二つの夜
二つの夜
月の呼吸の音さえ聞こえそうな程の、静かな夜。僕はリビングのテーブルに座り、コーヒーを飲んでいた。時計が針を進める音だけが、辺りに響いていた。僕は何を思うわけでもなく、瞳を閉じたり、手を見つめたりしていた。
人の気配がして後ろを振り返ると、七歳になる娘が立っていた。暗闇の中、薄紅色のパジャマだけが浮かび上がっていた。僕は何故か、娘は僕の命を奪いに来たのかもしれない、という錯覚に襲われた。冷たい汗が、背中を伝った。僕は娘を恐ろしく思ってしまった自分の思いを吹き飛ばすために、強い声で言った。
「どうしたんだ、眠れないのか。」
「うん。」娘は不安そうに言った。僕に怒られるんじゃないかと心配しているのだ。
幸いな事に、明日は日曜日で僕の仕事も休みなので、娘を横に座らせ、すこしお喋りをする事にした。それに、さっき僕が感じた不吉な思いは間違いで、僕は娘を愛しているんだという事を確認したかった。
「お客様、ご注文は何にいたしましょうか。」僕はもっともらしく言った。
「じゃあ、ホットミルクをお願い。」彼女は気取って言って見せたが、くすくすという笑いがもれていた。
「駄目じゃないか、笑ったら。」
「だってパパの言い方がおかしいんだもん。」
父娘間の他愛もない遊びだ。ままごとの延長のようなもので、どちらかが勝手に役を決めたら、それにしたがわなければならないという遊びで、娘が考えた。妻と別れてから、この手の遊びでよく娘と触れ合うようにしている。
ホットミルクを飲み、一段落したところで娘が言った。
「ねえ、パパ、お話してよ。いつもやってるやつ。」
「ああ、良いよ。で、どんな話が良いのかな。」
「うーんとね、パパの子供の頃の話が聞きたい。」
「子供の頃かー。ちょっと待てよ、今、思い出すからな。」と言いながら、僕は最初の一文を考えた。ここでいう話とは実際にあった話ではなく、即興の考える作り話だ。娘もその事が分かっていて、どうにかして僕を困らせようと、あれこれ質問してくる。僕はその質問に答えながら、物語の細部を固めていくのだ。この話の中で、僕は、海底の秘宝を求める海賊にも、木星到着を果たした宇宙飛行士にも、空に存在する王国の王子にも、なったりした。
「僕には子供の頃。親友がいた。」いつもよりは単純だが、たまにはこういうのも良いかもしれない。
「パパの親友はどんな子供だったの?」
「あらゆる面で、僕とは正反対だったよ。僕はその頃、内気で、おとなしくて、本ばっかり読んでた。でも、彼は活発でいっつも外を駆けまわってたな。」
「どうして、そんな二人が友達になったのかしら。」
「それが僕にも分かんないんだ。気付いた時には、いつも一緒にいたって感じかな―。」
「恋人はいた?」
「えっ。」僕は聞き返した。
「その二人に恋人はいたの?」と娘は言った。もうそんな事に興味があるのか、と僕は少々驚いた。
「彼にはいた、つまり、僕には居なかったってことになるな。でも、実を言うと僕も彼の恋人の事が好きだったんだけどね。」
「じゃあ、なんでその事を彼の恋人に言わなかったのよ。」と娘は怒ったように言った。
「だってその頃、僕らは小学生だぜ。そんな大げさなもんじゃないよ。それに彼は僕の親友だったしさ。彼なら彼女にぴったりだ、なんて子供心に思ったんだよ。」
「訳わかんない。」と娘はふてくされたように言った。その表情が驚くほど別れた妻に似ていたので、僕は焦った。別れる直前はいつもこんな顔してたっけ。
娘が気に入ってくれそうに無かったので、話の展開を変えることにした。
「でも、ある日、そんな三人に事件がおきる。どんな事件だと思う?」
話の続きが浮かばない時は、娘に聞いてみる。大人の頭ではまず浮かばないだろう事を言ってくれるので、楽しい。
もなる。
「その女の子が転校しちゃった?」
「違うよ。」
「じゃあ、その女の子の気が変わっちゃったんだ。」
「違うな。」
「じゃあ、分かんないよ。教えて。」
「僕の親友は殺されたんだ。」言ってからしまった、と思った。人が殺される話なんて、七歳の娘にする話じゃない。
「誰に、何で、殺されたの?」娘は驚くこともせず、質問してきた。そんな娘に僕が戸惑ってしまった。
えーとな。と言いながら僕は立ち上がり、腕時計を見た。
「もう遅いし、続きは明日にしないか。」今なら、まだ、修正は効く。最後に親友が行き返 「うーん。」とうなりながら、娘は頭をひねっている。この時間が僕の考える時間にる事にすれば、大丈夫だ。
娘が僕の服を掴んで、座らせようとする。
