第117話:薫りの洗礼(王都試食会と、未知なる衝動)
「……言葉で説明しても無駄だ。これは『体験』させるしかない」
ケニーは、王都第1支店の店頭に特設の巨大フライヤーを設置させた。
800店舗の網を駆使して集めたスパイスを、前世の記憶を頼りに黄金比で調合した「ケニー特製カレー」。それを包み込むのは、最高級の小麦粉で作った、まだ少し温かいパン生地だ。
1. 嗅覚への侵略
揚げ油がパチパチとはぜる音と共に、王都のメインストリートに「それ」が漏れ出した。
これまでの異世界には存在しなかった、複雑で、暴力的で、それでいて食欲の核心を突くような芳醇な香り。
「おい、なんだこの匂いは……!? 鼻の奥が熱くなるぞ」
通りかかる衛兵、商談に向かう商人、そして朝の依頼を探す冒険者たちが、吸い寄せられるように足を止める。彼らの顔には、美味そうという感情以上に「何だこれは?」という困惑と、抗いがたい好奇心が混ざり合っていた。
2. 恐怖と好奇心の試食会
「本日は新メニュー『カレーパン』の試食会だ。……一人一個。まずは黙って食べてみてくれ」
ケニーは、49歳の落ち着いた声で群衆に呼びかけた。
最初に手を伸ばしたのは、一人の若い冒険者だった。彼は、見たこともない「茶色の餡」が詰まった揚げパンを、疑わしげに見つめ、意を決してかぶりついた。
サクッ、という小気味いい音。
次の瞬間、彼の動きが止まった。
3. 「なんだこれは!?」の連鎖
「……熱い。いや、辛いのか? ……いや、なんだ、この……溢れてくる旨味は!」
パンの中から溢れ出すスパイシーな蒸気に、彼は激しくむせながらも、二口目、三口目と、まるで何かに取り憑かれたように貪り始めた。
「舌が痺れるのに、手が止まらない! 喉の奥から力が湧いてくるようだ!」
その様子を見ていた周囲の人間たちが、我先にとカレーパンに群がった。
「なんだこれ! 食べたことのない味だ!」
「辛い! なのに、どうしてこんなに次が欲しくなるんだ!」
「腹の底から火が灯ったみたいだ。……おい、これ、もう一個売ってくれ!」
4. 朝の風景が変わる瞬間
ケニーは、額に汗を浮かべながらカレーパンを頬張り、興奮気味に語り合う人々を静かに見守っていた。
かつて日本で、忙しい朝にカレーパン一つで自分を奮い立たせていた人々の姿が、今、目の前の異世界の人々とパズルのピースが合うように重なっていく。
「……これが『カレー』だ。今日から、お前たちの朝はこれに支配されることになるぞ」
試食会が終わる頃には、第1支店の前には見たこともないような長蛇の列ができていた。
人々はまだ知らない。この「茶色の魔力」が、自分たちの日常に、なくてはならない「活力」として深く刻み込まれてしまったことを。
ケニーの手には、油のついたトングが握られていた。
49歳の男が仕掛けた、味覚の革命。
王都の朝は、スパイスの香りと共に、熱く、騒がしく幕を開けた。




