丸山華の回想録
第一章 ゴッサムシティの日々
私、丸山華の中学時代はろくな思い出がない。
いや、正確に言えば「思い出したくない」のだ。でも、記憶というものは残酷で、ふとした瞬間に蘇ってくる。コンビニで中学生の集団を見かけたとき、テレビで学園ドラマを観たとき、あるいは何の前触れもなく、夜中に目が覚めたとき──。
あれは中学二年生の初夏のことだった。
放課後の教室は、帰宅する生徒たちの喧騒に満ちていた。私はいつものように、さっさと帰る準備をしていた。一秒でも早くこの場所から逃げ出したかった。
「ちょっと待って!みんな座って!」
担任の田中先生が、疲れ切った声で叫んだ。
クラスのほとんどは無視して教室を出ていく。残ったのは十数人。私も、なぜか足が動かなかった。動けば目立つ。目立てば何か言われる。そんな計算が、もう身体に染み付いていた。
「新しい学級委員を決めないと……前任の山田くんが転校しちゃったから」
田中先生の言葉が終わるか終わらないかのうちに、教室の空気が変わった。
「丸山がいいと思いまーす!」
後ろの席から、軽薄な声が飛んできた。誰だ?振り返ることすらできなかった。
「やれよ丸山!」
「そうだよ、丸山ならできるって!」
「丸山がやらないと俺ら帰れないんだけど?」
声が、四方八方から降ってくる。まるで雨のように。いや、雨ではない。石だ。投げつけられる石のように、私の身体に当たってくる。
「おい丸山!」
「丸山!」
「丸山!」
私の名前が、呪文のように繰り返される。顔も見えない。誰が言っているのかも分からない。ただ、「丸山」という音だけが、教室中に反響している。
「あの……私、そういうの苦手で……」
か細い声で言った。自分でも情けないと思った。でも、それ以上の声が出なかった。
「丸山以外いないんだって!」
「なぁ、早く帰りたいんだけど」
「早く決めてくれよ、丸山ー!」
田中先生は、ただ黙って立っていた。助けてくれない。いつものことだ。この学校の大人は、見て見ぬふりをする。それが一番楽だから。
教室の空気が、どんどん重くなっていく。私を責める視線。早く帰りたいという苛立ち。それらが混ざり合って、息苦しい圧力になる。
「……やります」
声が震えていた。涙が出そうだった。
「やります……」
もう一度言った。言わされた、と言った方が正しい。
「さっさとそう言えよバカ!」
教室の隅から、吐き捨てるような声。
「あーあ!ウザッ!」
「やっと決まったわ」
椅子を引く音。バタバタと廊下に出ていく足音。教室はあっという間に空っぽになった。
残されたのは、私と田中先生だけ。
「丸山さん、ありがとうね」
先生は、申し訳なさそうに微笑んだ。その笑顔が、余計に惨めだった。
第二章 廊下の先輩たち
またある日。
廊下でオッサン座りでたむろしている三年生の先輩たちがいた。あれは確か、中学一年の秋だった。昼休み、トイレに行こうと廊下を歩いていたときのことだ。
床に座り込んで、携帯をいじったり、お菓子を食べたりしている先輩たちが、廊下の真ん中を占拠していた。通り抜けるには、その横を通るしかない。
視線を落として、できるだけ存在を消して歩く。でも、どうしても目に入ってしまう。床に座っている人間がいたら、視線は自然とそこに行く。それは当たり前のことだ。
「アァ!? ガンつけんじゃねぇぞ!」
突然の怒鳴り声に、心臓が跳ね上がった。
「あ、すみません……」
反射的に謝る。でも、心の中では思っていた。
(廊下でオッサン座りでたむろしてたら、視線は自然とそこに行くだろう……)
でも、そんなことは言えない。言ったら何をされるか分からない。この学校では、正論は通用しない。理不尽が支配している。
「チッ、一年のくせに生意気なんだよ」
先輩の一人が舌打ちをした。私はただ頭を下げて、その場を離れた。トイレに着いたときには、手が震えていた。
第三章 女子のカースト制
でも、男子の理不尽よりもっと陰湿だったのは、女子のカースト制だった。
中学校では、信じられないことに、リボンの結び方で地位が決まっていた。
カースト上位の女子たちは、リボンを大きく、緩く結んでいた。制服のブラウスの第一ボタンは開けて、スカートは膝上十センチ。髪は巻いて、ピアスの穴を開けている子もいた。
彼女たちは、教室の窓際の後ろの席を陣取っていた。そこが彼女たちの「領土」だった。
私たち地味系女子は、リボンを規定通りに小さく結び、スカートは膝下、髪も黒髪ストレート。教室の前の方か、真ん中の目立たない席に座っていた。
ある日、同じクラスの佐藤さんが、少しだけリボンを緩めに結んできた。たぶん、雑誌かなにかを見て、可愛いと思ったのだろう。
昼休み、佐藤さんの席は空っぽだった。
放課後、佐藤さんは泣きながら教室に戻ってきた。目が赤く腫れていた。
「体育館裏に呼び出された……」
