杞憂、有馬記念
いよいよ日曜日がやってきた。前日に行われたホープフルステークスではアースエンゼルという2歳馬が圧巻の五馬身差Vを飾った。来年のクラシックが楽しみなる一方で、みんな翌日に控えた暮れの大一番へ胸を弾ませていた。スタンドの中で牛窪先生はアースエンゼルの関係者に挨拶回りをしていた。席に座って目を瞑る。杞憂か。それとも希望か。どのみち中山2500をマルククリスタルの勝利パターンに当てはめて考えるとロングスパート勝負がいいのかもしれない。
皐月賞で経験した中山とはいえ、2000と2500は別物だ。まずスタートに若干不安のあるマルククリスタルでは1コーナーまでの僅かな距離で位置取りを確保できる保証はない。位置取り次第にはなるが残り800メートル。3コーナー手前から上がっていく作戦がまず第一候補。ただ、マルククリスタルが不調だとこの作戦には大きなリスクを伴う。反応が鈍ってしまえばどうすることもできない。
難しい。頭の中の回路がショートしそうだった。
迎えた有馬記念当日。いまだに作戦の根幹が出来上がらないままパドックを迎えてしまった。
「辻さん。今回ばかりは正直どうすることもできません。回ってくるだけでいいとは言わないですが、作戦自体は辻さんに任せます。どうか、クリスタルを一つでも上の着順に持ってこれるよう、お願いします。」
そう俺は深々と頭を下げた。
「まあ、そういうこともあるさ。任せてよ。一つでも上なんて言わずに一着取ってくるから。」
辻さんは自身ありげに、そして少し怒りをあらわにしてそう答えた。隣では牛窪先生が焦ったような表情で立っていた。
本馬場入場が始まる。マルククリスタルは2番人気で3枠6番とまずまず内の枠。一番人気の4歳馬、シルバースタッフは6枠11番だった。さあいよいよれーすがはじまる。
「貝崎くん!言ってなかったけどね、辻さんは貝崎くんが作戦を考えてそれを伝えてることをよく思ってないんだよ!さっきもちょっと危なかったよ!くれぐれも怒らせないでね?」
「そうだったんですか…気をつけます。」
そう短く答えておいた。これからこの競馬界でお世話になるであろう人だ。怒らせるのは明確に損と言える。しかし、日本人ジョッキーでここまで頼りになる騎手など存在しない。クリスタルにどうか、どうか、いい結果をもたらしてくれ。
西日が照らす中山競馬場に今年最後のG1ファンファーレが鳴り響く。この雰囲気、そして熱気。この2分半に凝縮されたドラマが今年も始まる。
15時25分、全頭綺麗なスタートを切って有馬記念がスタートした。
珍しくいいスタートを切ったマルククリスタルが押し上げられるように先頭に立った。場内からどよめきが起こる。これまでのキャリアで逃げたことなど一度もない。さすが辻勝。レースのあやをついて勝ちにいく作戦か。差し馬のシルバースタッフと同じような上がり方をしたのでは勝ち目がないと踏んで奇襲を仕掛けた。あとはペース配分を間違えなければ好勝負になるはず。そして体内時計に絶対の自信を持つ辻勝に限ってそこは間違えない。レースは特に動きがないまま三コーナーを迎える。上がってく馬。じっと我慢する馬がいる中、いい手応えでシルバースタッフが上がっていく。以前先頭はマルククリスタル。ミドルペースに持ち込んでゆったりと後続を引き連れていく。第四コーナーを回ってシルバースタッフ現在5番手の外。内ラチにピッタリとマルククリスタル。残り300メートル。楽に2番手に上がるシルバースタッフとは一馬身差。流石に手応えが怪しくなってきた。さらに大外からナイトメアヒーローが持ち前の切れるような末脚で追い込んでくる。残り200メートル3頭の叩き合いで僅かにまだマルククリスタルがリードしている。しかし外の二頭の手応えがいい。粘ってくれ。悲痛な叫びは残り100メートルで打ち砕かれた。シルバースタッフが前に出る。
「うっ」
思わず呻き声が漏れた。しかし4番手とは五馬身ほどリードがある。三着でもいい。残してくれ。
ゴール手前でナイトメアヒーローが頭差前に出て波乱を演じた。マルククリスタルはなんとか粘って三着だった。
検量室に人馬が引き上げてきた。
「なんとか三着でしたね。状態から言っても上出来ですよ。来年はどこからとかありますか?」
不思議と辻さんの表情は和やかだった。
「目標は宝塚記念になりそうだね。ぶっつけで大阪杯から春三冠の予定だよ。」
「調整しときます
そう言い残して検量に向かって行った。
「惜しかったねえ!いやーでもよくやったよ。古馬相手に三着なら上出来だ」
いや、菊花賞で負かした相手に差されたんですけどね。少しモヤモヤしたが無事に有馬記念を終えることができた。
明日、難波先生の元に出向くことにしよう。