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桜花の罠

「災難でしたね」と栂坂が白い液体をグラスに入れた。


「なんだそれは」深瀨は、笑みを浮かべて言った。「どぶろくか?」


「100パーセントのお米のジュースです。甘酒とも言います。昨日私が作りました」


「それを酵母で発酵させたものを飲みたいのだけど」


「その怪我でですか?」と栂坂は、深瀨の左腕のギブスを見た。


「ビールでも良いけど、ずっと飲んでいないんだよ」


「そりゃ入院中に飲める訳ありません」


「栂坂さん、もっと言ってやってください、腕がポキンですよ。未だ中にボルトが入っているし、抜糸もしていないんです。なのにお見舞いに行った僕にビール買ってこいって無理を言うんです」瀬川が、この時とばかりに言った。


「喉が渇くんだよ。病院ってさ。結構乾燥していてさ」


「せめて抜糸までは、ここでは飲ませませんから」栂坂は、甘酒の入ったグラスをどんと置いた。


「常連客が一人居なくなるぞ」脅すように低い声で深瀨が栂坂を睨んだ。


「どうぞ、その代わり今度のビールの出来が相当良いみたいですよ。飲めなくて残念ねぇ」


「くそ、足下を見やがって。」と深瀨は甘酒を手にした。


「では、深瀨さんの退院を祝って」と瀬川が、ビールを掲げた。「乾杯」


「はいはい、ありがと」と深瀨は、甘酒を飲んだ。「悪くはない、軽い甘さでどぶろくみたいだね」


「酒飲みに、甘すぎる甘酒は無理でしょうから、甘みを抑えてあります。あとすこしヨーグルトも入れました」栂坂はにっこりと笑った。


「で、瀬川から見舞いの度に今度の事件のついて情報を貰ったけど、すごい事になっていたんだね」深瀨が、栂坂に言った。


「僕も驚きましたよ。でも、まさかあそこに子供の遺体が布に包まれて埋められていたなんて、深瀨さんが、救急車で運ばれて行ってから、事情聴取で僕はずっと現場に居残りだし、他に警官が沢山やってきて、地面を掘ったら白骨化した小さい遺体が出てくるし、ずっと寝不足になったんですからね。みつけてくれてありがとうとか、深夜に子供が尋ねてきやしないか心配で心配で」


「大丈夫、おまえには霊感はない」深瀨は、横にいる瀬川に指を突きつけた。


「ハチノスのトリッパーです」と栂坂が、白い椀にトマト色をした煮物を差し出した。


「ワインが欲しくなるものを、出すかね」と深瀨は悪態をついた。


「あとは、いぶりがっこの、クリームチーズ和えです。」と小皿を置いた。


「飲める状態の時に出してほしいよ」


「私は、皆さんが、楽しく飲んで居るときに、我慢しているのですよ」栂坂は、手にしたビールをちょっと飲んだ。


「あんたは従業員だろ。」深瀨が、栂坂を睨みつけると、ペロリを舌をだして栂坂はおどけてみせた。


「それより、私の肴は、瀬川、おまえの話だよ。で、幽霊は来たのかい?」


「来たら、気が狂っていますよ。」


「だろうね。喜山はどうなった?」


「傷害の現行犯で捕まった後ですけど、えーと。桜庭さんの本名なんでしたっけ?」


「北條 和子」


「そうそう、その北條さんの旦那の死体の爪に中にあった肉片のDNAが喜山 和夫のと一致したそうです。」


「じゃあ、桜庭が旦那を殺した訳ではなかったのか・・・」


「しかし、なんで喜山が旦那を殺したんだ?義理の妹が、DVに遭っていたその仕返しか?」


「もっと、すごい事らしいです。和子の子供の血液型を調べたら、和子と北條の間の子ではなかったそうです。DNA鑑定でも、間違いないそうです。」


「なんだって?」

「あの子供の遺体を調べたら、なんと和夫の子だったそうです。二人は義理の兄妹の間ながら、深い付き合いがあって、そして和子さんは、義理の兄の子を妊娠したそうです。当時都議だった喜山 和夫の父は、そのスキャンダルを恐れて、和子と書生だった北條を駆け落ちした事にして、その代わり二人の生活の面倒は見たそうです。」


