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身体が重い。
ここのところ、ずっとこの不調を感じている。
昨日までは頭痛が気になっていたが、今朝はそれに加えて首から肩、腰の辺りまでが重くて痛い。
何の症状なのか。
病院に行けばいいのだろうが、仕事は待ってくれない。
だるい身体を引き摺るようにして、洋輔はベッドから這い出した。
自宅から会社までは電車二駅。駅も中々の雑踏だったが、洋輔は己を叱咤してオフィスまで行った。
が、そこで力尽きてしまった。
ガラスの扉を押し一歩入った途端、目の前が真っ暗になった。
気が付いた時。
洋輔は商談用の小部屋のソファに寝ていた。
「おおい、大丈夫かぁ?」
頭の上から問いが来た。重い首をゆっくり上へと持ち上げると、同期の坂崎が覗き込んで来た。
「朝っぱらからぶっ倒れたヤツが居るっていうから見に来たら、やっぱりおまえか」
「……俺、は?」
オフィスのドアを開けたところまでしか覚えていない。
洋輔は坂崎に、どうして自分がここに寝かされているのか、と訊いた。
「周防先輩がおまえをここへ運んでくれたんだよ。で、そのまま取引先へ飛んでっちゃったから、俺が様子を見に来たわけ」
「すまない……」
「どーでもいいけど、洋輔。気が付いたんならもう帰ったら?」
「え?」
「顔、真っ青だぜ。仕事出来る状態じゃないだろ?」
心配して言ってるんだぜ、これでも、と、坂崎は苦笑した。
「まあ、おまえが早帰りした分の仕事は、俺がやんなきゃなんなくなるけどさ。そんな『とっても具合悪いです』って状態でオフィスにいられても、こっちも気が滅入るしさ」
「うん……。そう、だよな」
わかった、と頷いて、洋輔は起き上がろうと、ソファの背に手を掛けた。
が、思った以上に力が入らない。
がくり、とまた背を椅子に着けてしまった洋輔を、坂崎は「しょうがねぇなぁ」と抱え起こしてくれた。
「都築部長には俺から早退のこと言っておくから。このまま帰れ」
やっと立ち上がった洋輔に、坂崎は言った。
「悪い。何から何まで」
申し訳なくて、軽く頭を下げた洋輔に、坂崎はふん、と鼻を鳴らした。
「同期のよしみで言うけどさ。……洋輔、ここの仕事向いてないんじゃねぇの?」
意外な言葉に、洋輔は顔を上げた。
「ずっと思ってたわけよ、俺。おまえ、全っ然仕事覚えられないし。なにやらせても人より時間かかるし? だったらもう、いっそのこと転職したら?」
どう、返していいのか分からずに、洋輔は黙って坂崎を見つめていた。
と。
「——なに? 俺の顔に何かついてるって?」
「——え?」
「だって洋輔、立ち上がってからじっと俺の顔を見てっから」
「いや……、だって、おまえ俺に転職しろなんて……」
「は?」
坂崎は心底びっくりしたという顔をした。
「何それ? 俺、洋輔に転職しろなんて言ってないぜ?」
「でも、今——」
「おいおい〜〜」
坂崎はクスクスと笑いながら洋輔の肩を抱いた。
「霧島洋輔くん、本当にお疲れのようだね? 人が言ってもない言葉が聞こえちゃったってヤツかな」
とにかく今日は帰宅しろ、と言われて、洋輔は今度こそ坂崎に礼を言って部屋を出た。
******
それにしても。
先程の顛末は何だったのだろうか?
洋輔は確かに坂崎に「転職しろ」と言われた。
言われた、と思っている。
しかし、坂崎はそんなことは言っていないという。
時間にすれば恐らく、ほんの数分のやり取りだ。だが、洋輔が確かに聞いた言葉は、坂崎は知らないという。
「立ったまま寝てた? 洋輔ちゃん」
退社時に、坂崎はそう揶揄った。
「坂崎が……、嘘ついてるとは、思えないしな」
出社した時と同様、重い身体を引き摺るように駅まで歩く。時刻は、ちょうど昼。
梅雨が明けたばかりのこの頃は、身体が暑さに慣れていない。
まして、昨今の異常な高気温で、自分だけではなく皆体調を崩している。
「早々に暑気中り、かな、俺……」
昼食時間で、ビルから会社員がどっと吐き出されて来る。
食堂街は駅とは反対方向だ。洋輔は、人の流れに逆らって歩いた。
ふと。
すれ違う人影に目が行った。
シルバーカーを押しながら歩く小柄な老婆は、洋輔の目線に気付くと、つ、と足を止めた。
「——あんた、このままだと三日以内に死ぬよ」
嗄れたような、それでいて幼女のような声音。
洋輔はぼんやりしていた頭をハンマーで殴られたような気分になった。
もう一度聞き返そうと老婆を目で追う。
しかし、その時にはもう、小柄な姿は食堂街へと向かう人波に紛れてしまっていた。
——ダメだ!! 絶対あのお婆さんを見つけないと!!
