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雨は在り続ける

作者: 木下秋

 エレベーターの扉が開いて、廊下にヌッ、と姿を見せたのは大柄な男だった。

 身長は百八十を優に越し、身につけている物は全て黒。スニーカーにジャージ、その上にダウンジャケットを着込んで、両手はポケットに突っ込んでいる。

 男は左に逸れると廊下を行った。ノシ、ノシ、と歩いた。窓から射す陽光が数秒おきに、その身を照らす。

 キャップを深くかぶり、うつむき気味に歩いていた。やがて一つの部屋の前で立ち止まると、ネームプレートを確認し、ドアをスライドさせて開く。

 ドアはスムーズに開いた。全く音もしなかった。男は足音を潜めて進く。部屋の中を仕切る幾つかのカーテンを指で摘むと、速やかにその向こう側を確認して回った。

 五つ目にして、当たりを引いた。男は静かに、ゆっくりとカーテンを引き開くと、その中に身を滑らせた。

 ベッドに、痩せた男が寝そべっている。瞼は閉じている。その脇の丸椅子には、もう一人男がいる。土に汚れた作業着のようなものを着込み、背を丸め、眠る男を見つめている。傷んだ金髪は伸び放題で、根元の黒が目立っていた。

 男は大きな手を伸ばし、金髪の肩をガシリと掴んだ。金髪の彼はビクッと一つ、震えると、振り向いて男の顔を見た。

「よう」

 潜めた声で、男が言う。

「アッ、アニキ……」

 振り絞るように金髪が言うと、男はグググ、と顔を近付けた。

「久しぶりだな」


 男の名は、前野といった。



 *



 ーーコンコンッ

「入れ」

 「失礼します」。前野がそう言って扉を開くと、中に充満した煙草の煙が逃げるように流れ出た。

 昼下がりの太陽の光を含んで、煙は大きく膨れている。二人掛けの革張りのソファーの真ん中に座った男、佐久間は足を広げ、背もたれに腕を預けて大の字の形になっている。首をぐにゃりとだらしなく曲げ、天井に向かって煙をふうと吐き出すと、座った目で前野を見た。

「オゥ、座れ」

 言われるがままに前野は正面のソファーに腰掛ける。背筋を伸ばし、佐久間と向かい合った。

「前野。お前この前のカチコミ、よっぽど気合い入ってたらしいなぁ」

 「ありがとうございます」。前野はそう呟くと、会釈をする。

「オヤジも喜んでたよ。良かったなぁ」

 佐久間はそう言うと笑った。底の冷えた笑いだった。

「……ところで、柴田の件だが」

 室内の空気にピリッ、と緊張が走る。佐久間は胸ポケットから茶封筒を取り出すと、目の前のガラスのテーブルに置き、差し出した。

「見つかったよ。ヤツは実家に戻ってるらしい。お前、直接行ってそれ渡してこい」

 前野は、封筒を受け取った。

 「破門状だ」。佐久間はそう言うと短くなった煙草を深く吸い、煙を吐き出しながら火を揉み消した。

「オヤジの寛大さに感謝しろ。まぁ先のお前の活躍もあるからな。殺されないだけマシってもんだ」

 一礼して、前野は立ち上がる。真っ直ぐ扉に向かい、開くと、「待て」と佐久間が呼び止めた。

 振り向くと佐久間は立ち上がっていた。ニヤついた顔で、新しい煙草を赤く光らせ、煙を吸った。彼の左手には、ボストンバッグが握られている。

「お泊りセットだ。持ってけ」


 家に帰った前野がカバンの中を確認すると、歯ブラシやタオルといった生活雑貨、ジャージ、旅券などが入っていた。


 その奥には、持ち手の黒ずんだ金槌やノミ。ホルマリンとおぼしき液体の入った、瓶もあった。



 *



「全身に転移しているらしいです。兄貴はまだ若ェから、進行も早かったみたいで……」

 両方の鼻の穴にティッシュを詰めた柴田はそう言ってビールをちびりと飲んだ。顔が真っ赤なのは先ほど前野にガツンと一発殴られたから、というのもあるが、彼が下戸だから、という方が強い。

 金髪頭をぼりぼり掻いて、前野をちらりと盗み見る。前野は瓶ビール二本を飲み干したところだが、全く変化は見られない。

「……だからって黙って出て行くヤツがあるか」

 ギロリと睨む。一重瞼の前野の眼が鈍く光る。

「すンません……」

 柴田は肩を小さくすぼめた。


 どこを見回しても山が見える。緑と青が視界を占める。そんな田舎で柴田は育った。十五の時に村を出て、前野に出会ったのが十八の頃。それからは前野の弟分になり、金魚のフンのように、カルガモの親子のように、コバンザメのようについて回った。