友人が小声で教えてくれた。
「調子こいてるって……」
それ以来、佐藤さんは学校を休むようになった。一週間後に戻ってきたときには、リボンは小さく、きつく結ばれていた。でも、それは上位カーストの結び方ではなく、ただ小さく縮こまったような、痛々しい結び方だった。
そして、ブランド。
カースト上位の女子たちは、CECIL McBEEのポーチや紙袋を持っていた。ピンクや白の、キラキラしたそれらは、彼女たちのステータスシンボルだった。
「CECIL持ってない女はダサい」
そう言いながらも、彼女たちは自分たち以外の人間がCECILを持つことを許さなかった。
中学一年の時、同じクラスの田村さんが、誕生日にお母さんに買ってもらったCECILのポーチを学校に持ってきた。
その日の放課後、田村さんも体育館裏に呼び出された。
翌日、田村さんのポーチは、便器の中に浮いていた。
私たち地味系女子の間で密かに流行っていたのは、OLIVE des OLIVEだった。森ガールっぽい、優しいデザイン。CECILほど派手じゃなく、でもユニクロなどよりはお洒落。
OLIVE des OLIVEならカースト上位女子からも許されていた。
それは、暗黙のルールだった。
でも、OLIVE des OLIVEは高かった。私が唯一買ってもらえたのは、中学二年の誕生日に買ってもらったカーディガンだけだった。
そのカーディガンを、私は大切に使った。それは、この灰色の中学生活の中で、唯一自分で選べた小さな彩りだった。
第四章 休日の罠
中学二年の夏休み前、信じられないことが起きた。
クラスのカースト上位グループ、愛梨、美咲、彩花の三人組が、私に話しかけてきたのだ。
「ねぇ、丸山さん」
昼休み、愛梨が私の机に寄ってきた。CECIL McBEEのポーチをぶら下げて、髪を揺らしながら。
「……なに?」
警戒心を隠せなかった。彼女たちが私に話しかけてくるなんて、今まで一度もなかった。
「あのさ、今度の日曜日、みんなでボウリング行くんだけど、丸山さんも来ない?」
──え?
頭が真っ白になった。
「私……?」
「うん!四人の方がチーム組めるし、丸山さんも誘おうってなって」
美咲と彩花も、ニコニコしながら頷いている。
「ね、来てよ!絶対楽しいから!」
彩花が、私の手を握った。
(え……なんで?)
(なんで私を?)
でも、心の奥底で、小さな期待が芽生えていた。
(もしかして……友達になれるのかな?)
(仲良くしてくれたら、嬉しいな)
私は、あまりにも孤独だった。友達と呼べる人は、地味系グループの由美くらいしかいなかった。
カースト上位の子たちと友達になれたら、もしかしたら、学校がもっと楽しくなるかもしれない。
そんな淡い期待に、心が揺れた。
「……いいの?私なんかで」
「なに言ってんの!全然いいよ!じゃあ、日曜日の午後一時に駅前のボウリング場ね!」
愛梨が微笑んだ。
「楽しみにしてるね!」
三人は、笑いながら自分たちの席に戻っていった。
残された私は、ドキドキしていた。
(本当に、仲良くなれるのかな……)
第四章の二 日曜日
日曜日の朝、私は何を着ていけばいいのか分からなくて、クローゼットの前で途方に暮れた。
服なんて、小学生の頃からほとんど買っていない。母が適当に買ってくる、地味なTシャツと短パンくらいしか持っていなかった。
結局、紺色のTシャツとベージュの短パン、それにスニーカーという格好で家を出た。
鏡を見たとき、少しだけ不安になった。
(これで……大丈夫かな)
でも、考える時間はなかった。もう待ち合わせの時間だった。
駅前のボウリング場に着くと、三人はもう待っていた。
そして、私は愕然とした。
愛梨は、白いフリフリのワンピース。CECIL McBEEのロゴが胸元に輝いている。
美咲は、ピンクのキャミソールにデニムのショートパンツ。これもCECIL McBEE。
彩花は、レースのトップスに白いミニスカート。やっぱりCECIL McBEE。
三人とも、髪を巻いて、化粧をしていた。睫毛が長く、唇がピンク色に光っている。
そして、私。
紺色のTシャツに短パン。まるで、どこかの少年のような格好。
すっぴん。髪は適当に結んだだけ。
「あ、丸山さん!来たー!」
愛梨が手を振った。でも、その目は、一瞬だけ、私の全身を舐めるように見た。
「うん……」
「じゃあ、入ろっか!」
ボウリング場の中に入る。受付を済ませて、シューズを借りる。
「丸山さん、ボウリングやったことある?」
「小学校の時に、一回だけ……」
「そっかそっか!じゃあ、教えてあげるね!」
美咲が、優しく言った。
でも、その優しさが、どこか嘘っぽく感じた。
ボウリングを始める。
私は下手だった。ガーターばかり。
「あはは!丸山さん、可愛い!」
彩花が笑った。
可愛い?
