ガイドにみちびかれて
──カレーが食べたい。できたら喫茶店がいいな。
その文面から親密度が感じられる、自らの望みだけを簡潔につづった淡白ともいえるメッセージを菜絵から受け取ったのは、明日がふたりとも休みになる火曜日の夜のことだった。
菜絵と尚志と二人して一般のお客を相手にする仕事についていながら、どちらかというと控えめでおとなしく、人を接客するよりも接客されるほうが好きな質であり、彼らが静かでおだやかなぶんだけ知らず知らず周りにたいしても同じものをもとめがちだった。
尚志がその文面をひらいたまま傍らのパソコンで検索しようとした矢先、今一度携帯電話が小さく鳴り、そちらをむくと続けざまに音が鳴って、内容を確かめると、菜絵が訪れたいらしいお店のURLと、白いご飯に典型的な茶色いルーがかけられた上に輪切りにした人参一切れとごろっと不揃いに大きなじゃがいもが二つ載ったカレーの写真がおくられてきて、家庭的といいたくなるほど素朴な見た目に懐かしさを誘いだされ食欲もそそられる。
URLをクリックしてメニューへすすみ、一番にあらわれた珈琲には立ち止まることなく指先でスクロールすると、「お食事」と題されたすぐ下にカレーライスの写真が貼られていた。
目にはいると共に気がついたのは、菜絵がおくってくれたのが平皿ではなく深さのある丸い器におさまったカレー単品のみで、こちらは半分に切ったミニトマトがてっぺんに愛らしくそえられたサラダの皿や、小さな丸い三つの皿にわけられた福神漬けやらっきょう、市販のものらしい緑のラベルが巻かれた円筒形の入れ物にはいった粉チーズばかりでなく、写真の構図が客の視点になっていることである。
菜絵のそれが真上から写されたものであったので、尚志はこの写真はどこから仕入れたものだろうと気になるままに別のサイトをひらきかけてふいに手をとめた。
雑誌の写真かな? そう思いなしてカレーの説明をよんでみると人参とじゃがいものほかに鶏肉もはいっているらしい。してみると二つともじゃがいもだと思い込んだうちの一つは鶏肉かもしれない。
尚志はそれと知ってすでに夕飯を済ませたというのに、ふいに食欲が復活するのをおぼえながらそれを即座におさえつつ、菜絵がふらりと立ち寄った本屋でガイドブックを手にしている姿を思いうかべた。
菜絵はすでに陽の落ちた冷えた通りから三階建ての書店へ白い息を吐きつつはいると、あかるく柔らかい生活空間や暮らしのヒントをあつかう本、趣味の編み物の本などを渡り歩いて時を過ごすうち持病の腰痛を思い出すがままそれを改善するための本をみつけ、何冊目かでなるほどこれは試してみる価値はあるかもと胸のうちでうなずきながら裏表紙をみて値段を確認するや否や前髪の下の眉を微かにひそめ、やや痛みの落ち着いてきた感のある腰へそっと手をあてながら、さすがにこの金額をぽんと出す気にはならずに今一度ページへ立ち戻り、二三個でもやり方をおぼえて帰ろうと、まつげの長い奥二重のきれいな瞳でじっとみつめるうち、
──帰るときにまた寄ろう。
そう決めてまばたきをしながら目をそらすと店内をゆっくり歩きだしてエスカレーターで下の階へおり、レジのちょうど真ん前にあって狭いながら人通りの多い情報誌のコーナーへひさしぶりに立ち寄ると、ほっそりした背表紙をみせて並んだ目当ての街のガイドブックを抜き出してパラパラとめくりだし、それには飽き足らず隣のガイド本もひらく。
その街は東京でも有数の人気エリアなので、二三年と言わず隔年あるいは毎年あらたなガイドブックがおなじ出版社からつくられては店頭にならぶ。
新しいのと古いのと合わせて、今は四つのガイド本が陳列棚におさまっているのであるが、どれも一センチにも満たない同じような幅で統一されているのに、一番古いものと一番新しいものとでは値段に二百円以上もの開きがあって、どうしても新刊が割高に感じてしまうのは円安の影響かしら? それとも中身も充実しているのだろうか。
それぞれをパラパラとめくりながら何度も行ったり来たりしてみても、ガイド本ごとにテーマがわかれているためにそれぞれに得失があって、どれか一つを選ぶことなど菜絵には到底できない。
それでも二十分ほど迷ったあげく一番新しいのを買うことに決めると、レジに並ぶまえに今一度腰痛を改善する本の売り場へ寄り、ストレッチ法を目と頭にたたき込んでから再びエスカレーターを経由して新刊のガイド本を抜きとりレジにならんだ。
それから家へ帰って夕飯と風呂をすませたのち、絨毯に座ってあたためた緑茶をすすってくつろぎながら、一ページずつ丹念に読み進めるのではなくざっと目を通すうち、雑誌のなかばのショップガイドに目を留めて、たちまち「喫茶店カレー」の語句に惹かれた菜絵は、今夜になっても気持ちの冷めやらぬままに、メッセージをくれたのではなかろうか? カレーのセットで珈琲をつけることもできるらしいし。
と、いつしか尚志は先日たまたま購入していたガイド本のカレーの項に、菜絵のおくってくれた真上からの構図の写真をみつけて、おなじ雑誌を読んでいた嬉しさのあまりしばし夢想にふけっていたものの、こちらの喜びを菜絵に伝えるのはどうも躊躇われるような気がして、胸に秘めておこうと決意するまま、
──その店、おれも行ってみたい。
と素直な気持ちだけをつづって送り、白地に格子縞のカップに煎茶のティーバッグをおとしてケトルに沸かしたお湯をそそぎ、しばらくして肘掛椅子にもどり口をつけてほっと一息ついていると小さな音が鳴る。
──嬉しい。楽しみ。
ごく単純なことばでつづられた、これ以上簡潔にはできないものの、かえって下手に飾ったり重ねたりするよりも一層胸にひびく言葉が菜絵から届き、尚志はたちまち疲れが吹き飛ぶのをおぼえると共に、しっとりやさしくてつややかなものが傷ついた心身へ穏やかに満ちてゆき、それから部屋全体へとふんわり広がって自分をつつんでゆくのを感じていた。
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