐らくはっきりしてから、部外者の入り込みにくい領地の田舎に送って・・・という所でしょうか?
大丈夫だと思うのですが、引き続き張らせて置きましょう。
「それはそうと、今日はこの間の返事の為だね?」
「ええ、そうです。・・・侯爵家の有難い申し出、お受けさせて頂きます。」
お世話になる身です。ちゃんと居住まいを正し、礼をして回答します。
「そうか、それは良かった。ちなみに、他に今どんな家から申し込みが来ている?」
「厄介そうな所ですと、ラックバーン辺境侯爵家、コルルッツ侯爵家、リッテルシュタッツ侯爵家です。」
「む・・・それは手続と発表を早くした方が良さそうだな。」
ラックバーン辺境侯爵家は、国境紛争で最近何度も隣国から圧力を受けている所です。国境警備に関わる家は押し並べて発言力が強いですが、ラックバーン家は最近特に小競り合いが多く、子爵家の財務的な支援が必要なのでしょう。歳の近い子息は、三男が今度学院の3年生になるはずです。
コルルッツ侯爵家は、海洋貿易で栄える貿易都市を抱える有力貴族家の一家です。輸入シルク生糸の半分以上はこの貿易都市を経由して輸入するため、国産シルク生産を成し遂げた子爵家の事は良く思っていないでしょう。ここは今度次男が学院に入学する歳だったと思います。
リッテルシュタット侯爵家は国内の穀倉地帯の過半を担う、ここも発言力の強い家ですが、領地は王都から見てクロムブルクとは全く方向が違います。子爵家と商会のノウハウ・財力を使って王都との拠点間物流経路を開拓したいというのが本音だと思われます。ここも三男が今度学院に入学するはずです。
「では、婚約の契約書面はここで交わすとして、契約書面を持って今日中にマリウスと2人で貴族省に行って、婚約の届出を直接してくると良い。その方が広まるのが早い。」
「・・・そうですね、その方が良いと思います。」
貴族の婚約や結婚、出産などの情報は、貴族名鑑を管理する貴族省に届け出が必要です。貴族省からは月次でこれらの変更情報を各家に通知するのですが、領地から貴族省に届け出を提出すると、貴族省が裏付けを取った上で受理し、各家に通知書を出すまでは1~2か月の時間が掛かります。
一方、貴族省の担当部署に直接届出すれば、通知書が出回るまでの時間はかなり短縮されます。
「早速書面を交わそう。先日の文面で問題は無かったか?」
「体裁の問題ですが一部直して頂きたく。こちらをご覧下さい。」
ハンベルトに指示し、領地で作成した婚約契約書を3枚出します。
確認して貰いましたが問題無かったので、3枚の契約書面にお互いのサインを記し、印璽を押します。
1枚は侯爵、1枚は私が所持し、残る1枚は貴族省届出用です。私の分はハンベルトに預け、書類鞄に入れてもらいます。
「マリウス、入って来なさい。」
マリウス様は隣の部屋で待機していたようです。呼びかけに答え執務室に入ってきます。
「子爵様、これから宜しくお願いいたします。」
「マリウス様、宜しくお願いします。」
挨拶を交わしますが、ここでマリウス様がクスクス笑って言います。
「会ったばかりだから仕方ないですが、これから仮とはいえ婚約者ですし、貴女と仲睦まじい様子を周りに見せないと令息除けとしても意味がありません。
お互いの呼び方から変えて行きませんか? 一般的には婚約者同士、愛称で呼び合うものだと思います。
どうか、私の事はマリューと呼んで下さい。私は貴女を何とお呼びすれば良いですか?」
そ、そうですよね。一応婚約者ですもの。仕事の距離感じゃない方が。
「そ、そうですね・・・では、イルミ、とお呼び下さい、マリウス様。」
「マリュー、ですよ。イルミ。」
うわ、面と向かってそう呼ばれるのって恥ずかしい!
