第10話:孤狼
「なんなんだ……こいつは…」
眼前に聳える黒き狼の迫力に息を呑む。
体長はゆうに三メートルを超え、四メートルに近いのではないかという大きさであり、むき出しになったその牙はあらゆるものを噛み砕いてしまいそうなほど、太く鋭い。
爪も鋭く磨かれ障害物をいとも簡単に切り裂き、体は鋼のような光沢を持った毛で覆われ、ここまで来るのに多くの木を倒してきたはずなのに、傷一つなかった。
(こいつもおそらく魔物だよな…初日でこんなにやばそうなのに当たるなんて冗談でも笑えないな…)
黒き狼が放つプレッシャーは、ゴブリンやプチウルフなどが放つものに比べれば、天と地もの差があると言えるほどであり、和哉自身も今まで生きてきて感じたことのない殺気に、足が竦みそうだった。
(落ち着け、冷静になるんだ…ここでパニックになったら思う壺だ……一瞬でも隙を見せたら噛み殺されるぞ…)
だが、持ち前の精神力でなんとか踏みとどまり、こちらに牙を向ける獣を見据える。
呼吸を整え、こちらから突っ込んでいくことはせず相手の出方を窺う。
お互いに牽制をしつつ、距離をとる。
静寂に保たれた森の中を、一人と一匹の駆け引きが続いていく。
そしてバサバサッと一羽の鳥が飛び立った瞬間、その均衡は破られた。
黒き狼が一直線に和哉に飛び掛ってくる。
(速いっ!!)
その図体からは想像もできない速さであり、それが見えた時にはすぐに横っ飛びをしていた。和哉の背後にあった木は、見るも無残な姿となっていた。
横っ飛びをしたため、相手の側面に入り込めた和哉は刀で斬りかかる。しかし、その刀は黒き狼の体毛に弾かれた。そして狼は和哉の攻撃を受けた直後に身体を回転させ、自らの尻尾で和哉に襲い掛かってくる。持ち前の力に遠心力も加わったその一撃を、和哉は刀で何とか防御できたが空中へと吹き飛ばされた。
(くっ、やるな…だがやられっ放しと言う訳にはいかないんでね……)
「炎よ!」
空中で宙返りをしつつ、一瞬で魔力を練ると威力を重視し、詠唱して魔法を放つ。黒き狼に火球が命中し、辺りに爆炎が広がる。
(やったか?…いや、まだまだだな…)
爆炎により辺りに煙が充満し、視界が遮られるが狼の気配を察知したため、緊張を緩めることはしなかった。
煙が森の中を巡る風により少しずつ晴れていくが、完全に消え去るまでに狼は現れ、爪を振り上げてきた。魔法を食らっても怯むどころか、なおも無傷でいた。
(っ!?回避は間に合わない!ならばっ)
気配は察知していても、相手の動きは予想以上に速く、突然の攻撃に回避行動は間に合わないと、瞬時にその考えを切り捨てた。
「光よ!!」
そのため眼前に楯状の結界を張り、爪の攻撃を間一髪で遮った。
それと同時にバックステップで数歩下がり、刀を横に倒す。
自ら開けた距離を加速して一気に詰めると、狼の右の前足目掛けて横一文字を繰り出す。強化魔法によって引き上げられた和哉の速度と力で、繰り出された渾身の一閃は狼の右前足を半分斬り裂いた。
――――ギャォォオオオン
「よしっ!通ったぞ!」
狼の表情は苦痛に歪み、魔法を浴びせてもダメージを食らうことのなかった相手に、有効打を打てたことに喜んだのもつかの間、今まで負うことのなかった痛みからか錯乱した狼は、無傷の左の前足を繰り出してきた。
(しまっ…がはっ!)