その声には揶揄が含まれている気がした。でも、笑顔で言われると、何も言えない。
「次はこうやって投げてみて!」
愛梨が、投げ方を教えてくれた。
でも、やっぱりガーター。
「あはは!」
三人が面白そうに笑う。
私も、笑った。笑うしかなかった。
ボウリングの後、プリクラを撮りに行った。
「ねぇ、プリクラ撮ろうよ!」
美咲が提案した。
プリクラなんて、小学生以来撮ったことがなかった。
「うん!」
私は、嬉しかった。こうやって、普通の女子中学生みたいに遊べることが。
プリクラの機械の前で、四人で並ぶ。
鏡に映った私は、明らかに浮いていた。
三人は、綺麗にお化粧をして、可愛い服を着ている。
私は、すっぴんで、Tシャツと短パン。
そして、気づいた。
腕が見えている。
腕毛が、びっしり生えている。
すね毛も、ボーボーだった。
(え……)
(みんな、毛がない……)
愛梨の腕は、つるつるだった。美咲も、彩花も。
(処理してるんだ……)
私は、毛を処理することを知らなかった。
誰も教えてくれなかった。母も、何も言わなかった。
(恥ずかしい……)
腕を隠したかった。でも、プリクラを撮るために、ポーズを取らなきゃいけない。
「はい、チーズ!」
フラッシュが光る。
何枚か撮った後、プリクラが出てくる。
「わぁ、可愛く撮れた!」
愛梨が嬉しそうに言った。
「丸山さんも可愛いよ!」
美咲が、私の肩を叩いた。
でも、その言葉が、どこか空々しく聞こえた。
プリクラを見ると、私だけが明らかに浮いていた。
三人は、雑誌から出てきたような可愛い女の子。
私は……少年のような、地味な子。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
彩花が時計を見ながら言った。
「うん。丸山さん、今日はありがとうね!」
愛梨が、笑顔で言った。
「こちらこそ……ありがとう」
私は、頭を下げた。
(楽しかった……のかな)
よく分からなかった。
第四章の三 月曜日
月曜日、学校に行くと、教室の空気が変だった。
みんなが、私を見ている。
そして、ヒソヒソと笑っている。
「おはよう……」
席に着くと、机の上に何かが置いてあった。
──プリクラだった。
日曜日に撮った、あのプリクラ。
(え……?)
周りを見ると、他の人の机にも、同じプリクラが置いてあった。
ばら撒かれている。
教室中に。
「丸山の格好マジウケる」
誰かが言った。
「すっぴんで来るとか、勇気あるよね」
「腕毛ヤバくない?」
笑い声が、教室中に響く。
私は、理解した。
(そういうことか……)
彼女たちは、私を笑うために、遊びに誘ったのだ。
私の垢抜けなさ。
私の服装。
私のすっぴん。
私の毛深さ。
全部、笑いのネタにするために。
わざわざ休日に、時間を使って。
愛梨、美咲、彩花は、教室の後ろで、笑っていた。
「丸山さん、楽しかったね!」
愛梨が、わざとらしく言った。
「また遊ぼうね!」
美咲が、ニヤニヤしながら言った。
私は、何も言えなかった。
ただ、机に突っ伏した。
(友達になれるかも、なんて)
(仲良くしてもらえるかも、なんて)
(期待した自分が、馬鹿だった)
(恥ずかしい)
(恥ずかしい)
(消えてしまいたい)
プリクラは、その日一日中、教室のあちこちで笑いのネタにされた。
廊下でも。
トイレでも。
私の名前と、笑い声が、ずっと聞こえていた。
家に帰って、部屋に閉じこもった。
鏡を見た。
すっぴんの顔。
地味な服。
腕毛。
全部、嫌になった。
(私、なんでこんなに何も知らないんだろう)
(なんで誰も教えてくれなかったんだろう)
その夜、私は初めて、自分の腕の毛を剃った。
母が使っているカミソリを借りて。
でも、やり方が分からなくて、何度も肌を切った。
血が出た。
痛かった。
でも、涙は出なかった。
もう、泣く気力もなかった。
第五章 ゴッサムシティ
プリクラ事件の後、私の中学生活は、さらに地獄になった。
「おい、丸山!今日もすっぴん?」
「腕毛処理した?まだボーボー?」
「CECIL買えないの?貧乏なの?」
毎日、揶揄われた。
でも、何よりも衝撃的だったのは、学校全体の荒廃ぶりだった。
ある日の国語の授業。いつものように、男子たちが騒いでいた。教科書を投げ合い、机を叩き、奇声を上げる。
担任の鈴木先生は、若い女性教師だった。最初は注意していたが、誰も聞かない。注意すればするほど、男子たちはエスカレートしていく。
「静かにしなさい!お願いだから!」
先生の声が、だんだん悲鳴に近くなっていく。
でも、男子たちは止まらない。いや、面白がっている。
「うるさい!!!!!!!」
先生が、金切り声で叫んだ。
教室が、一瞬静まり返った。
そして、先生は泣き始めた。
大人が、目の前で泣いている。しかも、仕事中に。
男子たちは、ニヤニヤ笑っていた。
「マジ泣いてるし」
「ウケる」
先生はそのまま教室を出ていった。授業は、そこで終わった。
翌週、鈴木先生は学校に来なくなった。「体調不良」ということだった。
廊下では、日常的に暴力が起きていた。
休み時間になると、あちこちで喧嘩が始まる。殴り合い、蹴り合い。先生たちは止めに入るが、止められない。