「ま、マリュー。」
もう顔が熱いです。
私を見て侯爵が含み笑いしています。
「くっくっくっ。初々しい真っ赤になった所が見られて面白いが、子爵には慣れて貰わないといけないな。」
「父上、いきなりは難しいですよ。でも徐々にこの距離感に慣れてくれると嬉しいな、イルミ。」
なんでしょう、わざわざ語尾で愛称呼びして、私の反応を楽しんでいるように見えます。
「なんだか、揶揄われている気分がします。」
「いや、そんな事は・・・無いとは言わないけど。クスクスクス。慣れてもらう為でもあるんだよ、イルミ。」
「正直ですね、マリウ・・・マリュー。」
侯爵が話題を変えてきます。
「無事に婚約が成った事だし、早速貴族省に手続きに行ってくると良い。私は仕事に戻るが、今夜の夕食会には子爵も是非いらして頂きたい。その頃には私も戻れるだろう。」
「ええ、父上。お気を付けて行ってきて下さい。
ではイルミ、行きましょう。」
マリウス様がさっと手を差し伸べてくれます。高位貴族の男性ですし、慣れていますね。
「こういった教育はほとんど受けていないので・・・不慣れですが宜しくお願いします。」
「名前を呼んで欲しいな。」
「お、お願いします、マリュー。」
恥ずかしながらそっとマリウス様の手に私の手を乗せ、彼のエスコートで侯爵家の馬車に乗り貴族省へ向かいます。侯爵家の馬車には侯爵家の侍女が同乗し、オリヴァーとハンベルトには子爵家の馬車で後ろから着いてきて貰います。
馬車の中でもマリウス様が話し掛け、私が赤面しながら答え、それを侍女がクスクス笑いながら見ている、という状況でした。
貴族省に到着し、婚約届を出す担当部署へマリウス様のエスコートで向かいます。向かっている途中から段々周りが騒がしくなります。「あの子爵様が大人しくエスコートされているぞ!」などという声も聞こえます。
「イルミは有名人だね。」
「そうみたいですね、マリュー。」
マリウス様に微笑みかけます。内心かなり恥ずかしいですが、婚約の噂を広めるため精一杯やらせて頂きます。 婚約届を担当部署に提出する頃には、大勢の人が部署の入口の外から覗き込んでいます。
「あの子爵様が、普通の婚約者っぽく振る舞ってるぞ?」
「知らなければ普通の御令嬢みたいだ・・」
「あんなにこやかな子爵様って初めて見たわ・・・」
好き勝手言われているのも聞こえてきますが、ぐっと堪えます。一体私は貴族省の皆様の中でどんなイメージなのでしょう?問い詰めてみたくなります。
「一体何をしたら、あんな言われ方するのかな。 後で聞かせてくれる?」
「うっ・・・」
届け出の後、少し時間を置いて侯爵邸に戻り、仕事から戻られた侯爵様を交えて夕食会です。
婚約したので、ちゃんとマリウス様にエスコートされて中に入ります。それを見たパウリーネ夫人もアレクシア様も嬉しそうです。
夕食会は非常に和やかに進みました。
ただ、婚約届を提出した時の貴族省での顛末に話が及び、「一体イルミは貴族省で何をしたの?」と訊かれると言葉に詰まりました。
「くっくっくっ・・・。子爵がマリウスにエスコートされて現れたら、商務省でも似たような事になるだろうな。」
「えっ?」
侯爵様、面白がっていませんか。案の定、侯爵様は私が商務省に初めて法律相談に行った時の顛末を可笑しそうに話します。その内容に皆が目を丸くします。
「それ以来、商務省の職員は子爵が来たら皆、虎が出た蛇が出たと騒ぎになるからな。恐らく貴族省でも同じ様な事があったのではないか?」
「あ、あの最初の時は切羽詰まっていたので。」
当時は必死だったのです。
「それは今ならよく分かる。ただあの一件で省内が皆震え上がってしまって、結局毎回私が子爵の相手をしているな。次の子爵の法律相談の時は、アレクシアも参加させてみるか。あれを実体験するとまた子爵の見方が変わりそうだ。」
「そ、そんなに凄いのですか?」
「入省したらアッシュ補佐官に聞いてみると良い。」
アレクシア様が、私の法律相談の話に目を丸くしています。アッシュ様というのは、恐らく最初の法律相談で同席されていた補佐官の方でしょう。
