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人は即ち人を求む。

「いいか、三、二、一で飛びかかるぞ」

「うん」

 標的あたしをはさんで向かい合った二人組が、小声で確認をする。……不安だ。ぞわ、と鳥肌が立つ。何なら今大根をくれれば下ろします。

 片や、眉目秀麗な好青年。凄まじく端的な説明になっているけれど、正直こんなものだ。

 あえて言おうとすれば、いくらでも言いようはある。切れ長の眼の中央で爛々と輝く漆黒の瞳には、欠片のくすみもない。流れるような高い鼻の下には、手入れの生き届いた血色のいい唇が引き結ばれている。少し扱いに手間取りそうな豊かな癖っ毛がうなじを隠す。普段は相手を玩んで楽しんでいる彼の表情は、薄い笑いを今だけずいぶんと真面目そうなものに変じさせている。何のつもりか、右手にはトング。総合して、眉目秀麗な好青年(ただし変)。

 片や、庇護欲を掻きたてられる美少女。これで彼女の性質は八割以上言い表せる。

 こちらも具体的に説明していくと、ぱっちりと円い二重の眼の真ん中に、青銀色の瞳がピカピカと光を発している。小ぶりで可愛らしい花と、端っこから涎が垂れそうな柔らかげな唇。くすんだブロンドの髪色が、腰のあたりまで波打っている。純真さと愛らしさに満ちた顔を、正義のために戦う戦士の見習いのように固くしている。マント代わりのシーツが床をこすっていて、前はルーズに閉じられている。何故裸にシーツを巻いただけの格好かと言えば、一重に同居人を信頼しているから。あたしからすれば、全く信用ならない男でしかないのだが、ちゃっかり少女のハートをつかんでしまうのがこの男の恐ろしいところ。絶対に許されない。

「三、二、一……」

 と、そこで男がカウントダウンを開始。こちらも準備を整える。

「行け!」

「とぉ!」

 マントを翻して、少女があたしに飛びかかってきた。素早く掛け布団を男のほうに蹴り飛ばしたあたしは、ヒシッと少女を抱きしめる。

「大丈夫? 怖かったでしょう? よく頑張ったねぇ」

 髪を撫でると、少女の表情が驚きと戸惑いと気持ちよさとでごちゃごちゃになる。

「起きてたのか」

 悪びれる様子もなく、男――伊吹が髪を掻き揚げてこちらを見下ろす。左手には、先ほどあたしが蹴飛ばした布団が握られている。Sっ気の混じったような薄い笑顔を向けてきた。そういえば一年以上前にはこの表情一つでドキッとしてたなぁ、と遠い記憶を引っ張りだした。


「――おい。おーい」

 そこで、ハッと瞼をあける。

「寝たのかよ」

 あきれたような苦笑。やっぱり黒い。人をどこか馬鹿にするようなその表情は、主観を取り除けば心をざわつかせるファクターだ。

「おねーちゃん、早ーい!」

 そういってあたしを笑うのは、日本人とフィンランド人のハーフたる少女。名前はアイラ。今度の六月で十四歳になる彼女は文字通り愛らしい、というのは若干おやじギャグだから口に出したことはない。伊吹とは、歳の離れた従兄妹だったはずだ。血が繋がっているからか、まだ幼いからなのかは分からないが、伊吹は決して彼女に手出しをしない。手出しと言うのはつまり、惚れ薬めいた手管の数々を指している。小さいからだろう。間違いなく。三親等程度だったらいくらでも毒牙にかけそうな恐ろしさがこの男にはある。

「ほら、さっさと起きろ。布団片づけるから」

「いつも言ってるでしょ、こっちの事はこっちでやる」

「宿主にはちゃんと従え」

「宿主じゃなくてルームメイト」

「何度も言ってるだろう。こっちが部屋を使わせてやってるんだ」

 表情は、先ほどまでとはやや違って高圧的だ。これが近所のおばさんの話術にかかると「かっこよくて口も上手くて、そのうえけじめがつけられる真面目な子よね。年甲斐もなく惚れちゃうわ~」という評価にすり替わる。職場から毎年持ち帰ってくるバレンタインのチョコは、その日だけ柄にもなく彼の健康の心配をしてしまうほど大量だ。しかも、あたしの見立てでは九割以上が本命。ちなみに残りの一割弱はあたしとアイラと伊吹の妹さん。いや妹さんはちょいと怪しいか。

「もう……。ご勝手にどうぞ」

 やけを起こしたような自分の声に少しだけびっくりする。意外とあたしは彼が嫌いではないみたいじゃないか。妙に恥ずかしくなってさっさと立ち上がり「責任もって全部やりなさいよ」と早口でまくし立てて退室する。

