墓碑銘
「さて、やるべきことは全部やった、出来た、終わった、完璧だ」と深瀨は、ビールを掲げた。「ようやった、瀬川。」そして、隣の席で、眠そうにしている瀬川の肩を、もう一方の掌で叩いた。
「先輩、徹夜明けなんですよう」瀬川は、そう言って大きなあくびをした。
「まぁ、明日からしっかり明け休に、代休をとれるんだ、あと一杯くらい頑張れ」深瀨の声は元気に満ちていた。
「本当に一杯だけですよ、というか深瀨さんは、眠く無いのですか?朝まで一緒だったのに」瀬川は、深瀨をとろんとした目で見た。
「眠くないと言えば嘘だが、とりあえず、無事に納品できたんだ。最後のバグを修正してくれてありがとうな」と、さらに瀬川の肩を叩いた。
「良いですよ、あれの墓穴掘ったの自分ですから」瀬川は、グラスにちょっとだけ口を付けた。「そういえば、桜庭さんの遺骨、実家に戻る事ができたそうですね。」
「ああ、受け取ってくれたよ」深瀨は、病院で面会してから、今までの日々をふと振り返った。そのわずかな沈黙の間に、瀬川は、目を閉じて眠りに落ちそうだった。
起こそうとすると栂坂が小さい声で「そっとしてあげましょう」と窘めた。
「まぁ、自力で帰れそうに無かったら私の家にでも連れ込んで毛布でも掛けてやるか」
「犯してはだめですよ。まだチェリィかも知れませんし」栂坂は、くすりと笑った。「深瀨さんの毒牙に掛かったら、人生を捧げてしまいそう」
「やっちゃおうかな、寝顔がかわいいし」深瀨は、瀬川の寝顔を見てから、残りのビールを一気に流し込み、空になったグラスを差し出した。
「同じもので良いですか?」
「そうして」
栂坂がグラスにビールを注ぐ間の沈黙の中。深瀨は、天井を見上げた。
「考え事ですか?」と不意に栂坂が差し出したビールを受け取った。
「うん、どうしても気になる事があってさ」
「なんです?」
「飲み物は種類があって美味しいのに、なんで肴に関しては貧弱なのかなって」
「まぁ、じゃあ一品作ってあげますね。お腹が空いたのですか?」
「いや、食べるつもりなら駅前でしこたま詰め込むよ、口が寂しいだけ」
「では、軽くでいいですね」と栂坂は、背を向けると酒瓶が詰まっている保冷庫の隅から卵とバターと生クリームを取り出した。
「なんで、そんなところに、そんなものがあるんだい?」
「私の、賄い用ですから」そう言って一つしかないコンロで、カウンターから見ても分かるぐらい、普通だが見事に成形されたプレーンオムレツを作り上げてしまった。
「やれば、出来るのにやらないのだから」とそれを口に入れると、ミルクとバターの香りが口の中で広がった。それを、苦いビールで流し込む。
「ピルスナーにすればよかった。」と深瀨は、苦笑いをした。
「うちのIPAは、とても苦いですから」栂坂は、自分用のグラスを取り出すと、後ろを向いてサーバーからビールを注いだ。
「本当は、違うのでしょう。考え事って」と栂坂は、小さい口にグラスを付けた。
「分かった?」
「ええ、深瀨さんがウチの料理に文句を言う時は、別の問題を気にかけている時ですからね」
「参ったな」と深瀨は、バッグから自分のPCを取り出した。そしてキーを操作して、桜庭 柊子が作成した九相図の4枚目、墓となった死体と桜の図を表示させた。
「彼女が参考にした、小野小町の九相図の最後のシーンでは、死者が灰となり墓だけになった様子が描かれているんだ。そしてその墓には、なにかしら文字らしきものが描かれている。しかし桜庭の作品には、それがない・・・まっさらな墓石だ。それにだ・・・そもそも、この死体は誰を暗示しているんだ?」
「夫であった、北條でしょうか?」
「殺すほど嫌いな奴を絵で残すかな」
「いえ、だからこそこんな不吉な絵にしたのかも?」
「夫なら、それを分からせる為の墓碑銘があっても良いと思うんだ」
「墓の部分を拡大すると小さい字で見えるとか?」
「うぅん、そうだね。やってみようか」と深瀨は、そんな事は無いだろうと思いつつも画像を拡大表示させた。
拡大率を上げると、やがてドットは肉眼でもはっきりとわかる矩形として表示され、似たりよったりの色が画面上に広がった。そこに微妙なグラデーションを感じさせながらも、或る色で、線を描いている事が読み取れた。尤も拡大させたために、全容が分からない。
その線を構成する色のRGBは182、181、217であった。
