1話
『黒髪の麗人と消えた密室』
プロローグ:静寂の予兆
深い霧が立ちこめる山道を、黒塗りのクラシックカーが静かに走っていた。運転席に座るのは若き刑事・相沢誠。隣の助手席には、黒髪が艶やかに揺れる一人の女性が静かに目を閉じていた。江戸川蘭子――その名は知る人ぞ知る名探偵である。
「……こんな山奥にまで呼び出されるとはね。」
蘭子は低く呟いた。相沢がちらりと彼女を見る。
「依頼主は三好亮という資産家です。屋敷に脅迫状が届いたと。詳細は現地で説明するとのことですが……気味が悪いですよ。」
蘭子は微かに唇を歪めた。
「脅迫状など、文字通りの脅しなら可愛いものよ。でも、わざわざ私を呼ぶということは、ただの悪戯ではない。」
相沢は無言で頷き、前方に見える重厚な鉄製の門を見据えた。
――三好家の洋館。
門の向こうには、時代を感じさせる石造りの建物が霧の中にぼんやりと浮かんでいた。無機質な外観が、この場所の不穏な空気をさらに強調している。
「着きましたね。」
門をくぐり抜け、車はゆっくりと屋敷の前に停まった。すぐに、執事らしき初老の男が現れた。深々と頭を下げる。
「お待ちしておりました。私は三好家の執事、石田でございます。」
「江戸川蘭子よ。そしてこちらは相沢刑事。依頼の件を聞かせてもらえるかしら。」
蘭子が歩み寄ると、石田は無表情のまま静かに頷いた。
「こちらへどうぞ。旦那様がお待ちです。」
重厚な扉がきしみを上げて開かれると、屋敷の内部はひんやりとした静寂に包まれていた。淡い明かりが照らす廊下の先に、一人の男が立っていた。中年の紳士――依頼主の三好亮だ。
「よくお越しくださいました、江戸川先生。」
亮は落ち着いた口調で頭を下げたが、その顔には確かな疲労と焦りが滲んでいた。
「脅迫状の件ね。詳細を聞かせて。」
蘭子の鋭い視線に、亮はゆっくりと頷き、懐から一通の封筒を取り出した。上質な紙に黒インクで無機質な文字が綴られている。
『すべては過去の代償だ。次に消えるのは、お前の大切なものだ。』
「……不気味ね。」
蘭子が囁くように言った。
「家族に危害が加わるのではと不安で……。娘の美咲も体が弱いもので、何かあってはと。」
蘭子は封筒を指先でなぞる。
「送り主に心当たりは?」
亮は目を伏せた。
「……ありません。しかし、この屋敷には過去、いくつかの不幸な出来事がありました。それが関係しているのかもしれません。」
不吉な言葉が、屋敷の壁に反響するように沈み込んだ。
その夜、屋敷には静かに、不気味な影が忍び寄っていた――。
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第一章:黒髪の探偵、館へ赴くへ続く。