「DVに走るわけだ、好きでもない女と結婚させられ、自分の子でもない子供の世話をしなくてはならないわけだからな」


「子供は、DVの最中、激情に走っていた北條に殺されたらしいです。多分、不可抗力だったのでしょう。それも喜山が和子から聞いたと言ったみたいです」


「和子から知らせを受け、我が子を殺された喜山が乗り込んできたというわけか」


「週刊誌を読めば、面白おかしく書いてありますよ。なんと行っても、次の都議選に出ようって人でしたから」


「北條は、冷凍庫に二人がかりで押し込められ、和子は行方をくらます。そして、実家に近いという理由で、子供を公園に埋めたか・・・」


「まぁ、桜庭さんに関する事件は、これで終わりましたし。あとは、いつもの生活に戻りましょうね」栂坂が、2杯目を自分で注いだ。


「それより、なんで僕を庇ったんですか、入院して居る間、プロジェクトをまとめる人間が居なくて大変だったのですから」


「部下を守るのは、上司の特権だ。でもなんだかんだと言いながらも結構良くまとめてくれていたみたいじゃないか、これがお前が抜けてみろ、替わりがいないのだからな」


「替わりを育てるのは、上司の責務です。」瀬川はやや目を据わらせてきた。


「まぁ、そうだな。」深瀨は、いつもと違う部下の様子に身を引いて言った。


「でも、せんぱい、本当に心配したんですよぉ」と瀬川は、空になったグラスを突き出した。「お替わりください」


「悪かったな、でもな、部下に管理の仕事を手伝わせるのもOJTの一つだ。お前もいつまで経っても、一兵卒にして置くわけにはいかないからな」

 瀬川はグラスを渡されると、ぐいと半分以上飲んだ。


「僕は、ずーっと深瀨さんと、働きたいんですぅ」

そして、あっという間に、残りも飲んでしまい。空になったグラスをまた突き出した。

「おかわり!今日は、朝まで飲みましょう!!」


「流石に、それは、閉店時間が・・・」と栂坂は苦笑いをしたが、当の瀬川の空になったグラスはテーブルに置かれ、その横に瀬川の頭が鎮座した。


「早いなあ、何を飲ませたんだ?」


「深瀨さんが来る前から、飲んでましたし、しかも度数の高いビールを」栂坂は、苦笑いをした。「弱いのにねぇ」


「そうか、心配させて悪かったな。」深瀨は、ぽんぽんと瀬川の頭を叩いた。


「深瀨さぁん」と瀬川が、つぶやいた。


「こいつ、私の部屋でも、私の名を呼んで寝ていたんだぜ」深瀨は、にやりと笑った。


「深瀨さんを好きなんですね」栂坂は、カウンターから身を乗り出して、寝息を立てている瀬川の横側をみた。「かわいい」


「若いものな」


「今夜、部屋に連れていって食べちゃったらどうですか?」


「無責任な事をいう」


「人ごとですもの、いくらでも言えますよ。いっそ既成事実を作って、あとはなし崩し的に、結婚ってのもありじゃないですか?深瀨さんはひとりよがりなんです。絶対なにかしらのパートナーが必要です」


「ひとりよがりなのは、身についた生来の癖みたいなものさ」


「その癖。いずれその腕以上の傷を負うことになるかもしれませんよ」


「ああ、そうかも知れないな。楓ちゃん酔ってきたみたいだね」


「私も、深瀨さんの事を心配していたのですよ。これが飲まずにいられますか」


「悪かった。」


「貴方を心配する人は、貴方が思っている以上に居るのですからね」


「社では結構煙たがられているけどなぁ」


「そういう人も居れば、瀬川さんみたいに、慕う人も居るってことです。本当に孤独になるって寂しいものですよ」


「だろうね、あの子も独りで埋められて、寂しかったかもな」深瀨は、事件の事に話しを戻して、自分への非難の矛先をかわそうとした。


「いえ、あの子は独りでは無かったかもしれません。」栂坂は、静かに言った。「今度の事件に私なりの推理を加えてもいですか」


「どういう推理だい?」深瀨は、身を乗り出した。「面白そうだね」


「何故、子供を公園に埋めたかです。」


「楓ちゃんなりの見解があると」


「ええ、実家に近いという理由だけでは子供を一人ぼっちで埋めてしまうのは可哀想ではありませんか?」


「そうだね、確かに」


「桜庭さんの、お母さんは喜山に嫁いでのち、失踪してしまいました。」


「まさか?」


「同じ場所に、既に埋められていれば、お婆さんと一緒だからきっと寂しくは無いでしょう。桜庭さんは、幼い時に実の母が殺されて埋められるのを見てしまったのかも知れません、あの作風、生死を匂わせるあの人の作品は、その体験を基にしているのではないかと感じるんです。」栂坂は、喉にビールを流し込んだ。


「それに、深瀨さんは余り読みませんけど、最近の週刊誌は良く調べますね。桜庭さんの母の名もまた、かおるなのです。線香のこうの字ですけど・・・絵の中の墓碑銘は、漢字の薫ではなくひらがなでしたよね。尤もあくまでも、私の推測に過ぎませんが」栂坂は、ゆっくりとグラスを煽った。


