馴れ初め①
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
分厚い雲に覆われて、月明かりさえ届かない夜。
深い深い森の中、人の生活圏から少しだけ離れた静かな森で、幼い僕は身を丸めてガタガタと震えていた。
闇に怯えているわけじゃない。ただただ寒さに凍えて身体がなんとか熱を生み出そうともがいているだけだ。
この少し前、この森に『連れてこられた』時は確かに怖かった。
得体の知れない影に捕まり、理解できない意味不明な空間を通り抜けて、涙を流して半狂乱になるそんな僕を『奴ら』はただ嬉しそうにケタケタと笑い続けている。
数時間、いやたぶん半日ほどだろう。
あれだけ目まぐるしく変わった景色の詳細を細かく覚えていないのは、当時の僕が『怯え』ることができて、混乱していたからだ。
最後に連れてこられたこの森で『奴ら』は、泥まみれ・血塗れ・傷まみれになった僕を囲んで唐突に『殺し合い』を始めた。
耳に飛び込んできた言葉の全てを理解するには僕は幼すぎたし、それになにより少しでもあの『恐怖』から逃げ出したくて、強く目を閉じ耳を塞いだ。
それでも聞こえてきたのは『心臓は俺が食う』とか、『あの目だけは誰にも譲らない』とか、『まだ生かして、存分に怯えさせてから食おう』とか。
そういう類の、おぞましい話だった。
やがて『奴ら』は次々と共倒れしていき、最後の残ったのは3つの大きな影だ。
1匹は獣の影だった。
低い老人の声を持つ、人面の獣。
そいつは僕の感情の半分を食った。
1匹は長い長い、縄のような影だった。
終始狂ったような笑い声を発しながら、泳ぐ様に空を飛ぶ血に濡れた肉の紐。
そいつも僕の感情の半分を食った。
最後の1匹は、大きな大きな化物の影だった。
山よりも大きい体躯を持つ、人斬りの一つ目の鬼。
そいつは残った僕の全てを食う、つもりだった。
それはこの国の闇に住むモノたちの宴。
自分達が殺した何百匹という化け物の肉片と、そして僕の『感情』を咀嚼する水音が暗い夜の森に響き渡る。
ゆっくりゆっくりと何も感じなくなっていく自分の精神に、僕は諦めかけていた。
このまま、ここで僕は死ぬ。
引っ越してきたばかりの見知らぬ土地で。あっけなく。
大好きな父さんや母さんやお婆ちゃん、それに可愛い可愛い妹がいないこんな寂しい森の中で、僕は食われて死んでしまう。
血の気と共に、精神の湖から波が引いていくあの感覚は生涯忘れられないだろう。
自分という人間の温かいはずの肉体が、まるで無機質なゴムの塊の様に分厚く鈍いモノに変化していく、あの感覚は。
そんな地獄の釜の底。
只人では正気すら保てない歪んだ夜に、彼女は舞い降りた。
『貴様ら、ワシの森で何をしよる』
冷たい水の飛礫のような冷ややかな、でもとても心地よくて気持ちの良いその声は、僕の耳の奥から頭の中までを一気に満たしていく。
『悍しい下賤の淀みどもめが。ワシが守護するこの土地で、無垢な童に一体何をしよると聞いているっ!』
『ぐあああああああああああっ!!!』
その言葉と同時に、三つの影の内の一つがあっという間に燃えた。
綺麗で静かな蒼白い炎に包まれて、僕の感情の半分を喰った気持ちの悪い肉の紐の様な影が周囲を照らしながら燃えていく。
それは夜の森の木々を揺らすほど聞き汚い断末魔をあげてびたんびたんとのたうちまわり、土埃を舞い上げて苦しんでいる。
『土地神!?』
『何故だ! この地に神は居ないはずだ!』
残された二つの影が慌てて逃げ出した。
『逃げるな卑怯者! 童から奪ったモノを返すのじゃ!』
姿は見えない。でもその澄んだ声は僕のすぐ近くで、まるで僕を護るように寄り添ってくれている事だけはなぜか理解できた。
『もう喰った! もう喰った! げに疎ましき神々よ! この地はもうダメだ! 神が来た! また奪われた!』
