夢が終わらないうちに
あれから1年が経とうとする5月最終週の日曜日。3日ほど様子を見た後、俺は退院した。正直3日前に退院してもよかったのだが、主治医のお言葉に甘えて、のんびりさせてもらった。
無事に退院できたはいいがその傷跡は身体中のあちこちにひしめいていた。右足の大腿骨は人工骨になり、肝臓は損傷し、心臓も損傷しかけていた。運よく頚椎は無事で不随になることはなかったが、俺の騎手生命は本当に絶たれたと言ってもいいだろう。そしてそれはやっと体が動かせるようになった半年前のタバコが物語っていた。現役の時はパフォーマンスの低下を恐れて意地でもタバコを吸わなかったが、馬に乗れない俺はパフォーマンスもクソもない。そしてこの現実からの逃避を少し交えてタバコを始めた。病院にいた時はろくにタバコが吸えなかったので娑婆で吸うタバコのうまさに楽しみさえ感じていた。だが、俺のニコチンを欲する脳内に俺を呼ぶ声が響く。
「貝崎さん!貝崎斗真さん」
その声には聞き覚えがあり、さらにはこの1年間の間にも何度か見た顔でもあった。丸木蓮太郎。マルクカイザーの馬主であり今年の皐月賞を制したマルククリスタルを所有するベテランオーナーだ。1年まえにけがをした時からだいぶ俺を心配してくれてるみたいだ。
「お世話になってます。わざわざむかえにきてもらっちゃって」
「いいんだ。君を連れていきたいところがあるからね」
見るからに高そうな車に運転手を待たせて丸木さんはそう言う。
「どこに連れてくつもりですか」
「まあそういわずに、時間もないんだ」
どうせどこにも行くつもりはなかったのだ。荷物をトランクに押し込んで後部座席に乗り込む。
「この車は禁煙ですか」
「いや、吸ってもらって大丈夫だ。でも貝崎さんはタバコ吸ってたっけ?」
「いえ、入院中に吸い始めたんですよ。色々忘れたいことも多くて」
「退院そうそう悪いが、あの事故は誰のせいでもない。ましてや君が自棄になる必要はどこにもないんだよ。それにまだ、僕は君に恩返しができていない。ただの地方馬に、G1を勝たせてくれたじゃないか。あの時の貝崎斗真はこんなにに落ち込んじゃいなかった。」
丸木さんの言葉が頭を貫いた。すでに短くなったたばこが体現しているようで。灰皿にタバコをおしつけて、ニコチンの力で言葉をひねり出す。
「あんな作戦、誰でも思い付きますよ。それにあれは運も味方してくれたこともありますね。馬の実力で言えば2着馬の方がよっぽど上ですしね。それでも最後に舞い上がって、今や足が金属になっちゃいましたよ」
売り言葉に買い言葉。そんなセリフがよく似合う場面だった。そして自分の言葉が胸に響いて痛い。おそらく自分が最も思い入れのある馬と言っていいマルクカイザーを貶すのは自己矛盾と罪悪感で溺れそうになってるからだ。。そしてその自己矛盾が癇に障ったのか丸木さんは声を荒げて言った。
「君は自分の勝ち鞍さえもそういうのか!そんな騎手が並みいる強豪を抑えてG1を勝ったとは思えないね!
貝崎さん、あなたは自分の才能や力を貶しすぎだ。君が自分の才能について謙遜するのはいいがそれに感動した者さえも陥れるのはやめてくれ!それが私や依頼してくれた先生へどれだけ失礼で無粋なことかわかってるのか。そしてその感動をこれから作っていくものへの…」
丸木さんの言葉はそこで途切れてしまった。何かを思い出したように、そして飲み込んだように。
終わりの見えない言い合いは運転手の控えめな声によって終止符が打たれた。目的地に到着したのだろう。
「ここは…」
「東京競馬場だ。今日がなんの日か、忘れたわけじゃないだろうな」
ここでやっと思い出した。5月の最終日曜日。それはただの週末ではない。我々、競馬に携わる人がこの日に想いを馳せ、そして儚くも散って行った夢が交錯する日曜日。三歳の頂点を決める東京優駿の日だった。一年前から競馬に関わることをやめた俺はそんなことさえも忘れてしまったようだ。地方騎手の俺には一生縁がないと思っていたレース。そして一度でいいからその夢舞台に立ってみたいと思ったレース。頭の中で色々な思いが交錯する。そしてそれは感情となり、やがて言葉に変わる。
「俺にまだ競馬を続ける権利があるんですか」
「さっきから言ってるだろう、誰も悪くないとさ。そしてジョッキーとして乗れないならトレーナーになって送り出せばいい。このレースに。さあ、発送まで1時間ほどだ。スーツは後ろに積んである」
手際がいいのやら悪いのやら。車の中では散々俺と言い合いしてたと思ったらスーツまで用意してくれるとは。この瞬間、涙が出そうな想いを堪えてスーツに着替える。
「さあ行こうか。我らがマルククリスタルは一番人気だよ」
「そうなんですか、それは大チャンスですね」
「ああ、皐月賞を勝ってここにきているんだ。ここを勝たないと三冠馬になれないじゃないか」
顔に浮かべた笑顔がこの馬への期待を表してるようだった。
ファンファーレが鳴り響く。10万人近くの大声援と共に下のスタンドでは地響きが起こる。世代最強を決める戦いなだけあって盛り上がりも半端じゃない。皐月賞馬、マルククリスタルは1番ゲート。経済コースを回ってゴール板を一番に駆け抜けることができるのか。ヤネは辻勝。俺に一年前競り負けた日本人トップジョッキー。脚質的にも中段でレースを進めそうだし仕掛けどころが難しくなりそうだが辻勝に限ってそんなミスはしないだろう。
ゲートが開く。その瞬間誰も息を飲む。だがその息は肺を伝って悲鳴へと変わった。マルククリスタルは発馬後に躓き、現在シンガリ。末脚勝負にも対応できるだろうがあまりにも厳しい位置どりだった。焦ってポジションを上げるという最悪のパターンにはなりそうにないが、直線勝負でねじ伏せられるか。
もはや何も考えることができない道中はあっという間に終わり、最後の直線コースを向く。先頭との差はおよそ十馬身。追え、辻勝。腕がもげてもいい。一生使えなくなってもいい。それはこの瞬間、この栄光だけを掴むために…
逃げ残った13番人気の馬の名前など知らない。だが、そこに流れる雰囲気はどんよりとしていることだけはわかっていた。
「わざわざ連れ出してこんな結果になってしまってすまないね」
どこか覇気のない丸木さんの声が全てを物語っていた。そしてそれは俺へと伝染し、なぜか取り留めのない涙が溢れてくる。別に関係ないじゃないか。ただ、知り合いの馬がレースに勝てなかっただけじゃないか。
「泣くってことは何か感じるものがあったかね?それは勝負の世界では大事なことだ」
ちがう。そんなんじゃない。負けたの悔しいとか、そんなガキじみたこと考えてない。ただ、俺の中にあった野望とも取れないその何かが、ちょっとだけ手の届くところにあった気がしたから、溢れてきた涙なんだ。それはおそらく俺にしかわからない。言葉にしようのない感情がいくつも渦巻いて俺を離さないからだ。だけども言葉が出てきてしまう。
「俺、このレースを勝ちます。必ず、最強馬を送り出して見せます」
「君のその言葉が聞ければ、ダービーオーナーなんていくらでも先送りしておけるよ」
丸木さんの言葉が再び頭を貫いた。