第一話
「んっ……んぅっ……」
倒れていたアリョーシャの瞳が痙攣し、呻き声のようなものが漏れる。
「……ここ、は? 私は確か――」
瞬間、思い出すのは圧倒的気配を纏う声の主と、それに勝るとも劣らない影の何者か達とのやりとり。
内容の告げられていないゲーム。その報酬。
そして……
「そ、そうだ! 確か……性別反転だと――」
そう。“性別反転”、その絶望的な言葉を思い出す。
そして気づく。元の声より今口に出している声が、遥かに高く、まるで少女のようだと……
顔から血の気が引くのをアリョーシャは感じ取り、ふらふらと数歩後ろに後退ってしまう。
震える足が何かに引っ掛かり、尻餅をついた瞬間、手の平に何か冷たい感触を感じてハッと振り返る。
「ここは……森の中、なのか。手に感じた感触は、泉……か?」
小さな泉だった。湧き水を源泉に直径数メートル程度の。
清らかな、透明感溢れる清涼で冷たい水が滾々と湧き出しては、僅かな窪みから細い流れとなって地面に流れていっている。
それを横目に、ごくりと生唾を飲み込むと、ゆっくりと泉に全身を乗り出した――
そしてそれを見た瞬間、アリョーシャの表情が固まった。
「ば、馬鹿な……こ、これが私だと……?」
ハハハッと、乾いた笑い声が馴染みのない高音領域の音となって漏れ出る。
泉に移った姿は、所々面影はあるものの、どう贔屓目に見たって見目麗しい“少女”であった。
腰まで流れる艶やかでストレートの、木々から差し込む光を受けて天使の輪を煌かせる、長さを整えた姫カットの頭髪は男の時と同じく漆黒だ。
前髪は眉が見え隠れするよう長さを整えられ、両横の一房ずつだけが胸元の長さで整えられている。
きりっとした眉はやや細めながらも長く整い、重たげな睫に縁取られた切れ長の瞳はやはり生前と称して良いのか、男の頃の面影が色濃い。
が、同じく漆黒であった筈の瞳は神秘的な紫水晶の輝きを宿し、まるで吸い込まれてしまいそうだ。
キリリとした鼻梁は男の頃よりは低めながらも整い、やや薄めの唇は薄っすら桜色だ。
よく見れば髪からちょこんと。小さく飛び出すように尖った耳が見える。
ペタペタと思わず触れてしまった頬はしっとり柔らかく、まるで吸い付くかのような手触り。
肌の色も生前の戦場暮らしで焼けた肌とは正反対で白く、まるで日に焼けた事がないかのようにも思える。
その手も男の時よりずっと小さく、剣ダコの一つもない、細く長い綺麗に整った手と指であった。
こんな手で今までのように剣が振るえるのかと、己のアイデンティティにも関わる問題が思い浮かぶ。
在り得べからざる経験を身を持って体験し、気の抜けたような、絶望したような溜息が漏れ出す。
まるで走馬灯のように妹の事やベルギース陛下、それに婚姻が近かったベアトリクスの事が脳裏を駆け巡った。
が、そこであの神と呼ぶには邪悪に、しかし悪神と呼ぶには奇妙な声が言っていた報酬を思い出す。
高々肉体が性転換したくらいが何だと。安っぽいプライドなど犬に食わせてやると立ち上がる。
そこで、己の着ていた衣服が生前着用していた正装用の軍服であると気づいた。
「これは……御丁寧にサイズまで合わせてくれたのか?」
手のサイズ、周囲の木々の大きさ、泉との距離感から、おおよそ自身の身長が150センチとちょっとにまで縮んだのだと把握したアリョーシャは、軍服のサイズ調整などと言う妙な所で気の利いた部分に軽く笑みを浮かべる。
どうやら剣まではないようだが、衣服があるだけでも十分だと判断する。
正装用とは言え、特殊な金属糸が織り込まれており、その耐久性や耐刃性、その他諸々に優れているのだ。
が、その分重さは並みの軍服の数倍となっているのだが、生前程度には気にならない事に気づく。
軽く体を動かし、手頃な木々に鋭い呼気と同時に軍靴で蹴りを叩き込む。
いささか体格の変化に惑うが、数度も繰り返せば取り敢えず軽い運動なら問題ないレベルまで馴染んでいく。
その反動と感触から、運動性能に劣化どころかより力強い感じがした事を確認し、この華奢な体の何所にそのような力が……と、嬉しい誤算と共に驚きの表情を浮かべる。
「この姿で、筋力は男の頃レベル……いや、下手するとそれ以上なのか……」
周囲からは獣の類の気配は感じていないが、この肉体では感じられないだけかも知れない。
いざと言う時、これならどうにかなりそうだと安堵の息を吐く。
一通りの身長の誤差によるバランス感覚の調整、女の身であるこれから先訪れるだろう面倒ごと。
諸々にアリョーシャなりに整理を付け、さてどうしようかと思った時――
――メールが届きました。観覧致しますか?
