プロローグ 後編
暗殺を防ぎ、変わりに死んでしまった筈の英雄アリョーシャ。
しかし、意識を取り戻してみれば死ぬ直前の格好で“見知らぬ空間”に倒れていた。
起き上がり、思わず呟いてしまったものの返事は当然――
『ようこそ、アリョーシャ君。君を待っていた……』
「っ!? 何者だッ!!」
行き成り気配もなく、ある筈もないと思っていた返事が届く。
空間に響いたのはしわがれた老人のような、あるいは歳若い青年のような。はたまた妖艶なる美女でもあり、無邪気な少女のような声であった。
その声に反応し、アリョーシャが死んだ時には持っていなかった筈の、ベルギースから与えられた宝剣を腰から抜き放つ。
ジェラール鉱と呼ばれる希少金属と、他の金属を少量混ぜて鍛造されたそれは、あらゆる強度に関してと切れ味で他の追随を許さない。
この剣に掛かれば、並みの刀剣など容易く断ち切られてしまうことだろう。
元よりそう言う剣術が存在する。それと併用すればあっさり武器破壊が可能となる。
(クソッ抜かった……気配を感じないとは、暗殺者の仲間か!?)
脳裏に浮かぶのは己が実は死んで居らず、どこかに監禁。
または城のどこかで寝かされていたと言う二択。
『そう警戒することはない。私に君をどうこうするつもりはないのだから。それに、君は既に死んでいるのだよ、分かっている筈だ』
その声音はやはり不思議で、本当なのかを把握することは出来ない、が。
その声に先程の二選択が消滅する。死んだ事は己が一番理解していたのだから。
先程のは一瞬掠めた妄想に他ならないだろう。
「……ならば俺はどうしてこんな場所に居る」
そう言って剣を鞘に収めながらも警戒だけは怠らず、周囲を改めて見渡す。
が、見えるのは暗い闇だけだ。まるで濃霧のような黒いモヤが漂い、周囲の景色を判然とさせない。
気配も相変わらず読めず、不気味さだけがアリョーシャを包み込んでいた。
だがしかし、何者かの言うとおり、アリョーシャは間違い無く死んだのだ。
それは毒により倒れた先程も記述したように、アリョーシャが一番知っている事である。
(ならば、ここは死後の世界だとでも言うのか? なるほど。確かに永劫の暗闇は、幾万の屍を作り上げた私には相応しいだろう……)
英雄だ何だと祭り上げられてきたアリョーシャだが、結局のところ大量殺人者に他ならない。
咎人には変わらないのだ。暗殺の対象がアリョーシャ自身であった事もある。
それだけ多くの恨みを英雄と言う裏で買っているのを、己が重罪人であることも、アリョーシャは深く理解していた。
英雄なんて言うのは、兵士なんて言う職種は、正常な精神では到底真っ当出来ない。
だからこそ、自嘲気味に呟いたのだが――
『そのように思う事もないだろう。アリョーシャ、君は確かに英雄として死後、その名を神格化されたのだ。こうして、その魂を私が呼ばなければ神霊としての道すら、君は選択することが出来ただろう……』
相も変わらずどこから響くのかも分からない主の声に、アリョーシャの瞳が怪訝そうに歪む。
一瞬、新手の新興宗教か何かかと本気で疑ったくらいだ。
ベルギースでも国が大きくなり、国民を纏めるのにちょっとした信仰対象として“アリョーシャ”や、古くからの宗教を全面的に押し出してきたのだから。
聞き覚えのない言葉や、胡散臭そうな単語、それらを喚起するのには十分過ぎる程であった。
「私は決して学のある身ではない。妹に恥をかかせない程度に、ベルギースで最低限を学んだくらいだ。難しい話しはいい、出来るなら単刀直入に現状を教えてくれ」
凛とした。戦場で、演習で、騎士や兵を鼓舞するために鍛え上げられた、腹から響く通りの良い声が木霊する。
直ぐに返事が返ってくると思っていたアリョーシャだが、今回はたっぷり数分の間があった。
沈黙を黙って感受し、感覚を研ぎ澄ましていたアリョーシャの耳に再びあの不思議な声が届く。
『良いだろう。君のその態度は、私には好ましい。だからこそ、私自ら君を呼んだのだがね』
何となくだが、アリョーシャはこの声の主が何かに関する事で偉い立場なのではないのか。
そう感じるようになってきていた。声から滲み出る感覚と言えばよいのか。
常人では決して捉えられないレベルで、アリョーシャはそれをどことなく感じ取っていた。
そしてそれは実に正しい。アリョーシャの知る由ところではないが、この存在こそ千の顕現体を有する顔の無い神なのだから。