「おい、こら!」
先生の声は、空しく響くだけ。
ある日、数学の授業中、廊下から大きな音がした。何かが倒れる音。
先生が慌てて廊下に出ていく。私たちも、教室から覗いた。
廊下に、人が倒れていた。
頭から血を流している。
床には、赤い血溜まりが広がっていた。
「救急車!救急車呼んで!」
先生の叫び声。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
これが、日常だった。
毎日、救急車が来る。毎日、パトカーが来る。
私は、この学校を「ゴッサムシティ中学校」と呼んでいた。もちろん、心の中だけで。
第六章 弟だけが
母は、私が中学に入学してから、明らかに様子がおかしくなったことに気づいていた。
「華、学校どう?楽しい?」
「……うん」
嘘だった。でも、本当のことは言えなかった。心配させたくなかった。それに、言ったところで何が変わるわけでもない。
でも、母は気づいていた。
私が毎日、暗い顔で帰ってくること。
食欲がないこと。
夜、よく眠れていないこと。
そして、決定的だったのは、ある日の夕方だった。
いつものように救急車のサイレンが鳴り響き、学校の前に停まった。その様子を、たまたま迎えに来ていた母が目撃したのだ。
担架に乗せられる生徒。
パトカー。
野次馬のように集まる生徒たち。
母は、青ざめた顔で私を車に乗せた。
「……華、ごめんね」
車の中で、母が言った。
「ごめんね、こんな学校に……」
それから数ヶ月後、弟の大輝が小学六年生になった。
「大輝は、中学受験させる」
母が、夕食の席で宣言した。
「え?でも、お金……」
「大丈夫。お母さん、パート増やすから」
母の目は、真剣だった。
「大輝を、あんな学校には入れたくない」
あんな学校。
それは、私が通っている学校のことだった。
(私は?私はいいの?)
心の中で叫んだ。でも、声には出せなかった。
(私はゴッサムシティでいいの?)
もう、私は中学二年生だった。今から転校なんてできない。私立中学受験なんて、もう手遅れだった。
弟は、毎日塾に通い始めた。
私は、毎日ゴッサムシティに通い続けた。
第七章 揶揄いの日々
「おい!丸山!」
授業中、遠くの席の男子が大声で声をかけてきた。
「なに!?」
振り返らずに答える。振り返ったら、また何か言われる。
「おい!丸山!」
「だから、なに!?」
「丸山!」
「うるさい!」
「丸山って!」
「うるさい!」
これが、毎日続く。何の意味もない。ただ、私の名前を呼んで、私が反応するのを楽しんでいるだけ。
私は、彼らにとって「遊び道具」だった。
そんな中で、唯一の楽しみは、自由学習の時間だった。
年に数回、総合学習の一環として「自由学習」という授業があった。何をやってもいい。調べ物をしてもいいし、何かを作ってもいい。
私と友人の由美は、手編みのマフラーを作ることにした。
「冬になったら使えるし、いいよね」
由美がニコニコしながら言った。久しぶりに、学校で笑顔になれた気がした。
編み物の本を図書室で借りて、毛糸を買って、放課後に一緒に編んだ。
不器用だったけど、楽しかった。
でも、それを見た男子たちが、ニヤニヤしながら近づいてきた。
「おー、マフラー編んでる〜」
「誰にあげるの?好きな人?」
「好きな人にあげるんだろ?うわぁ〜!」
違う。ただ、自分で使うだけ。
でも、何を言っても無駄だった。
「丸山、彼氏いるの?」
「いないくせに〜」
「あ、由美は松本のこと好きなんだろ?」
由美の顔が、真っ赤になった。
「違う!全然違うから!」
「ウソつけ〜」
男子たちは、笑いながら去っていった。
何でも恋愛に結び付けようとする、そのお花畑脳を叩き割ってやろうかと思った。
でも、もちろん、そんなことはできない。
私たちは、ただ黙って編み続けた。
第八章 崩壊
中学三年生の冬、私は完全に壊れた。
朝、起きられなくなった。
布団から出られない。身体が、鉛のように重い。
「華!学校遅刻するよ!」
母の声が聞こえる。でも、動けない。
「華!」
ドアが開く音。
「……どうしたの?具合悪いの?」
母の心配そうな声。
「……うん」
嘘じゃなかった。本当に、具合が悪かった。身体も、心も。
「今日は休む?病院行く?」
「……休む」
それから、私は週に二、三日しか学校に行けなくなった。
行っても、教室に入れない。保健室で過ごすことが多くなった。
保健の先生は優しかった。何も聞かずに、ベッドを貸してくれた。
白いカーテンの向こうで、他の生徒の声が聞こえる。
「お腹痛い」
「頭痛い」
「気持ち悪い」
みんな、本当は何が痛いのか、言えないでいる。
私も、同じだった。
卒業式の日、私は出席した。
でも、まるで他人事のようだった。
体育館で、校長先生の話を聞きながら、ぼんやりと考えていた。
(やっと、終わる)
(やっと、ここから出られる)
でも、終わったあとに何があるのか、想像できなかった。
第九章 高校という名の牢獄
高校は、家から近い公立高校に進学した。
偏差値は中の上。特に何の特徴もない、普通の高校。
(中学よりはマシなはず)
そう思っていた。
実際、暴力は少なかった。廊下で血を流している人もいなかった。
