我、汝を支配せんと欲す。
遅くなりました。第二話です。
シャンパングラスの中で、黄色い液体が揺れる。そのたびに、向こう側に映る世界が揺れる。
「なあ、昔の日本は、人権の考え方が今と違ったって知ってるか?」
「ずいぶんと突然ね。伊吹らしいわ」
茶化すなよ、そう苦笑いして、彼は言葉を続ける。
「明治時代は、国民は『臣民』、つまり家臣として扱われて、人権も天皇から与えられるもの、そういう考えだったんだよ」
「突然歴史の話なんか始めて、どうしたの?」
「いや、さ」
摩天楼の居並ぶ夜の東京は美しい。大きな窓の外は、部屋の明かりや街路灯、誘導灯など様々な光に彩られている。ガス灯しかないぐらいの明治時代にはきっとありえなかっただろうな、と柄にもなく歴史の大河に思いをはせる。
「生殺与奪の権利は、全部支配者のものだったわけだ」
「そう」
「――これってさ、究極の愛なんじゃないかな?」
昨日、今日とお姉ちゃんは大学を休んだ。何があったのかは知らないけれど、お兄ちゃんが家を出て少しすると二人で一緒に帰ってきた。お姉ちゃんが泣いていたから「何があったの?」と聞いたけど、二人して答えてくれなかった。お姉ちゃんが自分の部屋に入ってから、十分くらいしてお兄ちゃんが少し理由を教えてくれた。
外で、恐い男の人に乱暴されたらしい。殴られたりした感じは無かったけど、お腹には青あざができているかもしれない。街に出るのが怖くなったけど、お兄ちゃんが「弱い女の子でも俺と一緒にいたら大丈夫だから」と言ってくれて、途端に大丈夫になった。
お兄ちゃんは、魔法が使える。
日本の学校に転校してきてからあまり経たないけれど、意外と楽しい。椅子に座ってる時間は前よりずっと長い代わりに、椅子に座らなくていい時間がとっても楽しいのだ。先生はクラスのみんなに優しいし、クラスのみんなはお互いに優しい。もちろん、アイラも優しくしてる。みんな優しいからいつも楽しい。椅子に座ってる時間も、思っていたほどイヤじゃない。
みんなが私に優しいのだと思うと、一見面倒なことの理由もわかってくる。避難訓練も、たまにあるイヤなことをあまりイヤにさせないための工夫だ。学校の人たちも頑張っているのだ。防災頭巾を地面に敷いて、その上にお尻を置いて座ると、隣にいた子に声をかけられた。
「昨日の『幽霊ウォッチ』見た?」
「あとで話そ。今しゃべっちゃだめだよ」
「ほら、二人とも、防災訓練の時は喋っちゃだめだよ」
先生に注意されて、アイラは思わず肩をすくめる。すると、隣の子がちょっとだけ吹き出し笑いをした。
下校するとき、お兄ちゃんはいつも学校の近くの信号の下で待っている。お兄ちゃんの出迎えを見ると、一緒に帰っていた女の子たちはみんな
「アイラちゃんの出迎えの人ってすっごいイケメンだよねー」「ヒノジュンくらいかっこいいよー」「モデルさんだったりしてー」
なんてやりとりをする。ヒノジュンというのは、いろんなバラエティ番組に出ているスーパーアイドルだ。本名は日野潤。日野潤なんかと比べちゃお兄ちゃんがかわいそうだ。だけど、クラスの女の子たちとおしゃべりするお兄ちゃんはいつも
「そんなにかっこよくないよー」
と笑っている。つまり、お兄ちゃんがこの世で一番かっこいいっていうことを知っているのはこの世でアイラだけだ。フィンランドにもいない。アメリカになんかいるわけないのだ。そう思うと誇らしい。
日本には、ゴールデンウィークがある。金の一週間。その名の通り、みんなが休めるすごく大事な一週間だ。
なのに、お兄ちゃんは仕事だ。働かなきゃいけない人が風邪で休んでしまったのだとお兄ちゃんは言っていたから、きっと断れない大事な仕事なのだ。ゴールデンウィークまで働かなきゃいけない人の代わりなのだから、きっと。