防御が間に合わなかった和哉は後方へと数メートル弾き飛ばされ、背後にあった木へと思い切り叩きつけられた。あまりの衝撃に太い幹を持っていた木は倒れ、木の根元へと崩れ落ちた。
並の人間ならば絶命していてもおかしくはない攻撃を受け、あまりの痛みに錯乱してしまいそうになりながらも、和哉はなんとか冷静に意識を保とうとしていた。背部への衝撃から、身体の内部へのダメージも大きく、咳をすると口から血が溢れていく。
(はぁはぁはぁ……まずいな…大分…ひどく…やられた……しゅう…ちゅう………)
「み…ずよ…」
刈り取られそうになる意識を必死で保ち、精神を落ち着かせ回復魔法を放つ。和哉の回復魔法は実践での使用は今回が初めてだったため、どの程度回復できるかが未知数であったのだが、すぐさま身体中の痛みが引いていき、意識もはっきりしていく。
「…危なかったな……戦闘中に何を考えてるんだ俺は」
ものの十数秒で身体を完治させるとゆっくりと立ち上がる。先程の状態で追撃されていれば、如何に和哉といえど命の保障はなかった。だが、狼はなおも痛みにより錯乱している様子だった。
(あのままの状態でいる奴に近づくのは自殺行為……だがこのまま無事に逃げ切れるとも思えん…ならばどうする…一撃で奴の鋼の肉体を切り裂くためには………)
眼前の敵を倒すために、和哉は必死で策を巡らせる。ティア達にした「護る」という約束を破らないためにも、ここで犬死するわけにはいかないと思っていた。
暴れ狂い周囲の木々をなおもなぎ倒し続けている巨大な狼を、どうすれば一撃の下に葬れるのか…
「鋼……はがね?………そうかっ!!」
和哉ははっと気付くと精神を集中し始める。
雑念を消し去り、周りの音さえも聞こえないほどに集中力を高めていく。
(熱……もっと…もっと熱く…奴を燃やし尽くすほどの熱を………)
「炎よ!!!」
再度行われた炎の魔法は、先程のものより魔力を練りこみ威力と熱量が高められていた。凄まじい爆音と衝撃を黒き狼に与えた。
再び辺り一面が煙に覆われるが、そのときには既に和哉は次の詠唱のために、いつもの数倍以上の魔力を練り始めていた。
(冷気……辺り一面を凍らせるほどの冷気を……)
「くらえっ氷よ!!」
次に詠唱されたのは氷の魔法。先程までの熱量を一気に鎮め、辺り一面を氷の彫刻が立ち並ぶ白の世界へと変えていく。
大規模な熱量による攻撃と急激な冷却を行われた、黒き狼は身体のいたるところにヒビが入り始めていた。
すうっと目を閉じると和哉は上段の構えを取る。
深い呼吸と浅い呼吸を繰り返す。
気を身体中へと巡らせ、魔力を身体に定着させる。
身体の隅々まで気と魔力が行き渡り、今まで以上に身体が軽くなっていた。
ゆっくり目を開けると、こちらへと向き直り襲い掛かってくる黒き狼がいた。
だがその動きは酷くスローモーションで、自分の練りこんだ気と強化魔法による影響だとわかった。
相手の首付近に最も傷ついている部分が光って見える。
不思議な感覚ではあるが、躊躇う事など微塵もない。
「今…楽にしてやる」
和哉が呟いた瞬間、狼の首が飛び、辺り一面に鮮血の花が咲いた。
数分、いやもっと長い時間が経っただろうか。
実際にはそんなに長い時間は経っていないのかもしれないが、和哉にとってはそれほど長く感じる時間だった。
和哉は黒き狼を倒した。上段の構えからの神速の打ち下ろしは狼自身に、自らが斬られたことを気付かせないほどのものであり、首が亡くなった後数秒間の間胴体が蠢いていた。
軽く返り血を浴び、持ってきていたタオルで身体を拭くと、和哉はすぐ傍の木に座り込んだ。
「怖かったな……俺、なんとか生き残れたのか…」