「マリウスも、子爵を余り揶揄っていると仕事で返されるぞ。」
「うぇっ・・・」
マリウス様は馬車での行き帰りの間中、度々愛称呼びしては私の反応を楽しんでいらっしゃいました。私がいつか仕返ししようと思っていたことまで見抜かれています。
「まあまあ、仕事の話はそれ位で。それで、貴族省から噂は広まりそうなの?」
「私の前評判のお陰か、私達の一挙手一投足を省員の方が大勢見ていましたから、通知が出る前に結構噂になるかも知れません。」
「そう、それは良かったわ。大分恥ずかしい思いをした甲斐がありましたね。」
「お、お見通しですか。」
パウリーネ夫人には見透かされています。
「それはそうよ。私も旦那様と婚約の届出に行ったときは大勢に囲まれて緊張しましたわ。旦那様の方がもっと緊張していましたけど。」
「「「「え!?」」」」
私だけではなくアレクシア様、マリウス様、ディルク様も驚いています。
侯爵様は何だか恥ずかし気に目を逸らしています。
「あの、いつも冷静な父上が?」
「私達も当時まだ学院生でしたけど、当時の長官が商務省に来て欲しいと既に何度もお願いに来てましたから、皆様の注目の的でしたわ。だからあの時は私も、隣の御令嬢は誰だ!と大勢に遠巻きに見られました。隣の旦那様の方が緊張していたから、開き直れましたけどね。」
侯爵様も、パウリーネ様も・・・。ちょっと気が楽になりました。
マリウス様に聞きたかった事があるので、この際聞いてしまいましょう。
「ところで、マリュー。学院に通うとして、私が気を付けないといけない御令嬢ってどの位いらっしゃるのでしょう?」
「・・・マウリッツ侯、ヴィーラント伯、ハイルマン伯の御令嬢くらいかな。特にマウリッツ侯爵令嬢は、子爵家・男爵家の御令嬢達何人も従えて、数で押してくるから面倒かもしれない。」
マウリッツ侯爵令嬢・・・ワインをはじめとした酒類の製造で有名な所で、財力の高い家でしたか。ヴィーラント伯やハイルマン伯の家は領地が隣同士で、両家は近年作物が不作と聞きます。力のある家からの援助を必要としているのでしょうか。
そういえばマリウス様って今まで婚約者が居なかったのですよね?という事は・・・。
「マリュー、もしかして、学院に入ってからその御令嬢達に付き纏われたとか、そういった事はありますか?」
「御名答。婚約者が決まっていなかった侯爵家の長男だったから、御令嬢達に追い掛け回されたよ。特に3人はしつこくてね。
でも僕はお花畑にも、侯爵夫人になりたい人にも興味は無かったから、彼女達から送られてきた婚約の打診は全部父上に焚きつけにしてもらったよ。
僕がイルミと婚約した事で、当てが外れた御令嬢達に敵視されると思うから、そこは気を付けないといけないね。僕も出来る限りの事はするよ。」
マリウス様、本音がちょっと黒いです。
傍から見れば、後継ぎと目されていた長男が格下の子爵家に入るのですから、私が色々やっかみを受けそうですね。これは覚悟しておきましょう。
「そうね。これで子爵様とマリウスの間がギクシャクしていたら、御令嬢達だけではなくて高位の令息達にも付け込まれるわ。精々、学院で仲睦まじい様子を見せつけて差し上げて?」
・・・努力します。
「ふふふ。子爵様はこういった事に不慣れみたいですから、マリウスがしっかりリードして差し上げなさい。」
「その様ですね。宜しく、イルミ。」
「は、はい。」
侯爵家の皆様とは、夕食会で大分距離が縮まったように思います。
マリウス様との会話もちょっと慣れてきました。
ただ、私は恋愛の事はまだ何もわかりません。
整った顔立ちをされていますが、男性の外見にまだそこまで興味はありません。マリウス様をお慕いしているかと訊かれても、まだピンと来ないです。
でも、これからまだ時間はあるのです。ゆっくり、お互いを知って行きましょう。
今まで仕事一筋で頑張ってきた主人公。ようやく婚約者が出来ました。
恋愛経験ゼロの初心な所を半分揶揄われていますが、仲は悪くなさそうです。