『さて、まずは君が死んだのは言うまでもない』
「ああ。私は確かに毒で死亡した筈だ」
『その通りだ』
確認するかのような、独白とも呼べるかのような声に、アリョーシャが返事を返せば、声も了承の声を返す。
その声音にはどこか喜悦が感じられた。
『ここは私が用意した一時的な“席”だとでも思ってくれればいい』
「……席?」
アリョーシャの眉が僅かに上がる。また良く分からない単語が出たからだ。
『そう、席だ。死後、魂は浄化の炎と呼ばれるものに晒され、前世での行いに関する一切を初期化される。そして新たに何処かの世界に送られるのだ。尤も、極稀に初期化出来ずに送られ、前世を覚えていたり、力を引き継ぐ者も僅かながらにいるのだが……』
そう言う声の響きには、幾分の苦笑が込められている。
が、それを無視して理解出来る範囲でアリョーシャが訊ねるべく口を開く。
「つまり、ここは死後の世界、だと?」
『いや。その浄化の炎を受けるまでに並ぶ列から、私が君を呼んだのだ。対談の席と言ったところだろうか』
成る程とアリョーシャは考える。
声の言葉が正しければ確かに、現状の状況にも納得出来る。
それなら、声の主はさしずめ閻魔様か? あるいは……いと高き果てに座す神が一柱か? それとも、遥か虚空で矮小なる存在を眺める、何か高次元的存在か。
そう思わせる力が。言霊が。声には宿っていた。英雄と呼ばれし男ですら、眩い魂の煌きを放つ存在ですら、そう思ってしまう力だ。
「ここで否定しては話しにならないだろう」
『賢明な判断だ』
アリョーシャの言葉にどことなく嬉しそうに声が返す。
『さて、状況を把握出来たところで本題といこう』
「――本題?」
『そうだ。アリョーシャ、君を呼んだ理由だよ』
一段。そう一段。言葉に重みが増したかのようにアリョーシャは感じた。
いや、本来の存在感に近づいたとでも言うべきか?
今までは抑えていたものが、ふとした気の緩みで漏れ出してしまったかのような。
そんな感覚をアリョーシャは抱いた。漏れ出た気配、重みは一瞬、アリョーシャの意識を刈り取るくらいであった。
その存在感は酷く心を暗澹な思いにさせる。まるで見えない闇に侵食でもされるようだ。
その驚異的な気配がふっ、と緩む。
『いやいやすまないね。君の反応嬉しくて嬉しくて、思わず消滅させそうになってしまった、許してくれ給え。消滅などさせたら虚空の門に愚痴を言われてしまうところであったよ』
失礼と。そう言った。が、その声音には謝るような響きはなく。
まるで神のような傲慢さが見え隠れしていた。事実、その存在は神と呼ぶに相応しいのだが。
そうしてアリョーシャは理解する。目の前の存在に対して、己が路傍の石ころにすら満たない存在であると。
その様子に気付きながら声の主は平然と先を話しだす。
『さて、君を呼んだ理由は……君が私の暇潰しに選ばれたからだよ。いや、私達のと、そう称すべきかね。運ばれてきた魂が兆になる度にその魂には選択権を与えている。児戯だよ。暇潰しだ』
傲慢に笑う。神が笑う。再び漏れ出た存在感でアリョーシャを押し潰しながら。
お前達魂を弄んでいると、暇潰しの遊具だと名も知らない神が言う。顔のない神が嘲笑する。
あまりに次元が違いすぎて、反論も、口を挟む事も出来ない。
そも。そんな態度、賢明に姿勢を維持するアリョーシャに出来るはずもないのだが……
『悪と呼ばれるものだろうが、善と呼ばれるものだろうが、聖女だろうが、悪鬼だろうが、英雄だろうが……等しく。そう、等しく。この選定に当たれば等しく選択権を』
「……選択、権?」
苦しげに呼気を整えながらも、アリョーシャが訊ねる。
『即ち。遊戯への参加権だ。暇潰しだよ、我々の暇潰しに過ぎない――が、この暇潰しは君達にも利がある。アリョーシャ、君はあの暗殺の場面……もし、手元に武器があればと、力があればと思わなかったかね?』
その言葉にアリョーシャの心が揺れる。
死ぬ間際。確かに、確かにアリョーシャは一瞬だが思ったのだ。
己に力が、せめて剣の一振りがあれば、と。あのような暗殺者風情、一太刀の下に斬り殺してくれたのにと。
それは所詮妄想。無い物強請りに過ぎない。が、名も告げぬ神は言う――
『もし、君がこの遊戯へと参加するならば。与えられた条件を達成することが出来たならば……君をあの時、死ぬ前、力と共に巻き戻してみせよう。チク・タク。チク・タク、私の力なら、友人の力なら、容易い、欠伸をするより簡単なことだ。代行者としての名に掛けて誓おうじゃないか』