あまりにも強大な魔物との戦いに、恐怖を覚えないはずがなかった。いくらこの世界に来て強くなっているとはいえ、あのような魔物は元の世界には当然いなかった。命の奪い合いを行い、実際に自分自身も死んでしまうかもしれなかった。
「でも俺生きてるよ。よかった…約束破らずにすんだな…」
それでも、恐怖よりも生きてることの喜びのほうが大きかった。これで自分は、あの子がいるところへ戻れると、あの子を泣かせずにすむと。不意に涙が出そうになったが、何とか堪えた。
「よしっ!今度こそ孤児院に帰ろう!」
すっと立ち上がり、荷物を確認し、帰途へと付くことにした。今度はゴブリンにも邪魔されることなく、スムーズに町に帰ることが出来た。
町へ戻るとまずギルドへと向かった。報酬の受け渡し場所は二階だと聞いていたため、入ってすぐに二階へと上がった。するとそこには朝、和哉の登録をしてくれた受付のスタッフがいた。どうやら午前中と午後で持ち場が変わるようである。
「すいません、討伐依頼を終えてきましたー」
「お疲れ様です。それではギルド証を預からせていただいてもよろしいですか?」
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。ギルド証の中の討伐記録を確認させていただきます」
流れるような作業で、ギルド証を預かると記録の確認を始めるスタッフ。
「たしか、ゴブリンとプチウルフの討伐をお受けになったんですよね?」
「はい、そうです。後一匹物凄く強い魔物と対峙することになったんですけどね…」
苦笑しながら、自分が初めて命がけで戦闘した魔物について、思い出した。
「ゴブリンは二十七匹、プチウルフは二十五匹ですね。これでヒイラギ様の報酬は二十五パーセントアップとなりますね。あともう一匹の記録はベオウルフですね……………えっ」
記録を確認していたスタッフが、突然素っ頓狂な声を上げる。あまりにも突然だったため、和哉も驚いてしまい数秒間沈黙が流れた。
辺り一面に妙に張り詰めた空気が漂っていたのだが、スタッフは一度深呼吸をすると真剣な表情をして和哉に質問を投げかけた。
「ヒイラギ様……本当にあなたがベオウルフを討伐なさったのですか?」
「ベオウルフって言われても分からないんですけど…黒い鋼のような体毛をもった狼を倒しましたよ?」
「ヒイラギ様は本日ギルドに登録なさったばかりですよね?」
「はい、あなたに受付をしていただきましたよ。覚えていらっしゃらないですか?」
「いえ、覚えているんですが信じられなくて……」
明らかにおかしいスタッフの態度に和哉も戸惑っていたのだが、ここでまごついていても仕方がないとさっさと切り出した。
「どうしたんですか?もしかして討伐してはいけない魔物だったんですか?」
「いえ、そんなことはありません。ただ……ベオウルフというのは漆黒の弧狼ともいわれ討伐ランクはAAクラスなんです。しかも討伐する際には必ず、十人以上のAAランクの冒険者が集まり、それだけいても死者が出ないことのほうが珍しいほど凶暴な魔物なんです。それを最低ランクの方がたった一人で討伐されたと聞いては………」
「…それ、本当ですか?」
「嘘を言っても仕方がありませんから……ちなみにこの討伐を成功したことでヒイラギ様のランクは一気にCまで上がりましたよ」
「……マジですか?」
「マジです」
次々と語られる真実に和哉は開いた口がふさがらなかった。自分と命のやり取りをした魔物が実はかなり上のランクの敵だったということ。そして、ランクなんてどうでも言いと思っていたのに、あっさりと中堅クラスまで届いてしまったということなど、驚くことばかりだった。更に驚いたのはその討伐に対する報酬の量で、ゴブリンやプチウルフの討伐によってもらえる報酬の百倍以上だった。