青みがかった灰色、藍生鼠・・・和夫の着物の色。ASCIIコードのカナのコードでは、カ・オ・ルと変換する事ができる。
「そういうことか」深瀨は、アプリを閉じた。「ちょっとこのアプリでは機能が足りないな」と、画像編集に特化したアプリで同じファイルを表示させた。
「この墓の、RGB(182,181,217)の色を全く別な色RGB(255,0,0)に変換してみるよ。」と、横に座り同じ画面を見ている栂坂に言った。
そこに、赤い文字が浮かび上がった。
-かおるのはか-
「子供を埋めたのかしら・・・」栂坂が、ごくりと唾を飲んだ
「分からない、警察に言うにはちょっと憚れるしなぁ、しかしちょっと確かめて見るべきかもしれない」と言った後で、いびきをかいている、瀬川を見た。「しかし、今はこいつをどうにかしないとな」
「タクシーを呼びますか?」
「ありがとう、頼むよ」
☆
瀬川は、まぶしさに目を細めた。白い天井。自分の部屋ではない。カタカタとキーを叩く音が近くで聞こえた。上半身を起こして辺りを見回すと、大きな背中が椅子の背もたれに見えた。
「深瀨さん?」と言うと、キーを打つ音が止まった。
「起きたかい」と椅子がくるりと回り、すっぴんのままの深瀨がにやりと笑った。
「よほど疲れていたんだね。もう昼になるところだ。」
「すみません、ここ先輩の家ですか?」瀬川は、周りを何度も見回した。
「ああ、お前の家に運ぶのも面倒だからウチに運んだ」
「おれ、変な事していないですよね?」
「していたら、おまえは今頃まだ寒いベランダで一夜を明かしただろうな」
「あの、寝言で変な事言ったりしていませんでした?」
「おまえと臥所を共にする筈ないだろ、私は寝室で寝ていたから、そんな事は分からん。いやらしい夢を見たなら、ソープでも行きなさい。今回のプロジェクトで残業代も相当入っただろ」
「は?・・・」
「さっさと、起きて、食事をしなさい。」
瀬川の寝ているソファの前のテーブルには、コンビニのサンドイッチと紙パックのジュースが乗っていた。
「あの、お手洗いは?」
「部屋を出て左にある」とドアを深瀨は指した。
「お借りします」
瀬川は、手洗いの中に立ち、小用を足しながら、夢の中で起きためくるめくような、深瀨との睦事を思い出した。未だ興奮止みやらぬ体は正直に反応をしたままで、小水をきちんど便器に入れるのに苦労をしていた。
-なんて、ことだ。-夢の中の事とはいえ、合わす顔が無い気がした。全て放出し終わるとようやく、高ぶっていた心に落ち着きが戻ってきた。自分の感情が分からない。
夢の中とはいえ、なんで深瀨先輩なのだろう。
社内ではそのひどく勝ち気な性格故に、異性からも同性からも評判が悪い。しかし、仕事のこなし具合は、部下からの目からみても尊敬に値する。
-恋というより敬愛というべきかな、きっとそうだ。そうに違いない-と自分に言い聞かせた。
部屋に戻ると、深瀨は椅子に座ったままディスプレイを見ていた。振り返った顔を見て、瀬川はどきりとした。そんな彼の表情に何かの機微を感じ取ったのか、深瀨はその薄い唇を小さく開いた。
「何か?」
「いえ、良く働きますね?」瀬川は、慌てて返事をした。
「自宅で仕事はしないよ、そもそも会社のデータを持ち出せないしね。それより早く食べなさい、食べたら一寸付き合ってほしい所がある。」
「飲むんですか?」瀬川は、ソファに座り、サンドイッチの回りを包むシートを剥がしにかかった。
「人を、飲んべえみたいに言うな。」
「すみません・・・で、どこに行くのですか?」
「桜庭が最初に見つかった公園だよ。」
「桜庭さんの?どこです?」
「O区」と言ってから、深瀨はPCに挿してあったUSBメモリを抜き、続いてそれをタブレットに差し込んだ。
☆
電車でも、バスでも二人は無言のまま移動を続けた。それは深瀨が腕を組んだまま、誰であろうと私に話しかけるなというような、無言のオーラのようなものを放ち続けたからだった。バスに乗った時だけ、深瀨は携帯を取り出して、誰かにメールを送った。
その沈黙の時間は、瀬川にとっては上司である深瀨の会話のとっかかりを探すという、彼にとっては苦手な事を考えなくて良かったが、やはり長すぎる会話の欠如は重くのしかかってくる気がした。
