10 転落
マンションに戻ってみると、まず弟の泣き声が聞こえてきた。お腹減らしているのだろう。
女の子がコップに水道水を汲んで、弟の口元に持っていく。弟は少し飲んだけど、すぐにいやいやをするように首を振った。水がこぼれて、カーペットに流れた。
『僕の声、聞こえないかい?』
女の子の耳元で、僕は力一杯大声を出した。
ピクンと女の子が反応した。キョロキョロとまわりを見回した。
「だれ? お兄ちゃん?」
昨日よりも精神的に疲弊しているから、聞こえたんだろうか。
『そう。よかった聞こえたね』
「ママ、まだ帰ってこないよ」
女の子はそう言って泣き出した。
弟と、女の子の泣き声が部屋に響く。
部屋の中は二人の悲しい声で渦巻いているのに、この悲痛な声はどこにも届かない。
誰も二人を助けに来てくれない。
この子たちを助けられるのは僕だけなのだ。
胸の中が熱くなった。
死んでから初めて熱を感じた瞬間だった。
『よく聞いて。窓を開けてベランダに出るんだ。開かなかったらガラス割ってもいいから』
「ガラス割ったらママに怒られるよ」
『大丈夫。絶対大丈夫だから。そして、助けてって書いた紙を投げるんだ』
「字かけない」
そうだったか。まだ小学校にも入る前だから仕方ない。
『じゃあ、字は書かなくていい。そうだジュースの瓶でも何でもいいや。とにかくベランダから物を落とすんだ』
ベランダの下は駐車場になっている。
そこに上の階からゴミが落とされたら、管理人が気づいて注意しにくるだろう。
助けてって書いた紙を落とすよりも、ガラス瓶なんかの方が下にいる人間には、むしろ気づかれやすいかもしれない。
外は暗くなってきているが、まだ人通りがある時間だ。
駐車場にも車の出入りがあるはずだ。
「分かった。やってみる」
女の子が立ち上がる。
ふらふらと力ない足取りでキッチン横にいき、ビール瓶を一本持ち上げた。
リビングを抜けて、ベランダに出るガラス窓を開いた。
なんだ、窓開くじゃないか。
しかし、ベランダの手すりの壁が高く、そのままでは女の子の手が届かなかった。
『椅子を持っておいで、それに乗って落とすんだ』
再び女の子が部屋に戻って、インターホンのところの丸いパイプ椅子を持ってきた。
よし、いいぞ。これで二人は助かるはずだ。
ずっと鬱々していた気持ちがすっと軽くなった。
女の子たちは助かり、僕は気分も晴れやかに天国に向かえるはずだった。
しかし、そうはならなかった。90パーセントはうまくいったと思う。
残りの10パーセントが最悪だったのだ。
ベランダに置いた椅子に、女の子が上がる。
瓶を持った手がふるえたのか、下に落とそうとしてバランスを崩したのだ。
あっと、声をあげる暇もなく、女の子の身体はベランダの柵を越えた。一瞬後には下の駐車場の方から、パサリと妙に乾いた音が小さく聞こえてきた。
同時に聞こえたガラス瓶の割れる音の方が、よほど大きく聞こえたほど。
一人の女の子の命の火が消えたというのに、そちらの音は悲しいくらいに小さかった。
すぐに僕は下に降りて頭から血を流している女の子のそばに行った。
悲鳴が聞こえて、周囲に人が集まってきた。
女の子の身体から、その霊魂がゆっくりと滲み出るように現れてきた。
僕が見ている前で、女の子の霊は呆然と自分の身体を見下ろしていたが、すぐに、ママと叫んで空中に舞い上がった。
おい、待ってくれ。
僕も急いで後を追う。
方向はさっきまで僕が居たマンションの方だった。
この子はママの居場所を知っていたのか?
母親に連れられて一緒に行ったことがあったのだろうか。
ちょっとそうは考えられないけど。
薄暗いベッドルームにはその女が裸で横たわっていた。
だるい表情ということは、さっきまで男と抱き合って居たのだろう。
その相手の男がシャワーから出て頭をタオルで擦っている。
女の子の霊は裸の女に抱きつくようにくっつくと、強く叫ぶ。
ママ、ママという心の叫びは静まり返った部屋の中に洪水のように響くが、男は何の反応もない。
無駄だよと女の子に言おうとしたとき、母親がピクンと動いた。
「今、私の事呼んだ?」
女の言葉に、男が首を振った。
「何も言ってないけど?」
「ママって聞こえたんだけど」
「何言ってるんだよ、呼ぶにしてもママじゃないだろ」
おかしそうに男が笑った。
「そうよね。空耳だよね」
母親も口元をゆるめて笑おうとしたけど、その表情が凍った。
「そこ、何か居るよ」
部屋の隅を指差して声をあげた。
いきなりの事に、男もどう反応していいのかわからないのだろう。
一瞬戸惑った後、女のそばに来てしっかりしろと肩を揺すった。
『そっちじゃないよ。ここだよ、ママ』
男の反対側から女の子が叫んだ。
「え? このは? うそ......どうして。くるみも?」
つぶやくように言う女の言葉で、やっと二人の名前がわかった。
女の子がこのはで、弟がくるみというんだろう。
反応があったのが嬉しかったのか、女の子はさらに情熱的に母親に呼びかけながらまとわりつく。
「いや。来ないで」
裸のまま立ち上がった女は、半狂乱で手を振り回しだした。
「おい。どうしたんだよ。しっかりしろ」
男が彼女の後ろから抱きついて静めようとした。
すると、女がいきなり泣き出した。
「子供……死んじゃったのかも。そうだよね。当然そうなるよね」
「子供? なに言ってるんだよ。子供居るの?」
男は彼女が二人の子持だとは知らなかったのだろうか。
戸惑った表情で疑問符を連発した。
そうしている間も、女の子は母親に取り付いては名前を呼ぶことを止めようとしない。
僕は見ているのが辛くなって、女の子に止めるように言ったけど、僕の言葉なんて女の子の耳にはかすりもしないようだ。
生きているときは、動くことにも叫ぶことにも体力を使うからやがては疲れてしまうけど、肉体から離れた魂だけの状態だから、それを続けることに何の消耗も感じないのだ。
今の僕には身をもってそのことが理解できる。
緊迫した部屋の空気をからかうように、明るいミュージックが流れ出した。
女の携帯電話が着信したようだ。
一瞬、このはちゃんが鳴らしたのかと女の子を見たけど、相変わらずその霊は母親にまとわりつくのみだった。
着信音にも気づかないのか、女は耳を抑えてうずくまって居る。
おい、鳴ってるよと男は言いながらテーブルの上のバッグから携帯電話を取り出した。
反応のない女に途方に暮れた男は、何かにすがるように携帯電話のボタンを押した。
もしもし、大浦警察署の者ですが......そんな言葉が漏れ聞こえていた。
ええ? 何ですか? まさか。ちょっと待ってください。ここに居るけど、なんか変になっちゃって。あ、ここは三原三丁目です。僕のアパートなんですけど......。
うろたえた男の言葉を最後まで聞かずに、僕は部屋を抜け出した。
上空に舞い上がる。
これで僕の仕事も終わりだ。
いや、別に仕事でも何でもないんだけど、でも思い残すことはなくなってしまったわけだ。
あとは、どんどん上に上がっていけば天国に着くんだろうか。




