給湯室の主
うちの研究室には、給湯室の主がいる。
そう言うと、たいていの人はゴキブリか、長年放置された誰かのマグカップを想像する。しかし、そうではない。主はもっと明確な意思を持ち、もっと厄介で、そして妙に律儀だった。
最初に気づいたのは、博士課程二年の佐伯だった。
「高槻さん、僕のカップ麺、知りませんか」
「知りません」
「昨日の夜、ここに置いたんです。シーフード味を」
「名前は書きましたか」
「書いてません」
「では、社会的には無主物ですね」
「民法の話じゃなくて」
佐伯は憔悴した顔で、給湯室の棚を見上げた。棚には、コーヒー、紅茶、謎の健康茶、賞味期限が令和になってから一度も更新されていない葛湯が並んでいる。しかし、シーフード味はなかった。
そのかわり、棚の中央に一枚の付箋が貼られていた。
『湯を粗末にする者、麺を得ず』
佐伯は黙った。
「……高槻さん、これ、どういう意味ですか」
「昨日、お湯を沸かして、残しませんでしたか」
「残しました」
「どれくらい」
「ポットいっぱい」
「それは怒られますね」
「誰にですか」
私は付箋を見た。
「給湯室の主に」
佐伯は、私が冗談を言っていると思ったらしい。気の毒に。
給湯室の主は、研究室の誰よりも勤勉だった。シンクに茶渋のついたカップを置けば、翌日にはカップが消え、かわりに『器を洗わぬ者、器に泣く』と書かれた紙が残る。電子レンジでカレーを爆発させて拭かなければ、昼休みに限ってブレーカーが落ちる。冷蔵庫に名前のないプリンを入れると、なぜか教授の机に移動している。
しかも教授は甘いものが好きだった。
この件について、研究室内では三つの説があった。
一つ目は、秘書さん説。最も現実的で、最も恐ろしい。
二つ目は、教授説。ただし教授は付箋に「麺」という漢字を書けないことが判明し、否定された。
三つ目は、給湯室の古い電気ポットに宿った何か説。佐伯が言い出した。修士一年の頃から論文より怪談を読む時間のほうが長い男である。
「古い道具には魂が宿ると言いますし」
「それは九十九神ですね」
「そうです」
「でも、あのポットは購入から七年です」
「最近の家電は成長が早いのかもしれません」
「嫌な進化ですね」
ところが、事件はそこで終わらなかった。
翌週、研究室に新しいウォーターサーバーが導入されたのである。理由は単純だった。教授が「ポットのお湯がぬるい」と言ったからだ。
その日から、給湯室の空気が変わった。
誰もが感じていた。棚の上の古いポットが、沈黙している。いや、家電だからもともと沈黙しているのだが、それにしても沈黙の密度が違った。
佐伯は青ざめていた。
「これはまずいです」
「何がですか」
「主の座を奪われたんですよ」
「家電の権力闘争ですか」
「ウォーターサーバーは新参者です。なのに温水も冷水も出せる。主からすれば、下剋上です」
「便利なだけでは」
「便利な者が常に正しいとは限りません」
その発言だけは、少し研究者らしかった。
翌朝、ウォーターサーバーには付箋が貼られていた。
『熱きもの、冷たきもの、二心ある者を信ずるな』
研究室はざわついた。
「完全にポット側の声明ですね」
「家電が声明を出す時代になったんですね」
「高槻さん、笑いごとじゃないです。これは内戦です」
佐伯は真剣だった。その真剣さを、もう少し実験計画書に向けてほしい。
その日の昼、決定的な出来事が起きた。教授がウォーターサーバーでお茶を淹れようとした瞬間、温水レバーから冷水が出たのである。教授は湯呑みを見つめ、静かに言った。
「……これは、水だね」
当たり前のことを、あれほど重々しく言える人を私は他に知らない。
次に佐伯がポットを使おうとすると、今度はポットが沸騰しない。電源は入っている。水もある。しかし、表示はただ一点を示していた。
『保温』
「拗ねてる……」
佐伯が呟いた。
「ポットが拗ねてる……」
仕方がないので、私は給湯室の中央に立ち、二つの家電に向かって言った。
「皆さん、聞いてください」
「高槻さん、家電を皆さん扱いするんですか」
「こういう時は敬意が大事です」
私はまずポットを見た。
「あなたは長年、研究室のお茶とカップ麺を支えてきました。その功績は誰も忘れていません」
次にウォーターサーバーを見た。
「あなたもまた、冷水と温水を迅速に提供する重要な設備です。特に夏場には大変助かります」
佐伯が小声で言った。
「和解案ですか」
「共存案です」
私は紙に書いて、棚に貼った。
『ポット:カップ麺専用
ウォーターサーバー:飲料専用
シンク:各自で清掃
プリン:名前を書くこと』
しばらく沈黙があった。
やがて、ポットが小さく鳴った。
カチッ。
沸騰が始まった。
ウォーターサーバーのランプも、静かに青から赤へ切り替わった。
佐伯は感動した顔をした。
「高槻さん、家電外交の才能がありますね」
「履歴書には書けません」
「でも、研究室の平和を守りました」
「論文にはなりません」
その夕方、私は自分の机に戻った。すると、キーボードの上に付箋が置かれていた。
『調停者に報酬あり』
横にはプリンが一つあった。
名前は書かれていなかった。
私はしばらく考えたあと、付箋の裏にこう書いた。
『無主物の占有を開始します』
翌朝、教授が少し寂しそうな顔をしていたが、私は何も知らないことにした。




