吾輩の確かな歩み
勘違いしているようだが、吾輩はアウトドア派である。
亀は動かない?
では、吾輩の生態を一部紹介しよう。
そのあとでも、同じことが言えるか。
後ほど、改めて問うとしよう。
まず、朝。
日が昇る。
吾輩は目を覚ます。
正確には、目を覚ましたあと、すぐには動かない。
これは寝ぼけているのではない。
気温、風向き、日当たり、周囲の気配を確認しているのだ。
安全確認は重要である。
確認が終わったら、甲羅から出る。
そして、日光を浴びる。
しばらく浴びる。
かなり浴びる。
吾輩の身体は太陽の力を必要としている。
人間どもは火を使い、電気を使い、複雑な道具を使って身体を動かす。
吾輩は太陽の下にいるだけでよい。
実に効率的である。
日光浴が終わったら、散歩に出る。
吾輩は歩く。
草を探して歩く。
水を探して歩く。
より日当たりのよい場所を探して歩く。
危険がないか確認しながら歩く。
気になる匂いがあれば、そちらへ向かう。
見慣れぬものがあれば、近づいて確認する。
吾輩は好奇心旺盛なのだ。
ただし、急がない。
急ぐ必要がないからである。
人間どもは、吾輩がゆっくり歩いていると、何もしていないと思うらしい。
とんでもない誤解だ。
吾輩は歩いている。
全身を使って、一歩ずつ前へ進んでいる。
これは立派な移動である。
さらに、道中には障害物もある。
石。
枝。
段差。
わずかな坂。
吾輩は、それらを一つずつ乗り越える。
場合によっては、迂回する。
どうしても越えられぬ時は、別の道を探す。
これを人間どもは「動かない」と言う。
ならば聞こう。
動かない生き物が、なぜこれほど多くの道を知っているのか。
昼になれば、食事の時間である。
吾輩は草を食べる。
一枚食べる。
もう一枚食べる。
少し離れたところに、さらによい草があれば、そこまで歩く。
食事とは、座ったまま与えられるものではない。
探し、選び、移動し、確保するものだ。
つまり、食事そのものが冒険なのである。
食べ終わったら、水を飲みに行く。
水場が近いとは限らない。
遠ければ、当然歩く。
途中で日当たりのよい場所を見つければ、少し休む。
だが、休んでいるのではない。
体力を温存しているのだ。
次の行動に備えている。
休息もまた、活動の一部である。
水を飲んだら、今度は周囲を見回る。
吾輩の縄張りに、妙なものがないか確認する。
昨日までなかった枝。
見慣れぬ匂い。
妙に騒がしい鳥。
近くを通った何者かの気配。
すべて確認する。
吾輩は静かだ。
だが、静かなことと、何も見ていないことは別である。
むしろ、静かだからこそ、よく見える。
よく聞こえる。
よく考えられる。
午後になれば、再び歩く。
朝とは違う道を選ぶ。
同じ道ばかりでは、新しい発見がない。
今日は右へ行った。
明日は左へ行く。
その次は、少し遠くまで行ってみる。
吾輩は毎日、世界を広げている。
水の中。
海の中。
そして陸の上。
吾輩は、どこへでも行ける。
だが、どこにでも行けるということは、それだけ多くのエネルギーを必要とするということでもある。
水の中を進む。
海の中を泳ぐ。
陸の上を歩く。
それぞれに異なる力と技術が必要だ。
人間どもなら、場所ごとに別の道具を用意するだろう。
船を使い、車を使い、家を建てる。
吾輩は違う。
吾輩には、すべてを支える動力源がある。
そう。
甲羅だ。
吾輩の甲羅は、ただの背負い物ではない。
吾輩の分身と言ってもよい存在である。
硬くて、軽い。
持ち運び可能な住居。
外敵から身を守る盾であり、雨風を防ぐ屋根であり、疲れた時に戻る寝床でもある。
しかも、吾輩が歩けば、甲羅も一緒に移動する。
実に完成されている。
人間どもは住居を建てる。
しかし、住居を背負って歩くことはできない。
家を置いたまま遠くへ出かけ、帰るためにまた戻らなければならない。
その点、吾輩の甲羅は違う。
どこへ行こうと、吾輩の家は吾輩についてくる。
水の中でも。
海の中でも。
陸の上でも。
なんと素晴らしい設計だろうか。
吾輩が完成されているのか。
甲羅が完成されているのか。
その両方である。
吾輩と甲羅は、切り離して考えるものではない。
吾輩が動けば、甲羅も動く。
甲羅があれば、吾輩は安心して動ける。
つまり、吾輩と甲羅は一つの存在なのだ。
人間どもは、吾輩の歩みを見てこう言う。
「その歩み、亀のごとし」
なるほど。
これは、なかなかよい言葉ではないか。
亀のごとし。
つまり、吾輩と同じ目線で物事を考えるということだろう?