報酬は今回全て持ち帰るとギルドの運営が出来なくなるので、王都のギルドからこの町のギルドへとお金が届くまで待ってくれないかと言われたため、今回はゴブリンとプチウルフの討伐によって得られる報酬だけを持って帰ることにした。
半ば放心状態のままギルドを出て、しばらくぼおっと歩いているといつの間にか孤児院の前にたどり着いていた。孤児院の外ではランドが鍛錬をし、メルとアリアは二人で仲良く遊んでいて、そんな様子をティアが微笑みながら見ていた。
ふと何かに気付いたのかメルが顔をこちらへ向けた。パァッと笑顔になり、隣にいたアリアと共にこちらへと駆けてくる。
「お兄ちゃん、お帰りー!」
「おかえり~」
飛びついてくる二人を、しっかりと抱き上げると、笑顔を返してやる。
「ただいま、みんな!」
先ほどまではいろいろなことを考えていた和哉だったが、みんなの姿を見ていたら悩むことが酷くどうでもいいことに思えた。そう思った瞬間自然と声が出ていた。
「お帰りなさい、カズヤさん。大丈夫でしたか?」
「兄ちゃん、お帰り!」
ティアもランドもこちらへと近づいてくる。ティアは和哉の服が若干血に染まっているのを見て、心配そうな表情を浮かべる。そんなティアにすぐ気付くと、フォローを入れる。
「あぁ、大丈夫だよ。ちょっと危なかったけどね」
「本当ですか?それよりも…こら二人とも、カズヤさんも疲れてるんだから、そんなことしないで降りなさい」
「やだよー、抱っこしてもらうと嬉しいんだもん」
「アリアもいやー」
「こらっ!」
「まぁまぁ俺は大丈夫だから」
どうしても和哉から離れようとしない二人に対して、困ったような表情を見せていたティアだったが、和哉のこの言葉に説得され、もうっと言って頬を膨らませると腕を組んだ。その仕草は可愛らしく、頬が緩んでしまった。
そこで横からちょんちょんと小突かれているのに気付いて振り向くと、ランドがニコッと笑いながら立っていた。
「ほんとに兄ちゃんって二人に懐かれてるよなっ!」
「ランドは俺に懐いてないのか?」
「へっ?」
いつもはそんなことを言わない和哉から、まさかそんな答えが返ってこようとは思ってなかったランドは、ポカーンと口をあけて目が点になっていた。そんなランドの表情がおかしくて笑い出してしまう。
「ははっ冗談だよ」
「っ!?…兄ちゃんのバカヤロウ!」
からかわれたことに恥ずかしくなったのか、顔を赤くして和哉の足を蹴ってきた。二人を抱いているため、無抵抗の足に容赦なく蹴りが飛ぶ。蹴りが当たるたびに揺れる和哉の体を、抱きかかえられていたアリアとメルは楽しんでいる。
「いって、悪かった、悪かったってば」
「ふんっ!」
笑いながらそう謝ると、ランドは蹴ることをやめてそっぽを向いた。
「もう、カズヤさんもランドも子供なんだから。ご飯の準備しますから中に入りましょう」
「…わかったよ、姉ちゃん」
そう言ってティアは微笑み、孤児院の中に入ると、続けて渋々ランドが入っていった。
「お兄ちゃんも入ろうよ」
「はいろー!」
「あぁそうだな」
抱き上げたままのメルとアリアに笑いかけ、入り口へと向かう。
(奴が強かったとかランクが高かったなんて正直どうでもいいよな。俺は今日生き残ることが出来た。それだけで十分だよな)
和哉の魔物との初戦闘日は、身の危険さえ感じる大変なものであったが、大事なものを再度知ることが出来た日にもなった。
五人を迎え入れた孤児院の扉が、和哉の手によってゆっくりと閉められた。
和哉は兄なので弟のランドをからかうこともあります
まぁ滅多にないですが
ちなみに和哉はこの後ティアに、危ないことはするなと怒られました(^^;)