 柴田の兄貴分になった頃、前野はまだ二十四だった。まだ若く、熱く、鋭すぎるほどによくキレた。

 柴田は間が抜けていて、声を張ろうとすると裏返ってしまう癖があった。よくドジを踏んで、前野が尻拭いをさせられる事も多々あったが、怒鳴り、怒鳴られながらも、二人は共にいる事が多かった。

 十年近い月日が経っていた。


 次の日、柴田が病院に向かうと既に前野がやって来ていて、意識虚ろに目を覚ましていた兄と話し込んでいた。柴田と交代に、前野は出て行く。

 廊下に出て前野を追いかけた柴田は、前野に聞いた。「兄貴と何を話したんです?」

「アンタの弟のせいでこっちは迷惑してる、ってな」

 廊下の窓から外を見る。空には白い雲が一面に広がっていて、起伏も無く、ひたすら真っ白だった。


 やる事のない前野は二日目に柴田の実家に上がった。柴田兄が一人で住んでいた広い平屋に、今は柴田が一人で住んでいる。

 毎日畑いじりに精を出す柴田が採ってきたキュウリを、二人は縁側で齧った。

 みずみずしく、爽やかな味が鼻を抜ける。

「……案外うめぇな」

「でしょう」

「お前にちゃんと一端にできる事があるとはな」

「そんなぁ」

 風が強く吹いて、山の表面を撫でる。細かい葉々がざわめき、谷間が唸る。

 空を見た。灰色が濃く差している。空気が湿り、雨の予感をさせてーー


 その二日後に、柴田の兄は死んだ。雨がザァッ、っと降っていた。


 煙になった柴田の兄が、空に昇る。強い雨が降る。水煙と同化して、空気に溶けていった。



「アニキ」

 雨の止まない内に、前野は東京に帰ろうとしていた。駅のホームに置かれたベンチで、前野と柴田は一つ空席を間に置いて、並んで座っていた。

「手ぶらで帰るんですか」

「さっきオメェにこんなに貰ったじゃねぇかよ」

 前野は手に持ったビニール袋をガサガサいわせながら掲げて見せる。

「そうじゃなくて……」

「ほらよ」

 前野が渡したのは、茶封筒だった。

「逆に俺からの土産だ」

 中には、破門状が入っている。

「柴田。お前、二度と東京に足を踏み入れるな」

 前野はここで横の柴田を見た。しっかりと凄みを含ませて、それでいて脅しではなく。しっかりと見た。

「いいか。絶対にだ」

「アニキ。オレ、覚悟できてるんです」

 そう言うと、柴田は小指を立てて、拳を差し出す。

「持って行ってください」

 真剣な顔で、二人は見合った。雨はもう三日降り続いていた。駅のホームの周囲を取り囲み、まるでカーテンのように包んでいる。

 前野はカバンを探ると、瓶を取り出した。

「もう足りてんだ」

 その中には、小さな肉片が沈み、転がっていた。

 爪がある。小指、第一関節部分。

 柴田は驚愕の表情でそれを見た。

「了承は得てるぜ」

 遠く向こうから電車がやって来て、減速しながら滑り込む。前野は荷物を持つと、小指を立てたまま固まっている柴田を見た

「ヤクソクだ。わかったな」

 電車に乗り込んでからは、一度も振り返らずに前野は行った。

 ホームに残された柴田は出て行く電車を目で追い、視界から消え去った後もしばらくそのまま向こうを見ていた。

 二人の兄を想っていた。



 *



 ーーコンコンッ

「入れ」

 「失礼します」。扉を開けると、ちょうど光った雷が煙の輪郭を際立たせた。前野が佐久間と目を合わせたのと、雷の遅れて来た音が辺りに響いたのは、ちょうど同じ頃だった。

「ついさっき戻りました」

「オゥ、ご苦労だったな」

 前野はカバンから瓶を出すと、ゴトリ、とテーブルに置いた。

 瓶の底では小さな指の先が、ゆらゆら揺れている。

「フンッ」

 佐久間は鼻で笑った。新しい煙草に火を点けて、フッ、と一息、指先の埃を吹き飛ばすかの様に吹いた。

「汚ねぇな。下げろ」



 前野は家に帰ると、雨の降りしきる庭に傘も差さずに出た。桜の木の下にひざまづくと、両手で土を掻いた。

 出来た穴の前で、前野は瓶を開けた。指をホルマリンごと流し込むと、土を戻し埋めた。

 縁側に戻って座ると、ビニール袋を引き寄せて開け、キュウリを一本、取り出すと齧る。

 青臭く、もう美味しくは感じられなかった。

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