でも、私はもう、壊れていた。
人と話す気力がなかった。
クラスメイトが話しかけてきても、うまく答えられない。
「ね、お昼一緒に食べない?」
「……ごめん、図書室で本読みたいから」
嘘だった。ただ、人と一緒にいるのが辛かっただけ。
昼休みは、図書室の隅の席で過ごした。
本を読んでいるふりをして、ただぼんやりと窓の外を見ていた。
放課後も、まっすぐ帰った。部活にも入らなかった。
家に帰ると、自分の部屋に閉じこもった。
母が心配そうに声をかけてくる。
「華、友達できた?」
「……うん」
また嘘をついた。
夜、布団の中で、涙が止まらなかった。
(私、何してるんだろう)
(このまま、ずっとこうなのかな)
高校一年の秋、私は学校に行けなくなった。
朝になると、吐き気がする。動悸がする。手が震える。
「今日も休む」
母に言うと、母は何も言わずに頷いた。
「……そう。ゆっくり休みなさい」
母の目には、諦めのような、悲しみのような色があった。
それが、余計に辛かった。
第十章 カウンセリングという名の失望
母が、どこからか情報を仕入れてきた。
「華、カウンセリング、行ってみない?」
「カウンセリング……?」
「うん。心療内科の先生に、話を聞いてもらうの。薬とかも、必要なら出してもらえるし」
母は必死だった。何とかして、私を助けたかったのだろう。
駅前のビルの中にある、その心療内科を訪れたのは、高校一年の冬だった。
待合室は、白くて、無機質だった。
他の患者さんたちは、みんな下を向いていた。
「丸山華さん」
名前を呼ばれて、診察室に入る。
そこにいたのは、五十代くらいの男性医師だった。
疲れた顔をしていた。というか、面倒くさそうな顔をしていた。
「はい、どうぞ座って」
椅子に座る。
「えーっと……丸山さんね。何が問題?」
「あの……学校に、行けなくて……」
「ああ、不登校ね。よくあるよ」
カルテに何かを書きながら、医師は言った。私の顔も見ない。
「それで、いつから?」
「……半年くらい前から」
「ふーん。で、原因は?」
「中学の時に……いろいろあって……」
「いろいろって?」
医師は、やっと顔を上げた。でも、その目には興味がなかった。
「いじめとか、そういう系?」
「……はい」
「そっか。まあ、よくあることだね」
よくあること。
その言葉が、胸に刺さった。
「じゃあ、薬出しとくから。これ飲んでれば、少しは楽になるよ」
「あの……」
「ああ、カウンセリング?うちは基本、薬物療法だから。カウンセリングは別料金で、予約制なんだよね。しかも今、予約いっぱいで」
医師は、もうパソコンの画面を見ていた。
「次、三週間後に来て。薬がなくなる頃だから」
診察は、五分で終わった。
受付で、処方箋をもらう。
薬局で、薬を受け取る。
小さな白い錠剤が、たくさん入っていた。
家に帰って、薬の袋を見た。
抗うつ薬。抗不安薬。睡眠導入剤。
(これを飲めば、楽になる……?)
でも、何か違う気がした。
私が求めていたのは、薬じゃない。
話を聞いてほしかった。
理解してほしかった。
「どうだった?」
母が聞いてきた。
「……薬、もらった」
「そっか。良かったね」
母は、安心したような顔をした。
でも、私は全然、良くなかった。
その夜、薬の袋を手に取った。
飲もうか、迷った。
でも、何か、抵抗があった。
(これは、違う)
(私が求めているのは、これじゃない)
結局、一錠も飲まなかった。
翌朝、ゴミ箱に捨てた。
第十一章 バリケード
それから、私の引きこもり生活は、さらに深刻になった。
部屋から出なくなった。
食事も、ドアの前に置いてもらうようになった。
母が、ノックする。
「華、ご飯置いとくね」
「……うん」
ドアを開けない。母が去った後、ドアを少しだけ開けて、お盆を取り込む。
でも、ほとんど食べられなかった。
ある夜、母と父の話し声が聞こえてきた。
リビングからだった。でも、二階の私の部屋まで、声が届いてきた。
「あいつ、どうするんだ」
父の声だった。苛立っているのが分かった。
「もう少し、見守ってあげて」
母の声は、疲れていた。
「見守る?いつまで?もう半年だぞ」
「お願い、もう少しだけ……」
「甘やかしすぎなんだよ。学校に無理矢理にでも行かせるべきだ」
「そんなこと言わないで……」
私は、布団の中で、耳を塞いだ。
(聞きたくない)
(聞きたくない)
でも、聞こえてくる。
次の日から、父が変わった。
夕食時、私の部屋のドアを叩くようになった。
「華!降りて来い!」
「……」
答えない。
「聞こえてるだろ!降りて来い!」
ドンドンとドアを叩く音。
「嫌です……」
か細い声で答える。
「なんだと!?親に向かって!」
さらに強く、ドアを叩く。
ドアノブがガチャガチャと回る。
(来ないで)
(入ってこないで)
怖かった。
その夜、私は決めた。
部屋に、バリケードを作ることを。
まず、本棚を動かした。重かったけど、必死で押した。ドアの前に置く。
次に、机を動かす。本棚の隣に。
椅子も、段ボール箱も、すべてドアの前に積み上げた。
これで、誰も入ってこられない。
次の日の夜。
案の定、父がドアを叩きにきた。
「華!開けろ!」
ドンドンドン!