彼は、外の景色を見ていた。線路沿いの桜並木、バス通り沿いの桜並木、春が暖かな色に染まり初めている事に、気がついた。年が明けてから、年度の終わりに向け、頭の中は仕事の事ばかり、通勤電車の中から景色を見るという余裕さえ無かった。
-花見でもやりたいな-同期の連中からは、LINEで花見の誘いがあったが、仕事の終わりが見えない中、ほとんど断りの意味を込めて、行けたら・・・という返事を返していた。新人で、たいした仕事も与えられて居なかったころは、花見をする余裕が、まだまだあったというのに、ここ暫くは参加をしていなかった。
「どう思う?」長い沈黙が、破れたのは公園の中だった。
満開の零れ桜は、はらはらとそよ風に花びらを散らして立っている。地面には、名も知らぬ草が萌え、緑の絨毯を作ろうとしていた。桜の見事さに瀬川は、深瀨のその言葉をぼんやりと聞いていた。
-小さな花見だな。-ふとそう思った。
「綺麗な桜ですね」と彼は答えたが、深瀨は、タブレットを取り出し、そこれに表示された、桜庭の絵を差してから「これだよ」と言った。あの、4枚の九相図の最後、満開の桜の樹の下に立つ無名の墓標だ。
「どう思うって・・・」瀬川は、横からそれをのぞき込んだ。
「絵の中と桜と、この公園の桜。どう思う?」という深瀨の言葉に、瀬川は、何度も目を公園の桜と、絵の中の桜を行き来させた。
「似ていますね・・・いや、この木を描いたものではないですか?」瀬川は、タブレットに表示された樹を指した。
「桜庭の家は、近かい場所にあったからね。で、画像編集アプリで或る色を赤に変えたのが、この画像だ」と、編集した画像を表示させた。
「かおるのはか・・・ですか」瀬川は、園内を歩き始め、そして桜の木から少し離れた場所に立った。
「この辺りが、絵の中の墓の位置になりますかね」
深瀨は、タブレットと瀬川の立ち位置を見くらべた。
「もう半歩右かな」
「こうですか?」と瀬川はわずかに横にずれた。
「そこだ。そのままじっとしていてくれ」
深瀨は、ポケットから小さい骨片を取り出して、瀬川の近くに歩み寄った。
「絵の中の我が子の墓と共に眠るといい」鞄を横に置き、そこから移植ごてを取り出して、穴を掘り始めた。
通りを行く人が、不審者を見るような目付きで深瀨と瀬川を横目で見ては通り過ぎて行った。誰かが、二人の様子を見て喜山の家に駆け込んだ。
「深瀨さん、手伝いましょうか。」瀬川が、交代を申し出た。
「ありがとう、さすがに硬い」と移植ごてを瀬川に渡した。
瀬川は、決して腕力のある方ではない、両手でこての握りをつかんで、突き刺すようにして地面に穴を開けた。やがてその移植こての先が柔らかい布の塊に触れた。
「何をしている!」えらい剣幕で、喜山 和夫が走って来た。手には、棍棒のように大きなマグライトが握られていた。そして、瀬川の足下にある穴を見つけると。
「それを早く埋めろ」と瀬川をにらみつけた。
「深瀨さん・・・」と瀬川は、こてを持ったまま深瀨の後ろに回り込んだ。
「ええ、埋め戻しますよ。ただし、この穴の中にあるものを掘り出してから」
「そこには、何もない」
「私も何も無いと思っていました。」と穴の奥にある布きれを横目で見た。「でも、そうではなさそうです」
「埋めろ」と喜山のマグライトが深瀨の頭めがけて降り落とされた、深瀨は鞄を手にしてそれで頭を庇ったが、タブレットが壊れる音がした。
さらにもう一撃、鞄と共に庇おうとした腕にマグライトが当たった。猛烈な痛みが、腕から背中に突き抜け、盾として使ったタブレット入りのバッグを落とした。折れたと深瀨は認識した。しかし、まだ体は動くと信じた。
「瀬川、逃げろ!」という叫びをあげ、さらに一撃を頭を庇った腕で受けた。
さらにもう一度、マグライトが振り上げられると、瀬川が後ろから飛び出して、喜山の足にタックルをした。喜山は、後ろに倒れ込み、手からマグライトが離れた。マグライトを手にしようともがくが、喜山の両足を瀬川の両手がしっかり抱え込み、動きを封じていた。深瀨は、傷みに顔をしかめながら歩き、喜山の手の先に転がっているマグライトを蹴利飛ばした。喜山は、顔を上にあげ彼女をにらみつけたが、片足を瀬川の腕から抜くとその脚で彼の頭を蹴りながら束縛を解こうと必死にもがいた。
「遅くなりました!」とそこへ、自転車に乗った警官がやってきた。「武藤さんから、頼まれまして」と修羅場に駆け寄ると、あわてて警棒を取り出した。
「遅いよ。」深瀨は、よろめきながらつぶやいた。