夢、直前
10月の第3週。そろそろ寒くなった木曜日。俺は一次試験に受かっていた。勉強などしたこともなかったが、案外やってみれば楽しいものだ。そして、何とか一次試験を突破した俺は明日、京都へ行く。それは俺がここにいる目的をくれたもののため。そのものが、この夏に乗り越えてきたものの成果を見に行くためだ。頑張れよ。マルククリスタル。自分を応援してくれるもののために。そして、自分に未来を重ね合わせてしまったもののために。
新幹線の喫煙スペースの狭さに驚いた金曜日。名古屋につく頃にはラークの箱が空になっていた。東京で買ったばかりだというのに、我ながらびっくりのヘビースモーカーだ。早くも2箱目の封を切り、煙草に火をつける。喫煙中に考えるのは決まって、明後日の菊花賞のことだった。何も馬券のことなど一切考えていない。マルククリスタル。淀の3000メートルをどう勝つか。もちろん皐月賞馬なのだから恥ずかしいレースはさせられない。父ハーツクライ、母父ワイルドアゲインの血統背景からも長丁場に対する不安もないといっていいだろう。唯一の不安材料といえば、関東馬だけに、今回が初の関西圏への輸送だということだ。この輸送があだにならなければいいのだが、それはマルククリスタルにしかわからない、言うなれば神と、マルククリスタルのみぞ知る領域ということだ。そこに外野があーだこーだ言っても仕方がないだろう。2本目を吸い終わったタイミングで考えるのをやめた。すべては日曜日の3分で決まるのだから。
京都駅には特に迎えなどはいないようだった。今日と明日はどこかに観光でも行くといいよ、と丸木さんは言っていたのだが、男1人で何を見に行けというのか。せっかくの機会だから清水寺くらいはいこうかとおもってたけどさ…。特に用事もなかった金曜日は1日観光に費やされた。ホテルのチェックインを済ませるとマルククリスタルのことを考えながら眠りについた。
翌土曜日。またしても特に用事がないので京都競馬場に行くことにした。初めて行く競馬場がどんなもんなのか。そして、そのコース形態についても特徴を掴みたかった。それは明日のための気休めなのか、今日のための暇つぶしなのか、どちらにせよあまり意義があることとは言えない気がして、とにかく電車に乗り込み競馬新聞を読む。馬券にはあまり興味はないが今日くらい明日のために買ってみてもいいかもしれない。
10レースが終わった段階で3回ほど当たりがあった。収支的にはトントンと言ったところか。そして今の馬場は少々外差しが決まるのかな、というところまでは読めた。正直馬券的な楽しさはもう飽きてしまい、馬場読みと明日の作戦についてしか頭になかった。11レースの準オープン戦なんてどうでもいいのだ。まだ雲を掴むような段階ではあるが、ぼんやりとした作戦も少し浮かび上がってきている。そしてその作戦を実行するにはこの11レースである程度芝の状態を間接的に感じなければならない。もちろん明日の直前のレースまでそれは肝心になってくるのだが、今日中に作戦の骨組みが完成しなければいけないような気がしてしょうがなかった。
11レースの結果は一番人気が大外強襲で差し切った。2着には逃げ残った8番人気の馬が波乱を演出した。これだけ見ればなんてことのないただの芝のレースなのだが俺の仮説が確信に変わるレースだった。いてもたってもいられなくなり丸木さんにメールを入れる。もしかしたら今日は京都に前乗りをしていて、晩飯でも食べながら今日舞い降りた僥倖ついて話せるかもしれない。そしてその僥倖はまだ完成しきっていない、俺の作戦を勝算のあるものにしかねない。それもかなり確実な。
初めて食べる懐石料理が京都の料亭だとは光栄なことだ。対面には丸木さんが慣れたように前菜を食べている。
「まあ、君から呼び出したということは明日のことなのかな?」
「ええ、今日、京都競馬場に出向いてみてわかったことがあります。それは…」
「確かにその作戦がハマれば面白そうだ。というより正攻法にレースを進めるより面白いのは確かだと思う。だが、その作戦にはマルククリスタルの気性面やメンタルの面での負担が大きいのではないのかね?」
「はい、もちろんそこも心得てます。明日、レースの前に調教師さんにお話を聞いてみて反対されればそれ以上はもう何も言いません。僕の作戦はあくまで妄想だったということにしてください」
「まあ君がそれで納得するのならいいのだけれどね」
思った以上に白熱した明日の作戦会議は22時手前で解散となった。いよいよ明日、俺が夢をのせた馬の大舞台を迎える。
昼ごろ目覚めてホテルのチェックアウトを済ませると京都駅の前で丸井さんの車と待ち合わせをする。いつもの高級車で現れた丸井さんは俺を後部座席へと誘導する。後部座席でタバコをふかしながら今日への思いを黙りながらも馳せている。丸井さんの表情はいつもと一緒のようで口元から少しの緊張が伺えた。だがそれは俺も同じで馬主以上に緊張しているのだ。あの作戦、肝は今日の馬場状態にあるのだろう…。
10レースが終わり、いよいよパドックに菊花賞の出走各馬が現れる。先頭から3番目に現れた2枠3番のマルククリスタルは初めての競馬場でも落ち着いているようだった。前走のセントライト記念からはプラス2キロとまずまずの好仕上がり。オッズを見ると、5.3倍の二番人気。一番人気は日本ダービーを13番人気で逃げ切り、神戸新聞杯を横綱競馬で押し切って、鞍上もローレンに乗り替わってきた、6枠11番のフォルクファイト。こちらも陣営の本気度がうかがえる好仕上がりといったところか。
「こちらがマルククリスタルを管理する牛窪先生だ。先生、こちらがご存知かもしれませんが調教師の卵の貝崎斗真さんです。」
考え事にふけっているといつのまにか後ろに調教師と丸木さんがいた。
「どうも、マルククリスタルを管理する牛窪です。話は聞いているよ。なんでも、今日の馬場コンディションがどうとか。詳しい話を聞かせてもらえるかな?」
「ええ、実は…」
「たしかにな、今日の馬場はそんな感じがしていたよ。だがその作戦はレースを壊しかねないな。辻勝騎手とも相談する必要がありそうだね。だけども私自身はそれに乗りたいと思ってるよ。そうだね、じゃあ、私から辻さんには話しておくよ。君の才覚を信じてね」
ついに俺の作戦がこの菊の舞台で試される時が来た。あとはファンファーレを待つのみだ。