ドアが揺れる。
でも、バリケードがあるから、びくともしない。
「なんだ、これは!」
父がドアノブを回そうとするが、開かない。
「華!開けろ!今すぐ開けろ!」
さらに強く叩く。
体当たりしているような音がする。
ドアが、ギシギシと軋む。
でも、私のバリケードは、崩れなかった。
「華……お願い、開けて……」
母の声がした。
泣いているのが分かった。
ドアの向こうで、母が泣いている。
(ごめんなさい)
(ごめんなさい)
心の中で謝る。でも、ドアは開けられない。
「もういい!」
父の怒鳴り声。
そして、衝撃的な言葉が聞こえてきた。
「コイツは猿だ。猿以下だ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
──猿。
猿以下。
父が、私のことを。
「お父さん、そんなこと言わないで!」
母が叫ぶ。
「事実だろ!部屋に閉じこもって、ご飯も食べない。学校にも行かない。人間としての最低限のこともできない。猿だ!」
階段を降りていく足音。
リビングのドアが、バタンと閉まる。
母は、まだドアの前にいた。
「華……」
泣きじゃくる声。
母の泣き声が、ずっと聞こえていた。
私は、布団を被って、耳を塞いだ。
でも、聞こえる。
母の泣き声。
父の言葉。
「猿だ。猿以下だ」
その言葉が、頭の中で、何度も何度も繰り返された。
翌朝、目が覚めると、ドアの前に何かが置いてあった。
バリケードの隙間から、見える。
お盆。朝ごはんだった。
手紙も一緒に置いてあった。
母の字だった。
『華へ
お父さんは、華のことが心配で、ああいう言い方をしてしまったの。
本当は、華のことを愛してる。
お母さんも、華のこと、愛してる。
だから、無理しなくていいから。
ゆっくりでいいから。
お母さんは、待ってるから。
母より』
手紙を読んで、涙が出た。
でも、バリケードは撤去しなかった。
第十二章 部屋という檻
バリケードを作ってから、時間の感覚が完全になくなった。
朝と夜の区別はあるけれど、月曜日も金曜日も同じ。全ての日が、灰色に溶け合っている。
私の一日は、こんな風に過ぎていった。
午前十時頃、目が覚める。でも、起きない。布団の中で、天井を見つめる。
天井のシミが、何かの形に見える。犬? 雲? よく分からない。
お昼過ぎ、母が仕事に出かける音がする。玄関のドアが閉まる音。車のエンジンがかかる音。
それを聞いて、やっとバリケードを少しだけずらして、ドアを開ける。
ドアの前には、必ず食事が置いてあった。
冷めたご飯。味噌汁。おかず。
そして、いつも手紙。
母の、優しい言葉。
でも、食欲がない。
少しだけ口に入れて、あとは残す。
午後は、ずっとネットを見ていた。
SNSを眺める。同級生たちの投稿。
「今日の体育まじダルかった〜」
「放課後カラオケなう♪」
「テスト勉強やばい」
みんな、学校に行っている。友達がいる。楽しそうに笑っている。
私は、部屋にいる。一人で。バリケードの向こうで。
スマホを置く。また、天井を見る。
(私だけ、時間が止まってる)
(私は、猿以下)
父の言葉が、頭から離れない。
でも、どこかで、諦めきれない自分もいた。
(このままじゃ、ダメだ)
(何とかしないと)
高校二年生の春、私は決めた。
学校には行けない。でも、卒業はしたい。
試験だけは受けよう。
第十三章 試験の日だけ
それから、私の高校生活は奇妙なものになった。
普段は一切学校に行かない。部屋のバリケードも撤去しない。
でも、定期試験の日だけは、必ず登校する。
試験前の一週間は、死ぬ気で勉強した。
教科書を読み込む。問題集を解く。ネットで調べる。
誰にも会わず、誰とも話さず、ただ一人で。
不思議なことに、一人で勉強していると、内容がよく頭に入った。
授業を受けていた時よりも、理解できた。
試験の日。
久しぶりに部屋から出る。バリケードを少しだけずらして。
久しぶりに制服を着る。鏡を見ると、知らない自分がいた。
やつれていた。痩せていた。
でも、行かなければならない。
学校に着くと、みんなの視線を感じる。
「丸山だ」
「久しぶりじゃん」
「まだ学校やめてなかったんだ」
「なんか、痩せた?」
ヒソヒソ話す声が聞こえる。でも、無視する。
教室に入る。自分の席に座る。
周りは、友達同士で話している。
「昨日、全然勉強してないー」
「やばい、絶対赤点だわ」
私は、ただ黙って座っている。
試験用紙が配られる。
問題を見る。
解ける。
一人で勉強した成果が、ここに出る。
カリカリとペンを走らせる。
この時間だけは、私も他のみんなと同じ「生徒」だった。
試験が終わると、すぐに帰る。
誰とも話さない。視線を合わせない。
家に帰って、すぐにバリケードを元に戻す。
ほっとする。
成績発表の日も、学校に行く。
掲示板に貼り出された成績表を見る。
私の名前が、上位にあった。
「丸山、すごいじゃん」
