4 蜘蛛に乗り移って
桜の樹が何本か植えてあるだけの小さな公園の側の派出所に、僕はふんわりとたどり着いた。
入り口の奥のデスクで若い制服警官が一人、パソコンに向かってキーボードを操作していた。
とりあえずその警官の横に立つと、耳元で大声をあげてみる。
何の反応もなかった。警官の肩とか腕をつかんだりひっぱたりなぐったりしてみたが、予想通り物理的な刺激は全然与えることができない様だった。
さっきの女の子には僕の声が聞こえたのに。
あの子は特別霊感が強い子だったのかもしれない。
二人の幼児の命がかかってるのに。
そう思って焦る僕の前で、その若い警官は鼻毛を抜きながらモニターに向かって半分口を開いている。
ムカッとするが仕方がない。
やはり幽霊には人助けなんて無理なんだろうか。
さっき部屋に居た幽霊の男も、この三日間さんざん努力したと言っていたし。
僕も諦めてさっさと天国に行った方がいいのかもしれない。
と思ったのは一瞬だった。すぐに否定する気持ちが湧き上がる。
あの無責任な男でさえ三日粘ったのだ。このまま諦めるなんて、まだまだ諦めるのが早すぎる。
何か方法がないかな。
そうだ。ふと思いついてデスクの上に置いてあった鉛筆に意識を集中してみた。
鉛筆を握る事はできないが、念力とかで字を書けないかな。それができれば問題はあっという間に解決なんだけど。
一心不乱に鉛筆を動かそうと念を送ってみたが、やはりそう簡単にはいかなかった。
吹けば飛ぶくらいに軽い鉛筆が、まるで10キロのバーベルのようにびくともしない。
この方法は無理の様だ。
そりゃそうだよな。幽霊が文字を書けるなんてことになったら、ミステリー作家は書くことが無くなってしまう。
他の方法はどういうのがあるだろう。
声もあげられず物理的にも何もできない。この状況で他にできる事って、はたしてあるのだろうか。
生きてるときから頭の方はあんまり自信があるわけではなかったが、今更ながらに自分のバカさが嫌になる。
漫画でもアニメでも小説でもいいけど、その主人公ならこういうときに何か閃いてささっと問題を解決するものだ。
あーもういやになる。
ふと天井を仰いだ僕の目に、重ねて言うけど僕にはもう目はないから、僕の意識の中にと言った方がいいか。その意識の中に黒い点がひっかかった。
それは薄暗い壁にピタリと張り付いた小さな蜘蛛だった。蝿取り蜘蛛だ。
ぴょんぴょん跳ねるようにして移動する姿がユーモラスで、本来蜘蛛は嫌いな僕だけど割と好きな昆虫だった。いや、蜘蛛は昆虫だったっけ? 違ったような気もするが、この際問題はそこじゃない。
もしかしたらと、ふと思いついたのだ。
僕は壁にしがみついている蝿取り蜘蛛に近寄った。
僕の視界の中で壁の黒い点だったものが徐々に大きくなり30センチくらいまでに近づいた。
僕はそのままどんどん近づいて蜘蛛の中に入るようにしてみた。
突然、僕のまわりの世界が色を変えた。
四方八方の景色が一気に頭に流れ込んでくる。奇妙な感覚だった。
手足がたくさんあるような気もするが、足がこんがらがることもなく、動こうと思った方向には動くことができた。
僕は蝿取り蜘蛛に乗り移ったのだ。
もしかしたら虫にくらい乗り移れそうな気がしたのだ。
何かそういう話、漫画かなんかで読んだ気もするし。
今まで感じてなかった現実感と言うかリアルな世界が僕を興奮させる。
これであの子たちを救えるかもしれない。
僕は壁をするする降りていき、床をぴょんぴょん跳ねてスチールデスクの脚をよじ登った。
感覚的には100メートル以上の断崖絶壁をよじ登るわけだけど、体は軽いし全然危ない感じはしなかった。
さっき居た幽霊男は虫に乗り移れるかなんて試してみなかっただろうな。
やれば出きるじゃん俺って、すこし優越感を感じる。
デスクの端からじわじわ進みながら、しかし高揚した僕の気持ちは少しずつ冷めてきた。
ええと、蜘蛛じゃあ喋れないわけだから声をかけることもできないし、鉛筆も持てないから字を書くこともできない。さて、ではどうやって警官に知らせるか?
考えていても埒があかないことは考える意味がない。
僕はとりあえずパソコン脇に積んである台帳の上にぴょんと乗ってみた。
おおっと言う声をあげて大げさに若い警官はのけぞった。
びっくりしたーとか言ってるんだろうけど、声を声として聞くことができなかった。
空気の振動が感じられるだけだ。
一瞬叩き潰されるんじゃないかと怖くなったが、この警官はそういう奴じゃなかったようだ。
鉛筆の先で僕の後ろをとんとんと叩く。
追っ払う気のようだ。
思わずその鉛筆を避けるように身体が動いて10センチほど横に移動した。
でも、このまま追っ払われてしまうと意味がない。
なんとかして子供たちの危機を伝えなければ。
でも、どうやって伝えればいいんだ?
身振り手振りと言うのも無理があるし。
また追い立てられてデスクの端に跳んだときにでっかい壁が立ちふさがるように見えた。
真っ黒い壁。
パソコンのモニターだった。
そうだ。パソコンという手があった。
キーボード。
僕は逆方向に何度か跳んでクリーム色のキーボードの上に乗っかった。
イラついた警官に乱暴な行動をおこさせるのではないかとヒヤヒヤしたが、データ入力に飽きていたのか蜘蛛との追っかけっ子を楽しんでいる様子だ。
そろそろと追いかけてくる鉛筆を無視して、僕はMのキーの上に陣取った。
しばらく待ってから今度はAのキーの上にいく。
こうやって、マンション904SOSという文字列を警官に知らせるつもりだった。
なかなかいいアイデアだ。この近くに九階建て以上のマンションはあのマンションしかないんだから。
しかし、アイデアはよかったんだけどうまくいかなかった。
はなから僕の乗ったキーボードの文字に意味があるなんて考えていない警官もだめだったが、肝心の僕がキーボード上の文字を探すのに手間取って、自分でもこんがらがってしまったのだ。
キーボードなんて盲打ちできるくらいに扱い慣れているものだったのに、乗ったことはなかったからな。結局、警官に息を吹きかけられてキーボードから吹き飛ばされてしまった。
ふわりとした床に立ってみると、それはティッシュペーパーだ。
すっと持ち上げられて、交番の外にふり落とされた。
交番の戸板がピシャッとしまる。
ちぇ、失敗だったか。
でも、虫に乗り移れるというのがわかったのは収穫だ。
別の虫に乗り移ったり、他の方法で何とかなる気がする。
やっぱり、蝿取り蜘蛛じゃどうしようもないよな。
さて、じゃあこの蜘蛛さんの身体とさよならしようか、一瞬、この蜘蛛の身体からどうやって出るんだろうとヒヤヒヤしたが、案外簡単に抜け出ることができた。
自分の意識を別のところに向けて、身体を動かさずにそっちに行こうと強く思うことで、ガムテープを剥がすような変な抵抗感とともに僕の心は宙に浮いたのだ。
僕の支配から逃れられた蝿取り蜘蛛は、しばらくジッとたたずんでいたが、すぐに気を取り直したのか植え込みの陰に跳んで行った。