 洗面台の前に立ってから、遅れて「何やってんのあたし!」という方面の恥ずかしさが襲ってきた。ぐるぐるぐるぐる……、と勢いよく蛇口をまわして、顔を叩くように洗う。

「あ」

 顔の火照りが収まってから、洗面台におかれた洗顔料が視界に入って、思い切り肩を落とした。

「今年だけは気をつけるって決めたのに……」

 別にダメな顔ではない、と思う。すっぴんでも見れないことはない。だが、高校の一時期は化粧がしたくてもできないような肌だったのだ。だから、大学に入ってからは日々のちょっとしたことでも美容に気をつけようと決めたのだ(結局大学生活のここまでの一年かはなかなかうまくいかなかったが)。いろいろと有効な手段を調べたが、一度も『顔は叩くように洗え』とは見たことがない。

 仕方なく、せめてタオルだけはじっくりと当てるようにして顔を拭いた。


 リビングの時計は、七時半を示している。朝ご飯を三十分以内に食べれば、サークルに顔を出すにも充分な時間が余る。

 そんな事をボーっと考えながら、ジャムを多めに塗りたくった食パンを口にくわえた。

「その状態で外に出て、『遅刻遅刻ー』と丁寧に発音しながら前しか見ずにブロック塀の角を曲がったらどうだ?」

「指示が細かーい!」

 アイラが、果てしなく流暢な日本語を発して笑う。

「大学で転校生イベントなんか起こるわけないじゃない」

 第一、そんな乙女な妄想はしませんからー。そういって指でグニッとパンを押しこみ齧りとる。手元に置いたホットミルクは、まだ熱すぎて手がつけにくい。

「へぇー、もう乙女じゃない、と?」

 そういってブラックな笑顔を浮かべる伊吹。言葉の裏側に『乙女』という言葉の示唆するものを感じ取って、とっさに体を背けながら「変態ッ」と声を荒げて言い返す。はははっ、と声高く笑われた。どうにも腑に落ちないままカップを持ち上げて口に寄せると、八十度は下らないのではないかと言うほど高温のミルクが舌先を焼いた。

「熱ッ」

「ほれ、貸してみろ。冷ましてやるよ」

「えっおーえふ!」

 口を閉じるに閉じれないせいで、なんて言ったのかよくわからない発音になってしまった。口に手を当ててフーフーと執拗に息を吐く。

 どうにか痛みが治まってきたあたりで、カップに口を寄せ息で冷ます。それをしながら眼は伊吹を睨み、『油断も隙もないわね』と怒って見せる。本当に渡していたら今頃何をされたか知れない。あたしが口をつけたところを一舐め、くらいのパフォーマンスはしても何らおかしくない。

「そういえば、成人式、行けなくて悪かったな」

「何よ今さら」

「いや、写真が目についてさ」

 そういって組み合わせていた手の上の顎を浮かし、あたしの背後へしゃくる。ついその優美な細い腕に目が言ってドキリとするが、それを押し殺して伊吹の示した方向を向く。

 そこに飾られているのは、フォトフレームだった。あたしが小学生だか幼稚園児だかの時に粘土工作を張りつけたりして装飾した、全体的にパステルブルーな色合いのもの。そして、そこに差し込まれている写真は、この冬にあったあたしの成人式の時の写真。派手な振り袖で着飾っていて、隣には母が立つ縦の構図の一枚。別段特殊でも何でもない、ありがちな記念写真。

 ああ、と当時のこと――そこに伊吹がいなかったという事実――を思い出してから

「別に全く気にしてないわよ」

 と答えた。だが、伊吹のほうからすれば重要なことなのか、「そういう妥協はするもんじゃないぞ」と少し笑って言う。えらく澄み切った笑顔がいつもと違って、不覚にも心臓が跳ねた。

 まったく、嫌になる。


 いろんな物事がいったんは落ち着いた。そう確信してから、あたしはドアを開けた。

「ふわぁぁぁ……」

 すぐに腕をかざし、目を細めて上空を見上げた。白日の下にさらされて声が漏れる。別にやましいことがあるわけじゃない。――いや、ある意味ではそうなのだろうか。空が、とてつもなく美しかった。雲ひとつない、だけじゃない。これほどまでに透き通って見える空は、梅雨目前のこの時期には珍しいはずだ。写真の一枚でも取ろうかと思ったが、どうせ空など写真写りが悪いに決まっている。きれいなものを劣化コピーする最新技術を駆使して得することはなさそうだ。代わりに、脳裏に強く押さえつけてばれんでこすった。