『憎いぞ神よ! 陽の者よ! 我らが陰は貴様らが憎い! この地は我らの地だ! 貴様らはまた我らから闇を奪うのか!』
残された二つの影が、山彦を反響させながら物凄い速さで遠ざかっていく。
それは一目散という言葉の通り、二手に別れてあっという間に。
『ちぃっ! 逃げられたか!』
見えない『何か』が横たわる僕の体を抱き起こし、そして優しく包んでくれた。
『──────だれ?』
体を蝕む痛みで、ぎこちない動きしかできない僕は首すら満足に動かせない。
だから顔をあげることもできず、俯いたまま声に問いかけた。
『……ああ、なんと可哀想に。持っていかれてしもうたのか。すまん、すまんなぁ坊や。ワシがもっと強い神であれば、坊やの奪われたモノを全部取り返してやれたのに。不甲斐ない神で、申し訳ない。ああ、痛ましい。可哀想じゃ。可哀想じゃ』
震える声の見えない『誰か』は、僕をぎゅうっと抱きしめる。
『この身に残った神通力では、不意打ちで1匹しとめるので精一杯じゃった。ああ、坊やの体のこの黒い痣……長い間良くないモノどもに触られておったのだな。大丈夫。大丈夫じゃ。この山には霊験ある神泉の湯元がある。そこでまずは身を浄め、傷を癒そうな』
見えない優しい『誰か』は、僕の頭をなんどもなんども撫でた。
いままで姿の無いモノに触れられた事はたくさんあった。
怖くて怖くて誰かに助けを求めても誰も信じてくれず、気を引きたくて嘘を吐いているとまで言われ、頭のおかしい子などと扱われる事もあった。
体に巻きつくように浮かぶ黒いアザは、その名残。
毎日のように締め付けられてくっきりと浮かぶそのアザ。
アザにそって毎晩大声で泣いてしまうほどの痛みが走り、朝になれば体が動けなくなるほど僕を締め付ける。
何十人もの見えない怖い誰かが、僕の体を欲しがって掴み、そして引き裂こうとする痛み。
でもこの時の僕に触れていた手は、そのアザを優しく撫でた。
それだけで、痛みが和らいでいく。
お母さんでも、お婆ちゃんでも、お医者さまでもどうする事もできなかったそのアザが、触れた手の分だけ消えていく。
『ああ、その目。その目が奴らが坊やを拐った原因か。ようし、それもワシがなんとかしよう。さぁおいで坊や。大丈夫じゃ。身体の傷や霊障が癒えたら、すぐに親御のもとに返してやるからな?』
見えない優しい『誰か』に抱き上げられて、僕の身体が宙に舞う。
『奴が完全に燃え尽きたら、アレが喰った分の坊やの物も戻ってくるはずじゃ。ワシの力では一気に燃やす事もできん。歯痒いなぁ。ほんに、申し訳ない』
何を言っているのか、その時の僕にはまだ理解できていなかった。
ただ抱き上げられている身体の暖かさや、周囲を満たすとても良い匂いに空っぽの心が捉われていたから。
『おっといかんいかん。まだ姿を見せておらなんだ。坊やの声も届いていなかったな。また混乱させてしまったか』
そして唐突に、『彼女』は姿を現した。
『これでどうじゃ? ワシの姿が見えるかの?』
まるでこの時を待ってましたと言わんばかりに雲が晴れ、満月の優しい光がその姿を照らす。
どこまでも幻想的で、どこまでも美しく、どこまでも優しくて、どこまでも可憐なその姿に、幼い僕の奪われて何も無くなった心は一気に満たされた。
それは煌めく金の糸の様な赤毛。
切れ長な目を涙で滲ませて、紅潮した頬と上気した頬はうっすらと朱に染まり、小さな口を優しく微笑ませて──────。
僕は、僕の大事な女性と、初めて出逢った。
『ワシの名は白野巫女。見ての通りの──────お狐じゃ』
僕を慈しむ様に頬擦りして、彼女はそう名乗った。
ちなみにこの時の彼女の姿は、ロリではなく女子高生程度だった事は──────まぁ余談かな?
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ブクマと評価なぞは24時間年中無休で受け付けていますので!受け付けて!いますので!