「あれは、あの絵の隠された文字は、二人分の墓碑銘かもしれません」


「楓ちゃんの推測なら、桜庭が公園で殴られた理由もそれで、説明できそうな気がする」深瀨は、つぶやくように言った。


「当時は、マンションの工事が始まっていてね。周りの宅地は、建設反対だらけでさ、あの公園も、マンションとバス通りを結ぶために道路にする計画だった、しかし当時の持ち主の喜山が言うには、太平洋戦争末期に公園で空襲の被害者を荼毘に附した経緯があり、その供養もかねて桜の木を植えてあると言って、売る気を示さなかった

 あのドリルはあの桜の幹に穴を穿って、除草剤を穴に入れてしまおうと工事関係者が企んだのだと思う、桜さえ枯れてしまえば、喜山は公園を手放すのではないかとね。しかし、桜庭がそれを阻止した。桜は、彼女にとって子供と母親の墓標なのだからね。」


「そして、桜を枯らそうとした人物にしこたま殴られた・・・のですね」


「多分。」と深瀨は右手で白い液体が入ったグラスを柔らかく握って言った。「そして、あともうひとつ、楓ちゃんの推理に付け加えようかなと思う」


「何です?」


「何故、和夫と恋に堕ちたのか、相手は母を殺した男の実子だぞ。」


「まあ、それでも惚れる時は、憧れの人だったようですし、そこは余り関係ないのではないでしょうか?」


「彼女は、知識欲も貪欲だ。和夫は、確かに彼女にとって、知識欲を満たすのに

充分だった。しかし結果的はどうだ?喜山の家系は和夫で滅んだも同然だ」


「それを、目論んだと?」


「勝手な憶測だよ、和子に魅入られた和夫はすっかり婚期を逃してしまっていたしね。桜庭 柊子として生きていた間も、彼女は和夫と逢瀬を重ねていたのだと思うよ。」

深瀨は、ふっと言葉を切った。


「彼女が仕組んだ一生を掛けた罠じゃあないかな?」


「じゃあ、なんで子供を産んだのです?」


「和夫の子を産んだとなれば、汚名を着せることで、喜山の家に仕返しが出来る。そうでなくても、色香で和夫を籠絡している以上、今後の結婚を妨害する事もできる。桜庭を名乗って居た頃には、考えも及ばないだろうが、喜山だった頃の性格を考えれば、男の一人くらい自分に縛り付ける事ぐらい、彼女には造作も無い事だったと思うよ」


-自分は、どうだ-深瀨はふと若い頃を振り返った。自分もまた彼女の深みに、にすっかりはまっていたじゃないか。彼女には、それだけの魅力が確かにあった。


 雨に濡れた桜の花びらが、体についたまま、離れないように、深瀨の記憶の中から喜山 和子の姿を消すことはできそうになかった。


-それは、喜山 和夫についても同じだ、和子が仕掛けた罠は、生きている限り、和夫の心の中でまとわり続け、彼を蝕み続けるだろう。牢獄の中でさえ、甘い思い出から抜け出られないかもしれない。あるいは、命を全うするまで-


-桜花の罠だ。散ってもまとわりつく、甘い罠だ-


「やはり、今夜は夜通し飲みたい気がします。」栂坂は、カウンターでグラスにビールを注いだ。


「だろ?」深瀨が笑みをみせた。


「貴方は、甘酒です」栂坂は、深瀨のグラスに甘酒を注いだ。


「冷血漢め、抜糸祝いには、樽を空にしてやる」


「そのときは、お金を沢山持参してくださいね」


「桜の樹の下には・・・か」ふと、とある本の題名が深瀨の口を突いた。


「梶井 基次郎ですね」栂坂は、笑みをもらして言った。「檸檬は若い頃に読みましたが、その作品で知っているのは題名だけです」


「皆、そういうものだろ。短い随筆だし。でも、あの桜、本当に綺麗に咲くんだよなあ、あれだけ綺麗だと。確かに何かが埋まっていると考えたくなる」


「外の看板を中に入れてじっくり飲りましょう」と栂坂は、カウンターから出て引き戸を開けた。暖かな春風が吹き込み、一片の桜の花びらが迷ってきたかのように、飛び込んできた。


「おや?まだ桜が?」深瀨は、その花びらの行方を目で追ったが、直ぐに床に落ちてしまった。

「近くに、遅咲きの八重桜がありますから、それでしょう」栂坂は、ゆっくりと扉をしめた。


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