「オーレリアあるいは夢と人生」 ジェラルドネルヴァル 試論
「夢は第2の人生である」というあまりにも有名なこの言葉から始まる、この小説は
フランスロマン派の最高傑作であるばかりではなく、フランス文学での傑作でもあろう。
と思う。
そもそも
いったい、私たちは夢見ている存在なのであろうか?
現実って実は夢だったのではないのか?
、私たちにとってのこの目覚めている昼のときとは、ただ、眠りこけて、俗世の夢を見ているだけなのに過ぎなくはないか?
そうして夜とは実は真の目ざめでありその夜見る夢こそが
本当の現実なのではないのか?
という疑惑?に
私は、ずっと悩まされていた。
そんな時のある日
であったのがこの「オーレリアあるいは夢と人生」という
ジェラルドネルヴァルの珠玉の小編だったのです。
まあ、
現実崩壊感?といえば精神病の一つの特徴でもあるのだが、
昔から、、芸術家とか作家には
この現実ニセモノ?感に悩まされていた人が少なからずいるのでしたね?
この私がそんな、たいそうな、作家でもあるはずもありませんが
でも夢想的な少年ではあったのでしょうね?
夢で出会った、ガラテアのような少女は、ただに、昼のあの舗道の、
平凡な女子高生ではなかったのか?
其れとも、前世のカルマによって、出会うべく定められた,宿命の女
ではなかったのか?
時々、耳鳴りのように聞こえる、悪夢は、実は現実という夢にすぎなかったのか?
ある日、ふと、真の目覚めが訪れて、この、いじましい、現実という悪夢から
解き放ってくれるときがくるのではないだろうか?
そして私たちはみんな、実は何らかの意味において、流託の天使だったのではないだろうか?
この塵芥まみれの俗世に故あって、追放された、貴種流離のホムンクルスだったのではないか?
「我もまた、かって、アルカディアにありき。」
誰もがそう思っている。
楽園憧憬が万人の心に根強く巣くっているのはそういうわけだったのだ。
「真実は明かされなければならない。」ヘルダーリンはそう神々に問いかける。
私たちは動物としての一生を送るだけではない。
心の中にはいつも、常に高貴なるものを求めている存在でもある。
飲んで食っているだけでは、人間というものは決して満足しない。
聖なるもの、神なるものを人はその心性から求め続けるだろう。
ただし、現界と夢幻界の区別がつかなくなった、つまり、狂気の淵に沈みこんだ
ネルヴァルはある日、街角の電柱に縄をかけて、縊死するしかなかったのだった。