――YES&NO ←
と、女性の声らしきものが脳に直接響いた。ややエコーの掛かった独特の、彼は知らないが、合成音声と呼ばれる類のものである。
その声にビクッと反応し、周囲の気配を探るが、相変わらず不気味なほど生命の気配を感じない。
どこか神聖とも呼べる空気が漂っているのみだ。事実、ここは神の祝福を受けている場所であり、邪悪な者は侵入出来ない。
脳内には今でもYES&NOと言う文字が不自然に浮かび、まるで判断を待っているかのようだ。
ごくりと唾を飲み込み、心の内で取り合えずYESと答えてみる。
「――ッ!?」
押した瞬間、あまりの驚きにアリョーシャは腰を抜かしそうになる。
ポンッと言うどこかコミカルな音と共に、空中に質感を感じさせない半透明の、硝子のような絵が浮かんだからだ。
いや、それは絵と言う感じよりは、何かの説明文章だろうか。
うっすら向こう側の景色が見える、半青色の厚みのない長方形の物体。
その表面には“送り主:無貌の神 件名:ようこそ、ゲーム・ザ・ワールドへ”と書かれている。
まるで何かの手紙かその類のようだと思い至り、震える指先で恐る恐るnew! と書かれたその文字に触れてみる。
「……ッ」
先ほどよりはマシであったが、それでも驚きの気配は隠せない。
半透明で硬質な質感の厚みのない画面は、触れた瞬間に表示された文字を変化させたのだ。
思わず後退ってしまったのだが。まるで一定の距離を保つかのように、その画面は離れた分だけアリョーシャに音もなく接近してくる。
恐る恐るその画面、“ウィンドウ”を覗き込めば、表示されている文章が変化しているではないか。
《これを見ていると言う事は、どうやらしっかりと転移は出来たようだね。さて、君が受けたゲームのルールは単純だ。死ぬな。死亡は脱落とイコールだからね、私としても望ましくない》
《君が達成すべき条件。それは明確な形では存在しない。君のあらゆる行動、その全てがとある数値として加算され、その結果で判定は行われる。ただ、何か大きな……例えば、その世界での知名度が上がるような事は、大いにプラスになるとだけ言っておく》
《さて、更に言えば終了の期間も特に存在していない。私達は無限の時を生きるからね、気が長いのさ》
《そうそう、軍服に関してはサービスだ。君の種族には最初から不老化と長寿がセットだったのでね。私の加護付だ、性能は保証するよ》
と、そこまで読んだ所でウィンドウには次と言う項目があり、文章は途切れてしまっている。
内容には別段思うことはなかった。常にあの者達の掌の上、あるいは目に晒されていると思うと、幾分の不快感は感じたがそれだって報酬からすれば些細なことだ。
取り敢えずそっと次と言う部分に手を触れれば、新たに画面が変化した。
《さて、ここからはこの世界や。今君が使用しているツール、他にも戦闘やパラメータと呼ばれる物の説明に入る》
《中には何の情報も与えず放り出す者も居るのだが……私はそこまで鬼ではない。最低限の情報は提供するさ》
《さて、君の使っているツールはこの世界に居る者なら誰でも扱える。名を“コミュニター”と呼ぶ。また、あらゆる事はこのコミュニターを経由して行う事になるだろうから、後で心の内でコミュニターオンと念じ、ヘルプと言う項目を見るといいだろう》
《この世界に関してだが。君の元居た世界とは違い、“魔物”と呼ばれる存在や、“神”と呼ばれる存在が実在している。魔法なんて言う君には馴染みのないのも存在するが、そっちはこの世界でその内対面するだろう。それでも知りたければ、ヘルプの質問項目から質問するといいだろう。この世界のあらゆる情報群を統括している、“機械姉妹”が答えてくれるだろうからね》