地面を見つめ。
一歩を確かめ。
急がず、焦らず、確実に進む。
実に賢い考え方である。
人間どもも、なかなかやるではないか。
ただし、少しばかり使い方が違うようだ。
どうやら人間どもは、「遅い」という意味で使っているらしい。
解せぬ。
吾輩は遅いのではない。
水の中でも、海の中でも、陸の上でも生きられるよう、適切な速度を選んでいるだけである。
速さだけを求める者は、目的地に着く前に疲れる。
急いで泳ぐ者は、水の流れを見落とす。
走る者は、足元の危険に気づかない。
吾輩は違う。
一歩進む。
周囲を見る。
問題がなければ、もう一歩進む。
それを繰り返す。
結果として、吾輩はどこへでも行ける。
時間はかかる。
だが、時間をかけるからこそ、遠くまで行けるのだ。
そして吾輩は、長寿の象徴としても知られている。
人間どもは言う。
「亀は万年」
なるほど。
実に壮大な評価である。
だが、正確には誤りだ。
すべての亀が万年生きるわけではない。
吾輩の仲間にも、それぞれ寿命というものがある。
種類によって違いもある。
環境によっても違う。
食事や天敵の問題もある。
つまり、「亀は万年」というのは、吾輩の生態を正確に説明した言葉ではない。
これは誤りである。
ただし、完全な誤りとも言い切れない。
吾輩は長く生きる。
人間どもより長く生きる仲間もいる。
何十年もの時間を歩き、泳ぎ、食べ、眠り、また歩く。
その姿を見て、人間どもは長寿の象徴と考えたのだろう。
大雑把ではある。
だが、観察としては悪くない。
人間も、なかなかやるな。
長寿とは、ただ長く生きることではない。
今日も歩く。
明日も歩く。
その先も、歩ける限り歩く。
一日一日を積み重ねた結果が、長い時間になるのだ。
吾輩は万年生きるわけではない。
だが、吾輩は今日も進む。
急がず。
焦らず。
甲羅を背負い。
自分の足で。
これを活動的と言わずして、何を活動的と言うのか。
夕方になれば、寝床を探す。
安全な場所を探す。
雨が当たらず、風が強すぎず、外敵から見つかりにくい場所。
条件は多い。
だから、また歩く。
寝床を決めたあとも、すぐには眠らない。
今日一日の行動を振り返る。
どこを歩いたか。
何を食べたか。
危険はなかったか。
明日はどこへ行くか。
明後日は、さらに遠くへ行けるか。
そうしてようやく、甲羅の中へ身体を収める。
これが吾輩の一日である。
どうだ。
ここまで聞いても、まだ言えるか。
亀は動かない、と。
もしそう言うなら、明日は吾輩についてくるとよい。
朝の日光浴から始まり、草を探し、水場へ向かい、未知の道を進み、夕方には安全な寝床を探す。
もちろん、途中で置いていく。
吾輩は遅い。
だが、止まるとは言っていない。
そして、吾輩が一日の旅を終えたころには、人間どもはきっと疲れ果てているだろう。
その時、吾輩は甲羅の中から静かにこう言うのだ。
「さて、明日はどこへ行くか」