「学校来てないのに、なんでこんな点数取れるの?」
クラスメイトが、不思議そうに言う。
答えない。ただ、成績表を写真に撮って、すぐに帰る。
担任の先生には、呼び出された。
「丸山、成績は問題ないんだが……出席日数が……」
「試験は受けてます。レポートも出してます」
「それは分かってるんだが、このままだと進級が……」
「大丈夫です。ギリギリ、出席日数は足りるように計算してます」
先生は、困ったような顔をした。
「……分かった。でも、無理はしないでくれ」
「はい」
こうして、私は高校三年間を過ごした。
ほとんど学校に行かず、部屋にバリケードを張って、でも成績は常に上位。苦手な数学を除いて。
奇妙な生徒だったと思う。
でも、これが私にできる、精一杯だった。
第十四章 大学受験
高校三年の夏、進路を決めなければならなかった。
「華、大学、どうする?」
母が、ドアの向こうから聞いてきた。
バリケードは、まだそこにあった。でも、母との会話は、少しずつできるようになっていた。
「……行きたい」
「本当に?無理しなくていいのよ」
「行きたい。高校で、このまま終わりたくない」
それは、本心だった。
中学、高校と、ずっと逃げてきた。
でも、大学では変わりたい。
そう思った。
受験勉強は、一人でやった。いつものように。
塾にも予備校にも行かなかった。行けなかった。
参考書をひたすら解いた。
でも、受験は甘くなかった。
第一志望、落ちた。
第二志望、落ちた。
第三志望……
合格発表の日、パソコンの画面を見た。
受験番号が、ない。
(ああ……)
絶望した。
でも、数日後、一通の手紙が届いた。
「補欠合格のお知らせ」
福祉学部。第四志望で出していた大学だった。
「辞退者が出たため、繰り上げ合格となりました」
(補欠……)
誰かが辞退したから、私が拾われた。
惨めだった。
でも、これが現実だった。
「華、良かったじゃない!大学、行けるのよ!」
母は、ドアの向こうで泣いて喜んだ。
私も、泣いた。
嬉しいのか、悲しいのか、よく分からなかった。
父もこの時ばかりは喜んでいた。
「福祉。いいじゃないか。華に合ってると思うぞ」
そして、大学入学までの数ヶ月。
私は、少しずつバリケードを撤去し始めた。
まず、段ボール箱を。
次に、椅子を。
机を。
本棚を。
高校卒業式の日、私は出席しなかった。
でも、その日、初めて、部屋のドアを完全に開けた。
母が、階段の下で待っていた。
「華……」
母は、涙を流していた。
私も、階段を降りた。
何ヶ月ぶりだろう。リビングに降りるのは。
父は、ソファに座っていた。
私を見て、何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
ただ、目を逸らした。
(猿だ。猿以下だ)
あの言葉は、まだ心に残っていた。
でも、私は前に進むことにした。
第十五章 大学という新しい世界
大学の入学式。
久しぶりに、たくさんの人の中に身を置いた。
緊張で、手が震えていた。
(また、一人ぼっちになるんだろうな)
(友達なんて、できないんだろうな)
そう思っていた。
でも、違った。
大学は、高校までとは違った。
みんな、それぞれの事情を抱えていた。
浪人した人。
社会人経験のある人。
シングルマザーの人。
いろんな背景を持った人がいた。
そして、誰も、他人に興味を持ちすぎなかった。
干渉しすぎない、程よい距離感。
それが、心地よかった。
「ね、一緒にお昼食べない?」
声をかけてきたのは、隣の席の女の子だった。
ショートカットで、明るい笑顔。
「私、香山真由。よろしくね!」
「……丸山華です」
小さな声で答えた。
「華ちゃんって呼んでいい?私のことは真由って呼んで!」
真由は、人懐っこかった。
でも、不思議と、嫌じゃなかった。
(また裏切られるかもしれない)
(また笑われるかもしれない)
そんな不安はあった。
でも、真由の笑顔は、本物に見えた。
「華ちゃん、何の授業取った?」
「えっと……」
「あ、私と一緒のやつ多いかも!一緒に受けよ!」
真由は、私の手を握った。
温かかった。
第十六章 少しずつ
真由と過ごす時間が、増えていった。
最初は、ただ一緒にお昼を食べるだけ。
次第に、授業の後も一緒にいるようになった。
「華ちゃん、今日カフェ行かない?」
「……うん」
カフェなんて、何年ぶりだろう。
真由は、私のペースに合わせてくれた。
無理に話させようとしない。
沈黙も、気にしない。
ただ、そばにいてくれた。
ある日、真由が言った。
「華ちゃんって、なんか不思議な感じするよね」
「……え?」
「なんていうか、ちょっと遠いところにいる感じ。でも、それが華ちゃんらしいっていうか」
真由は、笑っていた。
馬鹿にしているのではなく、ただ、私を見ていてくれた。
「私ね、華ちゃんと友達になれて嬉しいんだ」
「……私も」
小さな声で答えた。
「本当?」
「うん」
それから、私は少しずつ変わっていった。
