8 母親の職場
この子たちの母親は、まだ23歳という若さの看護師だった。
勤務先は、僕もかかったことがあるし、ひょっとしたら今現在も死んだ僕の身体が安置してあるかもしれない、この界隈ではもっとも大きな総合病院だった。
しかし、一週間も子供をほっぽり出して、仕事しているとは思えないよな。
いや、でももし無断欠勤が一週間も続けば、職場の人が連絡取りそうだし、もしかして倒れてるかもしれないからと自宅を訪問することだって普通あるんじゃないか?
となると、事故とか失踪とかで母親がいなくなったわけではない可能性が高い。
信じられないことだけど、あの子たちの母親は......。
この先は考えたく無かった。世の中には無責任な親とか暴力や虐待があふれているのは知っているけど、今まで僕のまわりにはいなかったし、親というのはこの世で唯一絶対信用できる存在だと、僕はこれから先も思っていたいからだ。
こうして考えると、僕の両親はいい親だったんだろう。
ごく普通のありふれた両親だと思っていたけど、テレビのホームドラマなんかで普通の親が、実は一番いい親だといえるのかもしれない。
その両親に、僕は酷い裏切りをしてしまった。
自殺というのは、生んでくれた親に対する最悪の行為だから。
沈み込んでいきそうな気持ちを、何とか引き起こして、僕は総合病院に向かった。
北区総合病院は、朝も早い内から混んでいた。
受付の前のベンチは、お年寄りの列が何列もできている。
赤ん坊の鳴き声がうるさいのは、きっと小児科の受付だろう。
今にも死にそうな声で泣き叫ぶ赤ん坊をまだ若い母親が必死になだめている。
ここに連れてこられる子供たちは幸せだな。
診察室の前で、注射されるんじゃないかと不安そうな顔をした幼稚園児をみて、何だかふっと心が軽くなった。
とにかく、あの子たちの母親を探さないと。
そうは言っても、本当にここに居るのかは半信半疑だった。
無断欠勤していれば、マンションの方に誰かが尋ねるとかあるだろうけど、ひょっとしたら休暇を取って失踪したのかもしれないし。
子供を二人もほっぽり出して、むしろ失踪がまだ理解できるというものだ。
そんなことを思いながら意識を広げていって、母親の名前を探す。
身体から抜け出た僕には、生きているときにはできなかった事が、不思議な事に自然に出きるようになっていた。
空を飛ぶこともそうだし、視点を拡散していって広い視界というかデータを収集できるのだ。
僕も既に死んでから一日以上。
死んでることに慣れてきたのかもしれない。
その名前の名札をつけた看護師は、三階の詰め所に居るのを感じた。
そちらの方に意識を集中させる。
ストレッチャーが楽にすれ違えるくらいに広く取られた廊下に挟まれた場所に、三階詰所はあった。
胸の高さのカウンターに囲まれた3メートル四方くらいの詰所には、いくつかのデスクの上にパソコンが並んで、モニター上にはスクリーンセーバーのテキストが踊っていた。
各部所の連携強化月間......というのは今月の目標かな。
そして、その看護師はパソコンに向かって何かを入力して居た。まともに仕事をしている。
世界七大不思議テレビなんか目じゃないくらいに愕然としてしまった。
一体全体、この母親はどうしてしまったのだろうか。
子供たちのことを記憶喪失したのか?
理解できない映像だった。人違いだろうか。それならすごくいいのだけど。
観た感じでは二人の子供がいるようにはとても見えなかった。
長い髪を結んでアップにしているから、それでもまだ年長に見えるんだろうけど、普段着の格好なら大学受験生と間違われてもおかしくないだろう。
予備校の前なんか歩いていたら絶対そうだと思われる。
色白で繊細な顔つき。顎が細く、目元もはっきりしていて、一言でいってしまえば美人だった。
ピンクの制服に身を包んだ身体つきは、腰がキュンと括れている。
満員電車に乗れば絶対痴漢に会うタイプだと思った。
その女の名前を呼ぶ声がした。
その方に向き直る彼女は、308号の点滴を確認してきてという相手の依頼に、にっこり微笑んではい、と返事をした。
その表情の中には二人の子供たちを死に追いやっている苦悩も、精神的な崩壊も見えなかった。
やっぱり、人違いなんだろう。同姓同名の人は、この世の中にたくさん居るのだし。
病室で点滴のチャックをしている彼女の前から消えようとしたけど、真正面から見た彼女の目元が、三才の女の子と似ているのに僕は気づいた。
まさか。
僕の気持ちが不安になる。
理解できない現実が目の前に展開される予感。
おい、あんた。子供はどうしたんだよ。二人の子供たちは。あんた、子供を助けてくれよ。
僕は女の耳元に立って有らん限りの大声で叫んだ。
でも、僕の声は空気を震わせない。物理的に世界とつながってないんだからしかたがない。
そんなことはわかってるけど、叫ばずには居られなかった。
ふと女が、何かを感じたみたいにこっちを振り向いた。
一瞬僕を見たのかと思って、こっちがたじろいでしまった。眼があった気がしたのだ。
届いたのだろうか? 心の声が心の耳に。
軽く眉間にシワがよって、女の目の奥に恐怖の表情が垣間見えた。
やはり、この女で間違いないとその瞬間僕は思った。
心の奥に気がかりなものを持っているのは確かだった。
僕は再び叫んだ。子供が死にそうだぞと。助けてくれと。
めまいでもしたかの様に、女は少し首を振っただけでパソコンに向き直った。