9 その女の帰る場所
まだ間に合うのに。
今、家に帰ればまだ二人の子供は助けられる。
人殺しにならずにすむんだぞ。
テレビのアフタヌーンニュースワイドで晒し者にならずに済むんだぞ。
ネットでいじめられずに済むんだぞ!
焦る僕の前で、女は黙々と通常業務をこなしていった。
あの子たちは大丈夫だろうか。
今度は気持ちがそっちに向いてしまう。
でも、昨日少し食べたから、まだ今日中に死ぬことはないはずだ。
あれで、多分二日は命がつながったはずだ。
僕は、あの子たちのマンションに帰りたいのを我慢して、女の行動を見守っていた。
子供たちが気がかりなのはあるけど、でも、悲惨な子供たちを見たくないという気持ちもある。
僕は意識を緩めて時間を早送りした。
ずいぶんコツが分かってきた。
一瞬、未来にタイムトラベルみたいに感じるけど、要するに寝てるときに時間が早く過ぎ去るように感じるのと同じことなのだ。
自分の中のデータ処理時間が早くなれば、相対的に時間は遅くなるし、処理速度を遅くすれば、時間は早く進む。
生きてる時は、肉体の、というか脳のデータ処理速度は寝てるとき以外は一定レベルで大きく変えられないけど、脳の能力に左右されない今では、それをかなり自由に設定できるということだ。
ビデオの早送りの様な周囲の様子が、不意に普通レベルの早さに戻る。
終業時間がきたのだった。
ロッカールームは二階にあった。
女はカードキーをかざしてロックを解くと、その中に入って行った。
入り口の脇に鏡と手洗い所があって、靴箱、そして奥には灰色のロッカーがたくさん並んでいる。
ロッカーとロッカーの間の狭い隙間で、女は着替え始める。
そこには他にも数人の女が着替えをしていた。
薄い下着から伸びたスラリとした太股が、いくつも並んでいるのを見たけど、死んでる今では心もときめかない。
ちょっとドキッとしたのは、単なる条件反射の様だ。
やっぱり、身体がないとエッチな気持ちも沸かないのだな、と寂しい気持ちになった。
考えてみれば、霊になった今なら、アイドルやかわいい女の子の着替えシーンも入浴シーンも見放題なのに、その事実を想像しても、全然心がときめかない。
死んでから、初めて幽霊ってつまんないなと感じた。
最後にカチャリとロッカーの鍵をかけた彼女は、さっきまでの看護師の恰好からスレンダーで今風な若い女に変身してロッカールームを出ていった。
他の同僚にかける、お疲れ様の声も張りのあるいい声だった。
さて、この女はこれからどこに帰るんだろう。
女の斜め後ろに浮かんで、僕はずっとついていく。
彼女は裏口から外に出ると、職員向けだろう奥の方の駐車場に向かった。
赤い軽自動車に乗り込むと、スムーズに車を出していった。
大通りの赤信号で止まった車に僕は滑り込む。
助手席に座り彼女の横顔を覗き込んだ。
眉間のしわが、気がかりなことを想像しているのを感じさせるが、ハンドルを持つ手は、マンションの方向とは全然別な方向に車を向かわせた。
僕はもう女に問いかける気力もなくして、彼女のすることを見ているだけだった。
子供たちのことは気がかりだが、まだもう少し猶予はあるはずだった。
病院を出てから三十分が過ぎた。車は大通りをそれて住宅街に入っている。
そして、住宅街の奥にある二階建てのアパートの駐車場に、車は入っていった。
バッグを片手に女が車から降りた。僕は女の斜め後ろに浮かんで着いていく。
階段を上がる彼女の下側に下がって、下からスカートの中を覗き見た。
薄いピンクのストッキングに包まれた太股が、黄色いしましまのショーツに吸い込まれるところまで見えたが、やっぱりドキドキを感じることもなかった。
生きているときの、疼くような性の渇望が全然感じられない。
欲望がない存在に何か意味があるのだろうか、と不思議に思ってしまう。
しかし、今の僕に何の欲もないというのは間違いだ。
ひとつだけあるから。
その欲求のために僕は存在しているのかもしれない。
そう、あの子たちを助けたいと思う気持ちのことだ。
女は二階の廊下を端まで進むと、バッグから鍵を取り出してそれを鍵穴に差し込んだ。
でも、あの子たちを助けたいと願うこの思いは、一体どこからくるんだろう。
あの子たちが助かったとしても、死んでいる僕の境遇が変わるわけでもない。
このままでは地獄いきだけど、あの子たちを助けたら天国にいけるとか、そんな条件付けられた覚えはないのだ。
助けたいと思う気持ちには、最初からそんな打算は含まれていなかった。
助けたいと思うのは、群れを作って生活する動物の、根源的な欲求なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、女は部屋に入り、その後話し声が聞こえてきた。
僕も急いでドアをすり抜けて部屋に入ってみた。
部屋の中には若い男が居た。
腹減ったよ、何か作ってくれと、女に言っている。
男の年齢は、女と同じくらいか、少し上に見えた。
今風のイケメン。そのイケメンが、冷蔵庫を開けている女の尻を触った。
「汗かいてるから汚いよ」
そう言いながらも女はあまり嫌そうじゃない。
クスクスと嬉しそうな笑い声まで聞こえた。
やっぱり人違いなんじゃないかと、何度目かの疑問符が僕の心を満たしていく。
そうだよなあ。二人の子供をマンションに置き去りにして、男といちゃいちゃなんて、普通できないよ。
この女がそうだとしたら、既に6日放置された子供が、どういう状態なのか、少しくらい想像できるはずだろう。
飢えと渇きに苦しんで生死をさまよっている我が子の姿を少しでも思い描くことができたなら、今すぐマンションに戻るはずだ。
「どれどれ、どれくらい汗かいてるか調べてやるぞ」
男の両手が女のスカートの中に入っていく。
あん、と女の甘えるような声が聞こえて、女のショーツがずりおろされた。
うわーべとべとじゃん。いやだあ。
まるでアダルトビデオでも見てるような展開が、僕の目の前で繰り広げられていく。
このままここにいても仕方ない。
この女が本当にあの子たちの母親なのかもはっきりしないし、仮にそうだとしても、僕の呼びかけにまったく反応ないのだから。
母親かもしれない女の居場所も分かったから、とりあえず子供たちのところに戻るか。
生きているときだったら、絶対興奮状態で見守るような展開から目を逸らすと、僕は天井をすり抜けて上空に飛び出した。