真由と一緒に、サークルの見学に行った。
真由と一緒に、図書館で勉強した。
真由と一緒に、学食でご飯を食べた。
普通の、大学生活。
中学、高校では味わえなかった、日常。
それが、とても嬉しかった。
でも、私の中には、まだ闇があった。
時々、フラッシュバックする。
プリクラ。
笑い声。
「猿だ。猿以下だ」という父の声。
夜、一人になると、涙が出ることもあった。
でも、真由がいた。
それだけで、前に進める気がした。
第十七章 真由の言葉
大学四年生の春。
私と真由は、無事に卒業を迎えようとしていた。
卒業式の前日、真由と二人で、いつものカフェにいた。
「四年間、あっという間だったね」
真由が、笑いながら言った。
「……うん」
「華ちゃんと友達になれて、本当に良かった」
「私も」
コーヒーを飲みながら、四年間を振り返る。
そして、真由が、ふと言った。
「ねぇ、華ちゃん」
「ん?」
「華ちゃんって、大学入学した頃、病んでたよね」
ドキッとした。
心臓が、バクバクした。
「……え?」
「ううん、責めてるわけじゃないんだ。ただ、そう思ってた」
真由は、優しい目で私を見ていた。
「最初に会った時から、なんか、華ちゃん、すごく暗い影を背負ってる感じがして」
「……」
「でもね、四年間で、華ちゃん、すごく変わったよ」
真由が、私の手を握った。
「最初は、目も合わせられなかったのに。今は、こうやって笑えるようになって」
そう言われて、気づいた。
私、笑ってる。
本当に、心から。
「真由に……バレてたんだ」
「うん。でも、言わなかった。言ったら、華ちゃん、きっと傷つくと思って」
「……ありがとう」
涙が出そうになった。
「私ね、中学の時も、高校の時も、ずっと……」
少しずつ、話し始めた。
プリクラのこと。
いじめのこと。
不登校のこと。
バリケードのこと。
父の言葉のこと。
全部、真由に話した。
真由は、ずっと聞いてくれた。
「……そっか。そんなことがあったんだね」
「うん……」
「でも、華ちゃん、よく頑張ったね」
「……頑張ってなんか」
「頑張ったよ。生き延びたんだから」
その言葉に、涙が溢れた。
「華ちゃんは、強いよ。本当に強い」
真由が、私の背中を撫でてくれた。
「これからも、友達でいてくれる?」
「もちろん!ずっと友達だよ」
真由が、笑った。
私も、笑った。
エピローグ 華、二十五歳
あれから三年。
私は今、小さな福祉施設で働いている。
大学で学んだ福祉の知識を活かして、障害を持つ子どもたちの支援をしている。
「華先生!」
子どもたちが、笑顔で駆け寄ってくる。
「どうしたの?」
「見て見て!お絵描きできた!」
子どもが描いた絵を見る。
カラフルな、楽しそうな絵。
「すごいね!上手だね!」
子どもが、嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、胸が温かくなる。
(私も、こうやって笑えるようになったんだ)
仕事が終わって、真由とカフェで会う約束をしていた。
「華ちゃん、久しぶり!」
真由が、相変わらずの笑顔で手を振った。
「真由、元気そうだね」
「華ちゃんも!なんか、顔色いいよ」
二人でコーヒーを飲みながら、近況を話す。
真由は、広告代理店で働いていて、忙しそうだった。
でも、楽しそうだった。
「ねぇ、華ちゃん。あの頃のこと、覚えてる?」
「あの頃?」
「大学入った頃」
「……うん、覚えてる」
「華ちゃん、本当に変わったよね」
「真由のおかげだよ」
「ううん、華ちゃんが頑張ったから」
真由が、笑った。
(そうかもしれない)
(私、頑張ったのかもしれない)
カフェを出て、駅に向かう。
夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。
ふと、あの頃を思い出す。
プリクラの写真。
笑い声。
バリケード。
父の言葉。
でも、もう、怖くない。
あの頃の私は、確かに傷ついていた。
でも、その傷があったから、今の私がいる。
人の痛みが分かる。
辛さを分かち合える。
優しくできる。
福祉の仕事を選んだのも、そのせいかもしれない。
傷ついた人の、気持ちが分かるから。
スマホが鳴った。母からのメッセージだった。
『今度、お父さんと一緒にご飯食べない?お父さんも、華に会いたがってるよ』
──父。
あれから、父とはほとんど話していない。
でも、最近、母を通じて、少しずつ関係を修復しようとしている。
『うん、いいよ』
返信を送る。
もう、逃げない。
前を向いて、歩いていく。
空を見上げる。
オレンジ色の雲が、ゆっくりと流れていく。
(丸山華は、生き延びた)
(そして、今も、歩いている)
中学時代の傷は、まだ完全には癒えていない。
でも、その傷と一緒に、生きていける。
そう思えるようになった。
(明日も、きっと大丈夫)
そう思いながら、私は家路についた。
──完──