直感的に思った洋輔は、怠かったことなど忘れたように人を掻き分けて走り出した。
——どこだ?! どこへ……
焦る洋輔の目に、よろよろと横道へと入って行く老婆が映った。
「待ってっ!!」
ショルダーバッグを振り回しながら走った洋輔は、横道の入り口で老婆に追い付く。
グレーに黄色の小花柄の割烹着の、背中の結び紐をむずっ、と掴んだ。
「おっとっと!!」
よろけて後ずさった老婆を、洋輔は抱き止める。
「ご……、ごめんなさいっ。でも、あの、」
「ああ——。よく、あたしを見付けたね、あんた」
老婆は怒るでもなく、あの不思議な声で言った。
「大概の人間は、忠告してもあたしを捕まえになんか来ない。あんた、大したもんだ」
「そう……、なんですか?」
「ああ。あんたはもしかしたら——の持ち主かもしれないねぇ」
不思議な言葉で洋輔を褒めた老婆は、自分を捕まえた褒美として、と、洋輔の方へ掌を
向けた。
すると。
すすすすっ、と、黒い靄のようなものが、洋輔の身体から抜け出て来た。靄は渦巻きながら老婆の、翳された掌へと集まる。
ぐるぐると回りながら収斂されていった靄は、やがて真っ黒な丸い球となって、老婆の掌に乗った。
「ほっ。随分とくっつかれていたようだね」
老婆は、掌の黒い球を見ながら面白そうに言った。
「これは——?」洋輔が恐々尋ねる。
「これが、あんたの身体の不調のもとさね。……どうだい? 軽くなったろう?」
言われて、洋輔は自分の身体を改めて見た。確かに、今まで重かった頭や首が、嘘のように軽くなっている。
「助かりました。ありがとうございます」
「礼を言われるのはまだ早いよ。ほれ」
老婆は、当然という態度で掌の黒い球を洋輔に投げて来た。慌ててキャッチした洋輔は、訳がわからなくてどぎまぎする。
「こっ、これっ、これはっ……」
「あんたにくっついてた不調のもと。あたしが持っててもしょうがないから持ち主に返すよ」
せっかく取れたものを返されても困る。捨てようとした洋輔を老婆が止めた。
「こらこら。そんな危ないことをおしでないよ。そこら辺に転がして、赤の他人にくっついたら大変なことになるだろう?」
「けどっ。また俺に戻ったら、俺は死ぬんでしょう?」
半分涙目で、洋輔は老婆に言う。
「どうすれば、俺、助かるんですかっ?!」
「簡単なことさ」老婆は軽く言った。
「あんたにそいつをくっつけたヤツに、またくっつけ返せばいい。元々、それはそいつの呪だからね」
「ジュ……?」
「呪。呪い。人が人を妬んだり蔑んだりすると生まれる、情念ってものだ。それが薄ーい煙となって憎い相手に絡んでいく。何年も何年も掛けて、ね。または、いっぺんに纏わり付く場合もある。——まぁ、あんたのこれは、ちょっとずつ妬まれたか蔑まれたかの代物だね」
「で、でも。相手が誰だか分からないんじゃ、返すことも……」
「分かるさ」
老婆は洋輔にぐいっ、と顔を近づけた。
「さっきも言ったが、あんたはそいつの『声』を聴くことが出来る。その球を持っていれば、もっとはっきり分かる。くっつけ返す相手が見付かったら、そいつの背中に球を擦り付けてやればいい。但し」
すっ、と老婆が離れた。
「返すのは三日以内。必ず午後だ。午前中だと跳ね返される危険があるからね」
「午後って……」
「午後って言ったら、午後だね」
「正午より後の時間、ってことですか?」
洋輔が問うと、老婆は初めてにぃっ、と笑った。
その口の中は真っ黒で、歯は一本も見えない。
瞬間、洋輔は背筋に怖気が走った。
「あんたがその時刻を『午後』って決めたんなら、そこからが午後だ。——いいかい、機
会は一回のみ。午後に、相手へ間違いなくくっつけ返せれば、あんたは死なずに済む」