暮れの中山
マルククリスタルが暮れの中山を目指すことを知ったのはジャパンカップが終わったころだった。今週までは二次試験で忙しく、やっと一息つける期間が訪れたわけだ。
安堵を意味する、タバコは空中に揺蕩って、だんだんと見えなくなっていく。いつもの原風景が何処となくノスタルジックで、さらには何か別の意味すら含んでいるようだった。それが何かは今の俺にはわからない。だが、それがすごく大事なものような気がして、もどかしかった。
そのもどかしさがわからないまま時は過ぎ、朝日杯フューチャリティーステークスが終わった。いよいよ暮れの有馬記念に向けて世間や厩舎が動き出す。俺も例に漏れず、マルククリスタルのことで色々なことが頭の中を駆け巡っていた。しかし、それは今日顔を初めて合わせる難波清司先生のことも少しはあるのかもしれない。生粋の職人肌で、馬に対する情熱は誰にも負けてないだろう。ただ、その職人すぎるところというか、いまいち誰とも分かり合えないような感じの人だ。その人がまだ合格してもいない俺に対して一体何の話があると言うのだろうか。
呼び出された場所は新宿の喫茶店だった。美浦の調教師がこんなところに呼び出すとは少し疑問だが、いまいち大事なことでもない気がして、考えないようにしていた。3本目のタバコを吸い終わったところで、難波先生が現れた。
「初めまして。こんなところに呼び出して悪いね」
「こちらこそ。まあお気になさらず」
挨拶を済ませてコーヒーを注文する。難波先生は今年で69歳。来年定年のためか俺を預かって管理馬の引き継ぎをしようということなのだろう。いろいろな思惑が垣間見える。
「まあ、呼び出しといてなんだが、俺の言いたいことはひとつ。マルククリスタルの状態だ。牛窪から聞いてるんだが、いまいち状態が上向かないらしい。冬毛も伸びてるしな。あれはあんまり期待しないほうがいいぞ。だが、だからといってG1で、それも有馬記念で負けていいわけない。だからな、牛窪の言う通り、俺の元で研修を受けたいなら、マルククリスタルを勝たせろ。」
頭にはすっと入ってくるがいまいち会話の意図が読み取れなかった。それは多分、俺じゃなくてもそうだろう。だが、要は菊花賞を俺が勝たせたように、有馬記念も俺が勝たせろ。ということか。だが、状態は悪いぞ。さあどうする。色々と試されてるな。
「君に問うてることは、何を最優先にして競馬に臨んでいるかということだ。」
そう言ってショートピースを咥えて火をつける。やたら甘い香りがその場に漂う。
「一度、マルククリスタルを見せてもらってもいいですか」
「私は構わないよ。明後日,美浦に来るといい。」
そう言い残して、難波先生は喫茶店を後にした。その背中に移るものが、なんだか少し寂しそうで、同時に、これまでの人生で手にしたものすべてがその背中に反映されてるような気がして、儚かった。
翌日の水曜日ははあいにくの雨模様だった。どんよりとした美浦は天気とは裏腹に競走馬の活気に包まれていた。今週が今年の競馬を締めくくる有馬記念となれば各陣営に気合が入るのも当然だろう。牛窪厩舎は坂路コースのすぐ近くにある。
「ご無沙汰してます、貝崎です。」
そう声をかけると、牛窪先生が現れる。
「貝崎君!久しぶりだね。マルククリスタルのことかな?」
「ええ。難波先生からお話を伺いまして。なんでも、状態が芳しくないとか。」
「痛いところを突くなぁ。冬毛もひどいしね。メンタル面が影響してるのかわからないけど。」
暗にお前のせいだといわれているような気がしたが、あえて突っ込む必要があるとも思えずに、ただ牛窪先生の話を聞いているだけだった。
「とりあえず、マルククリスタルを見せてもらえますか?今回は状態を見ないことにはなんとも言えません。お願いします。」
実際、マルククリスタルの状態は決していいとは言えないものだった。伸びた冬毛、力強さを感じられないトモ、毛艶もいまいち。とても今週有馬記念に出走する馬の状態ではない。
こんな状態が悪くて一体どうやって勝たせろというのか。これは試されているのか。