「続きを話して。」娘の目は今までに見た事がないくらい、真剣だった。
辺りの暗闇が濃くなっていくような気がした。僕は座って、コーヒーを口に含んだ。コーヒーはもう、冷めていた。
「誘拐されたんだ。彼の家はお金持ちだったからね。」
「それで、どうなったの?」するりと娘が聞いてきた。誘拐の意味を知っていたのだろう。
「犯人側の要求は二つだった。一つはお金を用意する事。もう一つは警察に通報しない事。この二つを守れば子供は無事に帰す、と約束した。逆を言えば、この二つの事が守られなければ・・・・・・」
「子供は殺されるって事ね。」娘が引き継いで言った。娘の口から「殺される」なんて言葉が発せられた事に僕は恐怖を感じた。娘は本当に僕の命を奪いに来たのかもしれない。喉がからからに渇いていた。コーヒーを飲んでも、その渇きは満たされる事が無かった。
「それで結局は子供は死んじゃったんでしょ。」
「ああ、彼の両親は約束を守った。でも、犯人は約束を守らなかった。犯人が子供を帰したと言った場所には、彼の死体があった。」
「悲しかった、彼が死んだと知った時?」
「もちろんって言っても、最初は彼が死んだなんて信じられなかった。彼女が彼の葬式で泣いていたの見て、初めて分かったんだ、彼はもういないんだってね。」
「どんな気持ちだった、その時は。」
「良くある表現だけど、こころにぽっかりと穴が空いた気分だった。そこから何かが漏れて、何かが乱暴に入ってきた。」
「それって具体的にはどんな気分なの?」
「えーと、そうだなあ。夢から急に覚めた気分って言ったら分かるかな。」
「うーん、なんとなく。」
「僕は自分が何者で、何をしなければならないか分からなかった。実際、その頃の記憶はなんか、曖昧なんだ。」
「そう、で彼女はどうなったの?」娘は僕の事には興味が無いようだった。
「彼女も僕と同じ気分だったんじゃないかな。だから、僕と付き合ってくれたんだと思う。」
「彼との思い出を共有するために?」
僕は驚いて娘を見た。僕の言いたい事が娘には分かっているようだった。なんだか、一生分驚いたような気がした。
に行動してた。今、思うとおかしいんだけど、あの頃はそんな事全然思わなかったな。僕らは、今ではなく、過去の中を生きていたんだ。まだ小学生だってのにね。」
「でも、そんな事上手く行くはずが無いわ。」
「そう、僕らは彼が死んだ後、実際は二人だけなんだけど、いつも三人でいるみたい 「その通り。僕も、彼女も、すぐに気付く。このままじゃいけないってね。そしてその時は意外にもすぐにやってきた。」
「彼女が消えちゃったのね。」
「良く分かったな。」と言いながら、僕は薄気味悪いものを感じた。僕は話してるんじゃない。ある結末に誘導されているような気がした。話すよう仕向けられているのだ。
「彼女は転校したよ。小学三年生の時だったかな。僕は見送りにはいかなかった。」
「どうして、付き合ってたんでしょ?」
「僕らは、二人とも、ある程度分かってたんだと思う。このままではいられないってね。だからお互い別れる時は無関心だったんだ。まあ、小学生の話だから、他の子に気が移っちゃっただけかもしらないけどね。」僕は笑おうとしたが、笑えなかった。娘も笑わなかった。
「さあ、この話はおしまい。もう寝よう。」と僕は言ったが、その声は娘には届いていないようだった。
娘は難しい顔をして、何かを考えているようだった。娘の見つめている先には、濃い暗闇があった。テーブルのホットミルクはもう冷めていて、湯気は出ていなかった。
「さあ、もう寝よう。」と言って、娘の背中を叩くと、彼女はようやく立ち上がり、リビングを出て自分の部屋に行こうとした。でも、急に立ち止まった。
「どうした?」僕が声をかけると、娘はこちらを振り返って言った。
「もし、その話が本当なら・・・・」娘がこんな事を言い出すのは初めてだった。この話は嘘の話を本当の話のように聞くという遊びだ。娘もその事は分かっているはずだった。僕は娘の小さな唇を見つめていた。
「悲しいわね。だってパパの愛が彼女を捉えた事はなかったんだもんね。彼女の愛は常に死者に注がれていた。」
おい、よせよ、この話は冗談だぜ。そう言おうとしたが、喉が凍りついたように、動かなかった。
娘は僕の顔をじっと見て、闇にすうっと消えていった。僕は初めて娘を恐ろしいと感じていた。
幸いな事に明日は日曜日だ。朝からずっと、娘と二人きりだ。
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