第5話(かつての旅と、これからの牙 )
拳を握りしめ、地を蹴る。
風を切って、カゲナはミレイナに向かって突き進んだ。
その瞬間――胸の奥で、何かが揺れる。
(……ノク、貸してくれ。ほんの少しでいい……!)
ほんの一瞬、胸の奥に声が響いた。
『……まだ、早いよ。焦るな、カゲナ』
声か、感情か、それははっきりとしない。ただ、温かさと切なさが混ざったような響きだった。
それだけで、なぜか涙が出そうになった。
(……まだ、あの声が、胸のどこかで響いてる)
意識の底。
眠っているノクシアの力に、手を伸ばそうとした。
だが次の瞬間――
ぐらり、と世界が歪んだ。
「――っ……!」
足元から滲み出した黒い空間が、空気を揺らす。
けれど、それは力というより“暴走”だった。
制御できない。止まらない。
(……駄目だ。今の俺じゃ、ノクの力は……!)
歯を食いしばり、暴れる闇を必死に押し返す。
額に汗がにじみ、体中の筋がきしんだ。
それでも、カゲナは声を上げた。
「うおおおっ!!」
空間を歪めて手を振る。
その一撃は未完成で、不安定で、ただ空を裂いただけ。
けれど、それでもいい。
(構わない……俺は、俺の力でやるんだ……!)
ミレイナの闇が迫ってくる。
だがカゲナもまた、恐れず飛び込んだ。
何度も叩きつけられ、吹き飛ばされ、傷だらけになる。
足はふらつき、膝は震えていた。
それでも――彼の目は真っすぐ前を向いていた。
(……ノクの力に頼ってない。がむしゃらに、自分のままで……)
ミレイナの胸に、かすかな驚きと、そして小さな笑みが灯る。
「……いい目をしてるじゃん、カゲナ」
肩で息をしながら、カゲナも微かに唇を吊り上げた。
「ミレイナ姉……あの時、どうやって悪魔を……抑えてたんだ?」
不意にこぼれた問いだった。
けれどその言葉が、ミレイナの奥深くに眠っていた記憶を呼び起こした。
静かに息を吐きながら、ミレイナはゆっくりと立ち上がる。
苦笑いを浮かべたその目は、どこか遠くの空を見ていた。
「……抑えてなんか、いないよ」
「今でも、あたしの中にいる。“壊せ”“戦え”って……ずっとそう言ってくる。まるで手のかかる弟みたいにね」
「でも、もう怖くはない。ずっと一緒にいるから。長く付き合えば、少しは……話せるようにもなる」
(昔は怖かった。壊すことしかできなくて、泣いてばかりだった……でも、今は――)
ミレイナはふと、朝の空を仰いだ。
雲の切れ間から差し込む光が、優しく瞳を照らす。
「父さんと母さんと、一緒に旅をした。いろんな世界を見たよ」
「“音楽で魔法を操る世界”があった。旋律が風の色を変えて、聴くだけで心が救われるような、不思議で優しい世界だった」
「“空を泳ぐ巨大な生き物たちが星になった世界”も。彼らの記憶は空そのものに刻まれてて、人や世界のこと、何千年分の話をしてくれた」
「“神々がいる世界”も見たよ。姿はなくても、風が思考で語りかけてくる。不思議で、でも温かい場所だった」
そっと、拳を見つめる。
「“滅びたロボットたちの世界”も……忘れられない場所だった」
「誰も動いていなかった。ただ壊れた機械たちが、風に晒されながら静かに眠ってた。倒れたままでも、何かを守りきったような、そんな誇らしさがあった」
「……あたしの“相棒”も、そんな風に生きてた」
「生まれたときから、あたしの中にいた悪魔。言葉はいらなかった。存在だけで、全部伝わってきた」
「その子は、別の場所で……もういない。でもね、今もあたしの中で生きてるって思ってる。あたしが立ち止まらない限り――ずっと、そばにいてくれる」
「……最期のとき、その子は笑ってこう言った。『ミレイナ、進め』って。それだけで、全部救われた気がしたんだ」
風が静かに吹いた。
その声はまるで、どこか遠くの誰かへ向けられた祈りのようだった。
「だからね――あたしは、もう一人じゃないって思えるよ」
カゲナの胸が、じんわりと熱を帯びる。
ミレイナはまっすぐ彼を見つめ、言葉を紡いだ。
「あんたも、きっとなれる。強くなるっていうのは、こういうことなんだよ」
──地下の寝室。
ふと、リアが薄暗がりの中で目を覚ました。
(……なんか、変な音)
遠くで、低く唸るような音が鼓膜を揺らしていた。
その響きはじわじわと肌の奥に染み込み、不穏な気配をはらんでいた。
「……上、かな」
毛布を払って立ち上がる。
裸足の足が冷えた木の床に触れた瞬間、意識がはっきりとしていく。
寝室の扉を開け、通路を抜けて階段を駆け上がる。
一階にたどり着いた瞬間、外気が肌を打った。
(空気が……重い……。いや、“違う”)
朝の風が頬を撫でた。
そしてその先――異変が広がっていた。
広がる野原の向こう、結界の外。
森の縁に、巨大な影がいくつも蠢いている。
光る目、這い出す咆哮、足元を震わせる圧力。
それらすべてが、じわじわと境界を侵していた。
「上位種……あんな数……!?」
ゾッとするような寒気が、背骨を這い上がる。
(でも、まだいる……もっと、強い“何か”が……)
その時だった。空が鳴った。
雷が天を裂き、眩い閃光が野原を照らす。
「っ!」
風が巻き上がり、空間が震えた。
そしてその中心に――雷を纏った獣が降り立った。
「……ライゼン……」
白銀の毛並みをなびかせる神の使い。
ある少年を育て、“母”とも呼ばれる存在。
その圧倒的な気配に、リアは言葉を失う。
「牙を研ぐ者よ。見せよ……心のままに放つその力を」
その声は風に乗り、大地全体に響いたようだった。
結界の外にいた上位モンスターたちは、一斉に身を低くする。
本能的な敬意――神の使いに向けられた、恐れにも似た服従。
(どういうこと……見てるの? カゲナを……!)
ライゼンの瞳は、まっすぐ野原の中央――カゲナの方へ向いていた。
その視線に気づき、カゲナもふと顔を上げる。
雷の気配が、胸の奥にある“何か”と静かに共鳴する。
粟立つような感覚とともに、見えない問いかけが響いてきた。
(……あれは、誰だ……?)
ミレイナもまた、その視線に気づき、そっと口を開く。
「来たね。あの子は、雷の神獣――ライゼン。“牙”を見に来たんだよ」
「牙……?」
「強さじゃない。暴力でもない。“何を守りたいか”。それが、あんたの“牙”になる」
再び、空が鳴った。
だが、その雷には――不思議な温かさがあった。
そして、カゲナの胸の奥で――
確かな“何か”が、静かに芽生え始めていた。