書き直し前
とある午前の授業、タケルは隣から聞こえる一定リズムの筆音が気になった。黒板を写しているのだとしても、やたら長い間シャープペンシルが動いている。
タケルの席は窓際から二列目、窓側から聞こえるとなると筆音の主は如月 透子しかいない。教師が黒板を向くのに合わせてタケルは透子の手元に視線を流した。
透子のノートには規則正しく小難しい漢字が書き連なっていた。全て同じ文字だ。現在受けている数学の授業と何の関係性もない。タケルは初め国語の時間にテストでもあっただろうか、と頭を捻らせる。
再び、透子の書き続ける文字を盗み見る。『鬱』、あまりに書きずらそうな文字に本当に国語のテストに出るのならなんて最悪なんだと唸ったが、『鬱』という字の読み方を思い出してタケルは背筋を凍らせた。
『鬱』の読みはうつ病の『うつ』だ。そんな文字が透子のノート一枚を埋め尽くそうとしている。これが『死』とか『呪』だとかなら叫び声を上げていただろう自信があった。ただ、不気味な事は変わらない。
タケルの記憶の中で如月透子は特別に得意な人物ではなかった。大人しく、周りとあまり喋らない少女。そんな印象は同じクラスメートの他幾人かにくっついている。
何故こんな事をしているのかタケルは酷く気になったが、ノートに何を書いていたのかなんて聞ける仲では無かった。何か疲れているんだろう、と適当な結論を付けてタケルは授業へと意識を戻す。
やはり一定のリズムの筆音は鳴り止む事は無かったが、音量的には躍起になってどうにかしなくてはならない物ではない。意識がたまに隣の存在の事を考えるのはどうしようもなかったが、大筋は黒板の内容を写す作業へと戻る事が出来た。
しかし、次の時間も透子のシャープペンシルはノートの上へと『鬱』という文字を生み出し続けた。タケルは段々と思考の合間に割りいってくるこの筆音を忌々しく思い初めたが、これでイチャモンを付けてやめさせるのは少し感じが悪い。
気にしなければ、気にならないものである。タケルであれど、ノートの中身を除かなければ何の支障もなく授業を受けていられただろう。勝手な行動で勝手にキレるというのは格好がつかなかった。
タケルは焦れったい状況に歯噛みをしながら、プライベートな情報を盗み見る事の罪の重さを延々と脳内で自分に説教をする事になった。
他人は他人、人に迷惑を掛けなければそれを止めるには義理や友好関係が必要だ。自分から迷惑を掛けられに行ってしまったタケルは、自分にその資格はないと考え透子の行動に目を瞑る事にした。
願わくば誰か彼女を保健室か何処かへ連れていってくれ、と願いながら。
残念な事に悪夢は続いた。『鬱』という字が彼女のノートを五枚分占領していると考えると、狂喜という他ない。
いい加減、タケルの方にも我慢の限界が来ていた。計三時間分の授業で思考のリソースを奪われているのだ。責めるなんて事が的外れでも、何故そんな行動をとるのか聞く程度は許される筈だ。
もし、明日もこんな行動が続くとなると発狂しかねない。三時限目の終わりのチャイムが余韻を響かせ終わった所でタケルは透子に声を掛けた。
「そ、それ、何やってんの?悩みがあるとかなら…えと、一応聞こうか?」
自分から親しくもない女子に話し掛ける男の無様さを全面に晒しながら、タケルは透子へと尋ねる。少女の眠たげな瞳がゆっくりとタケルの方へと向き、僅かに口が開く。
「特に…」
特に、言うに事欠いて「特に」と来たか。少し気になるから止めて欲しいとやんわりとお願いしようという考えが以下に甘かったのか思いしる。少女が事態を隠すのなら、嘘を暴くという対立的な手段を選ぶ他、解決策がない。出来るだけ、言葉を選んで穏和な道を選択する。
「理由だけ、本当に簡単な理由だけ教えてくれたら今後何も言わないからさ、気になって授業にあまり集中出来なくてさ」
彼女の行動を無理矢理に止めるより簡単な筈だ。適当な回答でいい。ムシャクシャしたとか、そんなのでいい。納得がいってしまえば、それが嘘だってこっちは考えなくて済むことになる。
「…気になったから」
気になったから?何が?書き方忘れたとして、そんなに書く必要はないと考え余計に思考が巡る。己の策が失敗した事を悟ったタケルは万策尽きたとばかりに「そっか」と分かったフリをして話を終わらせようとしたが、透子が二言目を発した。
「百万回、鬱って書くとどうなるか気になったから。」
百万回…タケルはその数字に絶句した。こんな気が狂った様な作業を百万回も続けようというのか、この女は。しかも、気になったって、頭がおかしくなるに決まってるだろ!