と、またもやそこで次と言う項目に達し、文章が途切れてしまっている。
長文で疲れた目を軽く揉み解し、もう一度次ぎと言う部分に触れる。
新たな文章に画面が切り替わるが、流石に今度は驚きはしない。
《さて、この世界はとある世界の“RPG”と呼ばれる遊戯を参照していてね。と言っても、何の事かは分からないだろう。一部連れてきた参加者が『ヒャッフー! チート万歳! 転生万歳! ハーレム作るぜぇッ!!』と、よく分からない理解を示していたがね》
文面からは苦笑のような物を感じ取り、アリョーシャも思わず釣られ笑いをしてしまう。
尤も、“ちーと”とやらは意味が不明であったのだが。
が、次の言葉でやはりこの文章の主は性悪だと改める。
《まあ。そう言った者の大半は実は数ヶ月以内で死亡してしまうのだがね》
《この世界では様々の能力がパラメータ。つまりは数値として表示される。試しにステータスオンと念じて見給え》
(ステータスオン。これで言いの――)
と心で呟き終わる前に、半透明のウィンドウがもう一つウィンドウの横に出現する。
そこには幾つかの項目が存在していた。
一番上に総合と書かれた項目。更に能力値やら技やら魔法やら、他にもスキルや称号なんて欄。
装備や道具何て言う欄まで見られる。
《どうだね? ステータスウィンドウは表示されただろうか。取り敢えず順に説明しておくとしよう》
《一番上の総合。それは名のとおり、己の状態を総合して見られる簡易表と言ったところでね》
《次の能力値は己の身体能力その他を数値化、更に成長性やグラフで能力の偏りなどが見られる》
《技や魔法は習得した物の詳しい説明などが見られるから、習得したら覗くといいだろう》
《スキルと言うのは存在するだけで効力を発揮するものや、特別なものを習得した際に記載される》
《最後に。称号だが、これはこの先で数多く手に入れる事になるだろうね。意味はその通りだが、入手方法は多岐にわたる。何か効力などを発揮する称号から、名誉的なものまで数多く存在するだろうから、暇があれば集めてみるといい》
《まぁ、こんな所だろうかね? 後は君がこの世界を旅していけば、自然に身につく事だろう。そうそう、当座の資金として幾らか入れておいた。活用するしないは君の自由だ、それでは。君の行動が、我々の暇を潰してくれることを祈っているよ!》
《と、忘れていたよ。言語に関しては安心するといい。この世界では自動翻訳と変換機能がオートで付いているからね》
と、そこで文章は終わりであった。書かれた内容をじっくり吟味していく。
――30分程かけて、取り敢えずは書かれた内容の独自での解釈。
それに“コミュニター”の機能把握を終える。
どうやら金とか持ち物は入手すると一度異空間に仕舞われるらしく、所持金含め仕舞われた物は道具と言う項目。
そこからアイテム名をタッチし、“具現化する”と言うのに触れると手元に出現するらしい。
同じく所持品のアイテム名に触れ、“仕舞う”と言うのに触れれば異空間に収納されるようであった。
「恐ろしく便利だが……盗まれる心配はないのだろうか?」
尤もな疑問なのだが、今のアリョーシャにはそれを知る知識がない。
そう言えば、ステータスの確認だけはしていなかったと思い出し、ステータス画面を起動する。
更に取り敢えずはと、総合と言う部分を押して見る事にした。
《総合》
プレイヤー名:アリーシャ・レイヴニアン
種族:魔族(???)