 これだけやればもう。というところまでやり終えてから、あたしは数段のアプローチを駆け降りた。


 まさかここにきて気付いていない人はいないかと思うが、あたしは女性だ。改めて説明したのはなぜか、そういった問いは予測済み。

 あたしは、安全なシェアハウスを出れば一人のか弱い少女だ。小学校のころから休み時間を本とばかり過ごしていたせいで、小六でも『女の子走り』『女の子投げ』がデフォルトだったくらいだ。『か弱い』という表現に齟齬はあるまい。そして同時に、弱いということが女性としてステータスとなりうる。こと異性に関しては。だが、そこは当然というべきか、ある一面で恵まれた物には必ず損する部分がある。今回の場合、それは本来的な『弱い』に直結する。

 男性による、暴力。

 最寄り駅へ至る、車道が道のほとんどを占拠する道。傍らにとめられた車の脇を通った。――あるいは、経験が伴っていなかったために認識が甘かったのか。知識としては、掩蔽物の影が危険だということくらいわかっていた。だけど、普段見慣れた町で、一度として他人に傷つけられたことのない人間あたしが、周りに怯えることがあるのか? あたしはそんなに自意識過剰な女ではないし、自分が人並みでしかないことも心の底からわかっている。

 あたしが思いがけず冷静な思考を保っていられるのは、どういうことだろう。たとえば、まだ朝の遅くない時間帯であるということに安心をおぼえているのか。あるいは、最初にあたしの手首を掴んだ握力に抵抗の無意味さを悟ったからなのか。もしくは、ただ単純にあたしが随分と冷めた人間であるということもありうる。

 一ミリのかっこよさも無い、下卑た男三人は、車の中に押し込められたあたしをやにでも塗りたくったような笑いとともに見下ろす。白昼堂々の犯行に、遅ればせながらあたしの脳がパニック状態を伝える物質を分泌し始めた。後部座席に無理やり横たえられたあたしが、今さら男に抑えられた口から叫び声を発そうとしているが、三人は顔を見合わせて頬を上気させている。

「おい、どうするよぉ?」

「そりゃ、イヒッ、順番に好きなように、だろ……!」

「何で一対一前提だし意味わかんねえし。馬鹿じゃねぇぇぇの下半身で頭考えてんじゃねぇぇぇぇぇぇぇの! ハッ!」

 汚く混濁した三者三様の声が、汚く混濁した三者三様の言葉を口にする。

「話まぜっかえすんじゃねぇ」

「ひひひっ、実際『そーいうの』もありかもな……!」

「マジ適当すぎるだろ頭おかしいんじゃねえの。死ねよ。マジ死ねよ。おいキィィぃてんのかよぉぉ」

 打開できない状況に陥った時、真っ先に人が頼るのは、言うまでもなくその人にとって頼るに値する人だ。あたしは、当然のことながら、伊吹を念じた。当然、そんな都合よく世界は回ってくれやしない。それでも、弱者が最後に頼れるのは騎士ナイトだけだ。

 伊吹! 伊吹! 伊吹!


「おーい、なーにしてんだー?」


 車の中が暗くなる。窓から入ってくるはずの光が、届かなくなっていた。強く閉じていた瞼を、ゆっくり開ける。涙の跡が固まりになって、ボロボロとこめかみを落ちていく。目が痛い。けど、今さらそんなことなんてどうでもよかった。

 今だけは神様を信じたい。そのシルエットは、今さら見間違えようもなく、どうしようもなく、あの鬱陶しい、鬱陶しいくらいかっこいい男だ。

 伊吹は、車の屋根に指を引っ掛けて、ウィンドウから首をつっこんでいた。首筋が、顔の左右の動きに合わせてしなやかに弧の向きを変え、そのたびに逆行が差し込んでくる。

「おーおー、弱い者いじめはよくないぞー」

「ッるせぇぇぇぇよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 車の背面側から男の絶叫。辟易したような表情を浮かべ、しゃがみこむ。すっ飛んできた男は、そのまま車の前側へ吹っ飛ぶ。伊吹の顔が、窓の下縁から現われる。どうやら、タイミングを合わせて立ち上がり、男の進行方向を上へ屈折させたようだ。

「知り合いなんだわ、返してくれえねーかな?」

「ありえねぇな」

「そっすか」

 そこから、ドアの取っ手に二人の手が伸びるのはほぼ同時だった。だが、親指を相手の指の隙間に潜り込ませた伊吹が器用にロックを開け、弾くようにノブを内側に引く。外に向かって開くドアをどうやって開く気かと思ったら、窓から飛び込んだ。運転席で抵抗していた男が押しつぶされた。

「悪い、遅れた」

「……べず、ぃ……」

「別に」と言うつもりが、思いがけず自分は泣き乱していたらしい。そこで初めて、顔がボロボロになっているのを自覚して、恥ずかしくなって顔を覆う。さらに服も少なからず剥がされていたことにも遅ればせながら気付き、席にうずくまった。

 意外と、自分は軽薄で尻軽かもしれない。

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