きっと鏡に「お前は誰だ」と言い続ける様なものだ。自分が誰か本当に分からなくなったみたいに、鬱と百万回も書こうものなら本当に鬱になるだろう。
そう言ってやると、透子は微笑んで「かもしれない」なんて言い放った。饒舌に言葉は続く。
「そうなったって構わない。私、自分が嫌いだもの。周りに流されるだけだし、生きていて楽しいと思えないし、努力なんて出来ない人間だから。そうなったとして、後悔はないから。」
「それに」と少し間を開けて言った。
「良いことだってあるかもしれない。」
タケルを自分の瞳に映る少女は何処か壊れたものだと感じた。自暴自棄の中に無理に括り付けられた希望が酷く痛々しい。無表情だと思っていた透子は自然な笑みを浮かべている。
「私はきっと自分で自分を変えられない。だけど、こうやっていたらヒーローが来るかもしれない。イジメられるかもしれない。私ね、このまま当たり前の様に腐っていくのは嫌なの。自分の本気を見てみたいの。」
夢を語るように百万回の鬱という先の世界を彼女は嬉々として語る。その言葉はタケルの永遠に理解できない対象としてイメージを壊した。タケルにも心当たりがあった。
死ぬ気で頑張れば、引っ張ってくれる誰かがいたら、とかそんな妄想の中の自分に期待した事が確かにあった。彼女はそれを本気にしてるのだ。
唖然とする。酷く濁っていると思った水は異質な輝きを放っているだけだった。
それでも、タケルにとって彼女の行動は自分には出来ない方法だと思った。もしかすると、正しいのかもしれない。ただ、決して無難には生きていけない選択。生きていくという絶対の正義の否定。
タケルは今度こそ「そっか」という言葉を放った。彼女のしようとしている事に何処か羨ましさを感じたまま、それは自分には出来ないだろうという敗北の宣言でもあった。
「人に話せて少しすっきりしたかもしれない。自分でも馬鹿な事だと思ったんだけれど、こんな馬鹿な事でも効果があると確信出来た。有り難う。」
タケルはギョッとした。自分の行動が成功体験になってしまったと知ってしまった。彼女にとって何気ない感謝の一言は、タケルの中で呪いに変じた。
触らぬ神に祟りなし。なるほど、何という有難いお言葉なのだろう。出来るならもっと早く有り難うお言葉だと思いたかった。
駄目だ、人生破壊するクラスの爆弾拾っちゃったよこれ。ノートを盗み見たせいで彼女の行く末にタケルの責任が発生した。
聞かなきゃ良かったとタケルは懺悔した。
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彼女の百万回の鬱の文字を、タケルの苦労が走る。
破滅願望混じりの彼女は、ただ書き続ける。
この度、タケルは勝手に拾った罪悪感をどうにかする為に走り続けた。
イジメもあったし、彼女の事を勘違いした同情もあった。
だけれど、彼女のノートには百万文字の鬱がしっかりと刻まれた。
彼女は今、どうなったのだろう。
タケルは彼女を見捨てただろうか?
良かったのか、悪かったのか分かりはしないが。
百万回の鬱の後に書かれた一文字は「幸」だった。
タケルとは方向性が合わなくなったので
リストラする事となりました。