その言葉に揺れる。
心が激しく、荒波に揉まれるかの如くに揺れ惑う。
「そのような事が、可能……なのか」
『可能だ。さぁ、選択の時間だよ。イエスか、ノーか――』
まるで悪魔を相手にしているかのようだと、アリョーシャは思う。
だが、提示された報酬はあまりに。そう、あまりに魅惑的だ。
つまり。やり直せると。本来の歴史を捻じ曲げて、物理すら超越してやろうと。
その魅惑に抗うなど――――
「受けよう。どんなゲームか知らないが、私はその遊戯を受諾しよう」
『――賢明な判断だ。これだから、人を私は好きだよアリョーシャ……それでは始めよう! ここに、ゲームへの参加者。プレイヤーがまた一人誕生した!!』
高らかに。何者か達へと告げるように声が響く。
同時に鳴るのは多くの拍手喝采。祝福の拍手だ。プレイヤーの生誕を祝福している。
禍々しき者どもが、神々しき者どもが、古き者どもが、一斉に祝福の拍手を惜しみなく送っている。
「なっ!?」
驚愕。そう、驚愕。
アリョーシャの口から驚愕の声が零れ落ちる。
何時の間にかアリョーシャの周囲は暗闇ではなくなっていた。
まるで裁判所のような場所の、被告人席に彼は立っていたのだ。何時の間にとか、そんな思考すら挟む余地のない超常。
唯一つ、判事が居らず、周囲には影色の“何者”か達だけが席を埋めている。
その誰もが異質。本体の影なのか、気配は薄いと言うのに感じられる力の片鱗はどれも異常。
『さて、アリョーシャ君。このゲームでは先ず、幾つか決めねばならないことがある。その箱のくじを引き給え』
言われて気づく。目の前に小さな箱があった。
材質不明の箱。真っ白な、艶消しの四角い箱。ぽっかりと、中心に穴が開いている。
言われるがままは癪であったが、ゲームを受諾したのは己だと黙って穴に手を突っ込み、触れた何かを一枚抜き取る。
それは紙であった。折り畳まれた紙片。その紙片がひとりでに宙に浮かび、中身を影達に見せるかのように開かれていく。
『ふむ……“不老長寿”と来たかね。まぁ、それ程珍しい能力ではないが、あるのと無いのとでは時間の制限が大きく変わるからね。さて、それでは何歳時点での不老化か。寿命は何歳か決めよう。そこから2枚引き給え』
能力。ゲームの内容はさっぱりの為、アリョーシャには何が何だかまったくもって不明だ。
不老と長寿は何となく理解できた。短い期間で行われる遊戯ではないのかもしれない。
そう考えつつ更に2枚箱から紙片を取り出すと、またもやひとりでにそれらは宙に飛んでいく。
『ふむ。不老化の年齢は16歳……中途半端だね。まぁ、年齢なんて次のくじの結果によっては関係なくなるがね。さて、寿命は……300年から500年。ふむ、1000年も中にはあることからすれば短いが、何も寿命を延ばす手が無い訳ではない。さて、最後にもう1枚。これはアリョーシャ君、君をどんな状態でゲームに送り出すかの問題だ。慎重に引き給えよ』
そう言って声だけの主は哂って告げる。心なしか、影達も哂っているかのようだ。
不安が心に忍び込む。鍛え上げた筈の精神の、超常を前になんと頼りないことか。
彼は知らない。最悪の場合、死体でスタート、なんて始まった瞬間終わるものもあるのだと言う事を。
不快な気持ちがざわざわ。ざわざわと、心を占めるがそれを堪えて一枚くじを引く。
そこに書かれていた内容は――
《亜人化。性別の反転・名前の変更》
「なっ!?」
驚愕。またもや驚愕。信じられない内容。
書かれた内容は性別の反転。それを見て影達が、声の主がどことなく落胆の気配を見せる。
一体何を期待していたと言うのか。
『ふむ。性別反転……なんとも微妙な。折角なら、クリーチャー化を引けば面白い事であったかもしれないのに。まぁ良いだろう。これにてプレイヤーへの能力付与を終了する』
「なっ、性別の反転なんて聞いて――」
『閉幕ッ! 閉幕ッ! それではアリョーシャ君。私達は君に期待しているのを忘れないことだ、それはつまり、私の主人の意思でもある……』
アリョーシャの叫び声など聞こえないかのように。
傲慢に。不遜に。声が告げる。時間だよと、終わりだよと。
閉廷だよ。お終いだよと、終わりを告げる。
無貌の神が嘲笑う。影達が哂いながら、ざわめきと共に消えていく。
――そして、アリョーシャの意識は抵抗虚しくも闇へと沈んでいった……