代わりに、いろんなことをする予定だ。クラスの女の子の家でお泊まり会をしたり、近所のゴミ拾いをしたり。でも、お兄ちゃんと遊べないのはどうしてもつまらなかった。
ご飯は、お姉ちゃんと二人だ。お姉ちゃんは料理がとっても下手っぴだから、ピザ屋さんに電話して持ってきてもらった。やっぱりつまらない。この前男の人に乱暴されてから、お姉ちゃんはあまりしゃべらない。
お兄ちゃんがいないからって説明してお泊まり会をお休みしようとしたら、電話口で喧嘩になった。我慢できなくて泣いたけれど、お兄ちゃんはいないから慰めてもらえない。余計悲しくなって大泣きした。次に部屋から出た時には朝だったけれど、昨日放り投げた受話器はぶら下がったまんまだった。
結局、一週間は何もしなかった。最後の一日だけ、お兄ちゃんは仕事を休めたけれど、お姉ちゃんと一緒に外に遊びに出ていた。学校に行くのがイヤになって、その日から部屋の鍵をかけて中に閉じこもった。
二日後、お兄ちゃんがドアを蹴破って入ってきた。いくら抵抗しても、お兄ちゃんの手はとてつもなく強くてどうしようもないのだった。
テーブルに座らされた。夏も遠くないのに、なぜか真ん中には鍋があった。ぐつぐつとスープが沸騰している。何度か食べたことはあるし、大好きなはずなのに、お腹は減らなかった。いや、お腹はペコペコだった。だけど、いまいちその感覚がなかった。
「食わないのか?」とお兄ちゃんが優しく聞いてくる。さっきまでの取りつく島もない態度とは大違いで、優しいお兄ちゃんは大好きなのに、今はなにも嬉しくない。
「……お兄ちゃんの意地悪」
「え?」
「さっきまでアイラに暴力振るってたくせに! 昨日は何にもしなかったくせに!」
「え?」
「今だって、優しいんじゃなくて優しくしてるんだ! アイラの事なんてどうでもいいけど、お兄ちゃんが困るからこうやって優しくするだけしてるんだ!」
「どうした? なんで怒ってるんだ?」
「わかるくせに! とぼけるな! 吐け!」
知ってる怒鳴り方を片っ端からお兄ちゃんに叩きつけたけど、お兄ちゃんは大して怯んだ様子もなく、心配げな表情を浮かべたまんまだ。あんなの演技だ。
「やっぱり怒ることは最初からわかってたんだ! アイラの事怒らせてるんだ!」
「さっきから何を言ってるんだ……?」
お兄ちゃんの顔の、『心配』が『困惑』に入れ替わった。
「アイラの事なんて全然気にならないんだ!」
思いっきり叫んで、それから息をゼェゼェと荒げる。目を伏せていたお兄ちゃんが、何事かつぶやいた。
「何よ!」
「お前、言いすぎだって言ってるんだ!」
お兄ちゃんが、怒鳴った。体がびりっと震えて、全身に鳥肌が立つ。
え、なんで? どうして? お兄ちゃんが怒るわけないのに……何が起きたの……?
こらえきれずに嗚咽が漏れた。自分でも驚くくらい大泣きしていた。そんな自分への戸惑いが上乗せされて、余計涙があふれていく。
「っ……ごめ……」
その時、入り口の方で音がした。お姉ちゃんが入ってきたらしい。精一杯首をひねると、その姿が目に入った。
お姉ちゃんは、打ちのめされているように見えた。
『あんたはね、檻を作ってんのよ、檻』
呆れ顔で、彼女は言う。俺はすかさず訊ねる。
『檻?』
『ええ、檻』
くるくると、優雅にグラスをまわしながら、彼女は続ける。
『ニブいその伊織って子にも、アイラちゃんにも――』
そこで妙な間を開けてから、
『――気付けないような、広い檻』
アイラが部屋に戻ってから、鍋を前にして俺はその会話を思い出していた。
「檻、か……言い得て妙だな」
アイラをカウントしている理由は判然としないが、確かにここにあるのは檻だ。ならば、あえて俺はこの流れに乗り続けようか。
「――檻を作ろう。鈍感な君が気がつかないくらい広い檻を……」