称号:元英雄
職業:なし
レベル:1
技力:31
精力:14
状態:正常
次のレベルまで:あと80
《装備》
頭:無し 首:無し
身体:異界の軍服《英雄の正装軍服》 腕:無し
手:無し 下半身:異界の軍服《英雄の正装軍服》
足:異界の軍靴《英雄の正装軍靴》 アクセサリ:無し
アクセサリ2:無し アクセサリ3:無し
《能力値》
体力:18(+8) 筋力:18(+8) 敏速:17(+8)
器用:8(+0) 魔力:0(+0) 精神:18(+10)
運:8(+0) 魅力:14(+4)
《物理耐性》
貫通:4斬撃:4打撃:4
《魔法耐性+異常耐性》
無:4火:1水:4風:4雷:4
土:4光:1闇:6特殊:2
ふと、一番上の名前でアリョーシャもといアリーシャの頭に疑問符が浮かぶ。
そこでそう言えばと。性転換に気を取られていたが、種族の変換と名前の変更もあった筈だと……
ヘンテコな名前ではなく、元に近い名前なのは幸いと言うべきか。
種族に関してはどうやら詳しい判別はされていないのか、クエスチョンマークだが、尖った耳がきっと特徴なのだろうと納得する。
能力値が一体どのような効力と言うか、何を表しているかは何となく名前で分かるのだが。
どこかで一度調べる必要はあるだろうと、アリーシャは思考する。
技や魔法の類は取り敢えず覚えてないらしく、何も記載されていなかった。
能力値には成長性と書かれたものがあり、ステータスのものと同じ数値の横に、アルファベッドが振られていた。
これも調べる必要性があるだろうとアリーシャは判断。
同じく耐性関係も想像はつくが、具体的な効果までは不明である。
次にスキルと言う項目を開けば――
《習得スキル》
剣術の心得★★☆☆
(☆一つに付き、剣を用いた戦闘でのダメージを1%上昇させる)
槍術の心得★★
(☆一つに付き、槍を用いた戦闘でのダメージを1%上昇させる)
鍛え抜かれた肉体
(物理的なダメージを一定割合軽減し、あらゆる物理的な硬直が減少する+体力・筋力・敏速にボーナス)
鍛え抜かれた精神
(魔法的なダメージを一定割合軽減し、精神的な状態異常に陥りにくくなる+精神にボーナス)
戦闘経験
(多くの戦闘経験は迅速な行動を可能とさせる(直感的に相手の攻撃を感じ取る事がある+冷静な思考を保つ))
戦闘理論
(あらゆる戦闘場面で最適な行動を可能とする(直感的に最適な行動を取る事が出来る+冷静な思考を保つ))
戦場指揮
(数多くの戦闘指揮経験は、より最適な判断を導く(戦闘指揮による仲間への効果を上昇させる+最適な判断をし易くなる))
気配探知★☆
(周囲の気配を探る技能(奇襲される確率が減り、罠や隠し扉の類を発見し易くなる))
気配遮断☆☆☆☆
(己の気配を誤魔化す技術(奇襲成功率が上昇、また技能レベルにより近くまで接敵しても気づかれ難くなる))
カリスマ☆☆☆☆
(あなたの身に着けてきた経験と容姿は数多の人を魅了する(あらゆる行動に未知の補正が掛かる+魅力にボーナス))
それらを眺めて、どうやら生前での行動が多少なりとも反映されているらしいと知る。
剣術も槍術も生前では得意としていた獲物だ。得に剣術に関しては相当な自負がアリーシャにはあった。
戦闘経験や理論が、魔物と言う相手にどこまで通用するのかアリーシャは疑問であったが、無いよりはマシだろうと判断。
カリスマと言うのが今の容姿のせいなのか、生前の英雄と言う括りのせいなのか、今一判断の付かないところではあるが……
道具に関しても見ておこうと思ったが、気づけばかなりの時間、この場所に居ることに気づく。
詳しい時間を計る術はないが、木々から見える空に太陽は見えない。
つまり、既に日は傾き始めていると言うことである。
魔物が夜行性かどうかなど、アリーシャが知る所ではないが、それでも夜が危険なのは同じであろうと判断。
取り敢えずはコミュニターの項目にあった“MAP”をクリックしてみることにする。
すると、現在地点。己の場所を中心に半径10キロ四方の地図が展開された。
端には距離の目安となるメートル表示と、プラスとマイナスと言う、地図の距離を変更する機能が付いている。
それらを確認し、一番近い街を探していく。すると、ここから直線で2キロ程度の地点に“リブルーラ”と言う都市があるのが分かった。
「何をするにも拠点は必要だろう」
そう呟くと、アリーシャはリブルーラ方面。つまりは西に向けて歩き出す。
森自体は数百メートルで抜けられる筈だと地図から判断し、念のため周囲の気配と音に気をつけながら進んでいく。
アリーシャの長い冒険譚の始まりであった――――
後書き
ちょっと長めな一話でした。
主人公は性転換したことより、それによって起きるだろう戦闘の変化の方が心配。
傭兵で培った鉄の精神はちょっとした事では動揺しないのです(多分